神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

宮本常一が書きたかった小説


「常一略年譜」(『父母の記/自伝抄』、未来社、2002年9月)によると、

一八歳 大正十三年
(略)
しかし本だけはたえずよんだ。(略)本は主として中学教科書だったが、矢野のおばあさんの息子が家へ少々本をおいて行ったので(略)それをかりてよんだ。
谷崎潤一郎傑作集』*1、『泉鏡花傑作集』、『一葉全集』、『独歩全集』、『東山の麓から』(成瀬無極)、『岡崎夜話』(成瀬無極)などがそれであった。


二十一歳 昭和二年
(略)
かえると一カ月一万頁読書を計画した。まず『川上眉山全集』から手をつけ、自然主義時代の代表作をほとんどあさってよんだ。そうして啄木、藤村などの位置をはっきり知ることができた。卒業までの日に、ざっと二万三〇〇〇頁ほどをよんだ。これによって明治文学を大体明らかにするを得、且つ大正文学のアウトラインをつかんだ。
再び独歩をよみ、菊池寛芥川竜之介有島武郎などの作品にも接した。そうしていよいよ作家志望を強くした。


作家を志望した宮本だが、昭和6年柳田國男と知り合い、民俗学に興味を抱くことになる。しかし、その後も宮本には書きたい小説があった。


宮本の日記*2によると、

昭和25年6月24日 午后、神田へ出る。『チャタレー夫人』を買う。


昭和25年6月24日 アサ子のために『チャタレイ夫人』をよんでやる。それは私が今も書いて見たいと思って居た世界である。森の家でメラーズと交わる二人の姿は限りなく美しい。


宮本が作家となる道を選択していたとしても、おそらく無名のままで終わった可能性が大きいであろう。彼は、その文才を民俗学の分野で生かしたのであった。
宮本常一のまなざし』(みずのわ出版、2003年1月)で佐野眞一は次のように書いている。

土佐源氏」という傑作がある。土佐山中に住む盲目の元馬喰が語る哀切な色ざんげを聞きとったこの作品によって、宮本は単なる民俗学者という立場をこえ、特異な才能をもつ文学者としての評価を獲得することになった。


追記:「土佐源氏」は『民話』第11号(昭和34年8月)掲載。井手幸男「『土佐源氏』の成立」(『柳田国男研究年報3 柳田国男・民俗の記述』所収)によると、「土佐乞食のいろざんげ」(青木信光編『好いおんな⑥』図書出版美学館、昭和57年10月)が「土佐源氏」のオリジナル版ではないかという。小谷野敦『性と愛の日本語講座』(ちくま新書)68〜70頁にもこのことについて言及あり。


追記:トマス・ハリスハンニバル・ライジング』(新潮文庫)を見る。前作には、がっかりさせられたが、今回はどうか。

*1:『潤一郎傑作全集』全五巻(春陽堂、大正10年1月〜11年5月)か。

*2:宮本常一 写真・日記集成』別巻、毎日新聞社、2005年3月