神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

戦時下の北京燕京大学の謎


中薗英助鳥居龍蔵伝』(岩波現代文庫、2005年9月)中の鳥居の年譜によると、


1939年5月 中華民国北京の米国ミッション系燕京大学(レイトン・スチュアート校長)から招聘され、8月その客座教授に就任。


1941年12月 太平洋戦争勃発のため北京燕京大学は閉鎖され、北京において一時軟禁状態に置かれるも、研究を続行した。


1945年8月 敗戦により大学再開(スチュアート校長は駐華米国大使)とともに再び客座教授となる。その後帰国するまで蒙古を中心とする遼代文化の研究を続行。


日米開戦により、米国系大学が閉鎖され、日本の敗戦までその状態が続くのは当然だと思っていた。ところが、藤澤親雄の年譜*1中の「経歴年譜抄」を見ると、


昭和18年 国民精神文化研究所を辞し、陸軍省の委嘱により北京に赴任して北京燕京大学にて講座を持ち、中国人の教化事業に従事す。この時期北京市に「興亜世界観研究所」を開設し所長となる。


昭和20年8月、終戦、占領軍指令により追放(但し身柄は北支にあり)絞首刑の噂あり中国人の教へ子に匿る


昭和22年 北支より帰国、市ヶ谷国際軍事裁判にて日本側弁護人としてA級戦犯佐藤賢了中将の弁護をなす


これによると、軍により燕京大学が再開されていたことになるが、本当だろうか。この藤澤の年譜には間違いが多いのであまり信用はできないのだが、燕京大学に関する記述は具体的なので一概に否定するのもどうだろうか。


龍蔵の妻きみ子は、開戦当初の「軟禁状態」について、次のように回想している*2

あちらへ行つて三年目の十二月、八日の朝はまだそのことを知らないでいて、やがて伝つた真珠湾攻撃の報に胸を衝かれました。翌日大学は閉鎖され、米英人の教授その他関係者は伴れて行かれて維縣の収容所に入れられました。スチュワードさんも城内に留められ、私共もハーヴァード関係の者として燕京を退去させられ城内の某所、軍属の人達の家のならんだ一番奥の家に入れられ、買物に出ることだけは許されていました。


この夫人の回想でも、戦時中に燕京大学が再開されたなどということは記されていない。はたして、「偽燕京大学」ともいうべきものが存在したのか、謎である。


(参考)中薗の書によると、「燕京大学はハーヴァード大学とも姉妹校のアメリカ系ミッション・スクールで、当時の北京西郊の海甸(現在市内・海淀区)の頤和園近くに広壮なキャンパス(現在・北京大学)をかまえる総合大学であった」


ところで、藤澤親雄は、仲木貞一にチャーチワードのムー大陸説の原書を貸したり、竹内文献契丹古伝などの偽史運動で知られるトンデモ系の人物である。最近は、大塚英志先生が、柳田國男と藤澤の接触について着目しておられる。しかし、私は、藤澤という怪人の最大の謎は、大陸における活動に隠されていると思っている。

*1:『創造的日本学』(日本文化連合会、昭和39年2月)

*2:「燕京大学の思い出」(『婦人之友』46巻2号、昭和27年2月)