神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『日本アナキズム運動人名事典』で坂本紅蓮洞を読む


『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版、2004年4月)は、「水木しげる」まで記載されているなど、通読しても面白そうな本である。私は、通読まではしていないが、だれが記載されているかだけは見た。


坂本紅蓮洞について見てみると、

坂本紅蓮洞 さかもと・ぐれんどう 1866(慶応2)2頃−1925(大14)12.16 本名・易徳 東京生まれ。慶応義塾理財科を出て教員や新聞記者をするが長くは続かなかった。03年に『明星』に「文芸家の表彰に就いて」を書き、学問に学位令があり学士会院があるように、文芸、音楽、美術を表彰する芸位令を制定せよと主張。日本芸術院をイメージしたもっとも早い時期の発言ではないかと思われる。多くの文章を残していないが、与謝野鉄幹吉井勇をはじめとして多くの文学者と交友を結び、酒を求めて渡り歩いた。佐藤春夫の『都会の憂鬱』、久保田万太郎の『独身会のおもひで』、水上滝太郎の『貝殻追放』などに紅蓮洞の奇人ぶりが表現されている。吉井勇が発起人になって紅蓮洞後援会を作り、晩年の生活を支えた。


この項目の執筆者は大月健氏。この後に、吉井の歌とか、著作、参考文献も記されているが省略。坂本に対する晩年の支援については、幾人かの日記で見ることができた。事典中の後援会と同じものかは不明*1


岡本綺堂日記』(青蛙房、昭和62年12月)には、

大正14年8月27日 坂本紅蓮洞君重態に付、病紅蓮洞後援会をいふのが作られ、わたしにも寄付の交渉があつたので、承諾。すぐに為替で見舞金を発送。


大正14年12月17日 新聞をみると、坂本紅蓮洞は昨朝遂に死去したといふ。


坪内逍遥の日記*2には、

大正14年8月25日 病紅蓮洞後援会(中央新聞社内)へ20を送る


後援会の支援もむなしく、紅蓮洞は大正14年12月16日亡くなってしまう。


また、2月9日に紹介したように、秋田雨雀三上於菟吉の許を訪れたときに坂本がいるのは、岩橋邦枝『評伝長谷川時雨』(講談社文芸文庫、1999年11月)に「また、彼女は、数学にも造詣の深い友人坂本紅蓮洞(批評家。文壇劇壇の消息通で、奇行とデカダンでも知られた)を、小学生仁の算術の家庭教師につけた」ということで理解できる。時雨が、甥(弟虎太郎の子)仁を母親代わりに育てたのは、仁の母が死んだ後の大正4年の末から大正8年春までの生麦時代と、大正10年9月頃以降なので、大正8年11月に坂本が三上宅にいたのは仁の家庭教師との関係はないか。


坂本について、初めて知ったのは、多分、朝日ワンテーママガジンの『20世紀ニッポン異能・偉才100人』。坂本の項目の執筆者は、坪内祐三


追記:『日本アナキズム運動人名事典』は、参考文献が各項目ごとに記載されていて有益な書。以前、森洋介氏から、この事典により私が興味を持つような人間がイモヅル式に見つかるであろうと教示されたが、まことにその通り。時間があれば、全員通読したいものだ。坂本の他には、梅原北明、大槻憲二、大西伍一、岡田虎二郎、小倉清三郎、上山草人きだみのる澁澤龍彦、仲木貞一、野依秀市宮武外骨安成貞雄・二郎、矢野竜渓柳瀬正夢、吉江喬松なども立項されている。

*1:『20世紀ニッポン異能・偉才100人』(朝日新聞社、1993年11月)中の坂本の項目に、大正14年8月15日付けの新聞の写真が掲載されている。それによると、長田秀雄、吉井勇らが発起人となって紅蓮洞病気慰安の喜捨金を募るとあるので、同一の可能性が高い。

*2:『未刊・坪内逍遥資料集』第3巻(財団法人逍遥協会、2001年11月)