神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

秋田雨雀は見た!三上於菟吉と長谷川時雨の同棲(その2)

秋田雨雀日記』第1巻からの引用を続ける。

大正9年3月6日 午後二時から、築地本願寺の中谷徳太郎君の法事に出席した。中谷は木場材木商関係の家の子供で、文学青年として長谷川時雨女史と親しんで、後では同棲生活をしていた。早稲田の文科の聴講なぞをしていた。文才のある男だったが、官能的な一種のインセニティをもった男だった。死の直前には、長谷川女史と離れていた。


大正9年11月11日 ひさしぶりで、三上於菟吉君、長谷川しぐれ女史を訪い、三人で牛込館の活動をみた。早川雪洲がでていた。


秋田によれば、長谷川時雨と同棲したことがあるのは、三上だけではなかったのだね。
中谷徳太郎が亡くなったのは、大正9年1月18日。長谷川仁・紅野敏郎編『長谷川時雨−人と生涯』(ドメス出版、1982年3月)中の「長谷川時雨略年譜」によれば、


 明治37年 帰京、早稲田の学生、中谷徳太郎を知り演劇に熱中。共に演劇、恋愛論を戦わす。
 明治45年 演劇研究誌「シバヰ」を中谷と創刊。意見の相違から五号で終わる。


もっとも、『シバヰ』は、
第1次が横山正雄を編輯兼発行人として明治45年1月から7月まで全7号を刊行(三上、長谷川は執筆者)
第2次が中谷徳太郎を編輯兼発行人(第5号は加えて、長谷川時雨を編輯責任者とする)として大正2年2月から7月まで全5号を刊行 が正しい。


長谷川の死については、同日記第3巻に出ている。

昭和16年8月22日 長谷川時雨女史は今日午前三時慶応病院で死んだ。六十三才。(略)長谷川女史は生粋の江戸っ子で封建趣味の濃厚な人だった。明治四十四年ごろは中谷徳太郎と一緒だったが、そのころたびたび往復もしたし自分が肋膜で箱根静養の時は世話をしてくれた。大正八、九年ごろは三上於菟吉と牛込に同棲していた。最近は「輝く部隊」を統率していたが、行動は正しいがちょっと行きすぎをしていた。


秋田が、「大正八、九年ごろは三上於菟吉と牛込に同棲していた。」と書いているのは、特に印象に残っている時期だけを書いたものか。長谷川の伝記では、三上が牛込赤城下に住んでいた時は半同棲(生麦の実家から通っていた)、牛込矢来町への転居(秋田の日記によれば、大正8年4月24日から5月17日までの間に引越し)と共に、正式に世帯をもつとされている。秋田の日記を見る限りは、矢来町への引越しの前後で特に変化があるようには見えないけどね。


ところで、小田光雄「古本屋探索7 三上於菟吉の出版事業」(『日本古書通信』平成14年10月号)には、「大正十一年に元泉社(共同経営社の直木三十五によれば原泉社、他の資料では玄泉社)という出版社をおこし、白井喬二の『神変呉越草紙』など十数点を刊行するが、関東大震災で潰れてしまう。」とある。しかし、秋田の日記の大正8年5月17日の条にある「出版書肆をひらく」に関する記述はない。三上が秋田の説得に応じて断念したか、直ぐに潰れたか、謎である。


ちなみに、谷崎潤一郎は『青春物語』で、紅葉館における読売新聞社主催の新年宴会で「横山大観鏑木清方長谷川時雨女史・・・・・私はさう云ふ人達を知つた。」と書いているので、明治45年1月4日が初対面となる。


追記:それにしても、皆さん、東京マラソンで42.195キロもよく走れるね。わすは、神保町−九段下間なら何とか走れるかも(汗