神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

中央公論編集者雨宮庸蔵と谷崎潤一郎(その2)


ある人(志賀直哉に非ず)の日記に、


昭和10年2月2日 父さんは二時過嶋中氏と出版部長の雨宮氏と云ふのに会見。四冊で六円のものして、四月から配本して七月には出して仕舞ひ度い意向の由、謡曲をよみものとした全集は佐成氏のもの以外には近ごろ出ず、それはわりに高くつて一般的でないので、そのチープ・セリズを出さうとするのである。中央公論では大分息ごんでゐるらしいので、もし旨く行けばまとまつた金が出来る筈だ。


昭和10年5月21日 午後雨宮氏今日出来上つた謡曲全集十部をとゞけてくれる。中々美本に出来上つた。これで売れさえしたら申分なしである。雨宮さんのクルマで父さんは松本さんのところへけいこに行く。


昭和10年5月23日 虹の花の筋書を新しく書いて、雨宮さんが校正の主任の人をつれて来たのでその人に渡し、社にとゞけて貰ふ。


昭和10年5月29日 △雨宮さんと校正の人がおひるまへ来訪。さばずしを出す。(略)
△雨宮さんは谷崎潤一郎と仙台に行つてゐた。山田孝雄謡曲全集によりスイセン文を書いてくれた。彼はほんとうにえらい学者らしい。こんな人から認められるといふ事こそユカイである。


昭和11年5月18日 午前雨宮氏来る。(略)
谷崎潤一郎が源氏の現代語訳を出す由、その絵のことで雨宮氏は長野草風のところへ廻る。


さて、この日記を書いた人は、何度も紹介したことのある野上彌生子。「父さん」とは、夫の野上豊一郎のこと。引用は『野上彌生子全集』第Ⅱ期第4巻、第5巻。ところで、同日記には雨宮に関する面白い話が書いてある。昭和11年4月15日の条で、雨宮は野上に今度総務部長になったと言っているのだが、そのような事実はなく、その後、『婦人公論』をめぐるある事件の過程で同事件に関わった野上にばれたことが9月7日の条に書いてある。雨宮は野上にいい格好をしたかったのだろうか(なお、雨宮は当時、出版部長。昭和12年1月に『中央公論』編集長に復帰*1)。


(おまけ)某女史向けのネタ。野上の日記(第Ⅱ期第4巻)に次のような記述がある。「昭和10年12月7日 午前箕輪氏来訪。奇術師のアベ氏の話おもしろし。」


2月12日からNHK(BShi)で「むかし、男ありけり」。白洲次郎青山二郎開高健植草甚一檀一雄の5回。
むかし、「男」ありけり。今は、「オタ」とか「せどり師」あり・・・


追記:『新潮』3月号四方田犬彦「先生とわたし」って、立ち読みしかけたけど、すごく面白し。

*1:小谷野敦谷崎潤一郎詳細年譜」による。