神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

中央公論編集者雨宮庸蔵と谷崎潤一郎(その1)


中央公論の編集者に雨宮庸蔵という男がいた。
志賀直哉全集』第16巻(岩波書店、2001年2月)の「日記人名注・索引」によれば、


雨宮庸蔵 あめのみやようぞう 明治36・1・1−平成11・12・2
通称「あめみや」。早大社会哲学科卒。昭和3年9月11日、中央公論社に入社。「中央公論」編集部長、出版部長として活躍したが、昭和13年3月30日、「生きてゐる兵隊」事件の責任をとって退社。戦後は読売新聞社に入社し、科学部長、論説委員などを歴任した。著書に『偲ぶ草』等がある。


雨宮は、谷崎版の『源氏物語』などの担当として知られる。
『木下杢太郎日記』第3巻(岩波書店、1980年3月)で彼の動向を見てみよう。


昭和8年5月27日 午后二時半ホテルに中央公論の雨宮及一名訪ね来り、共に出でゝ 榛原、川島にて紙、壁紙などを見た。谷崎の青春物語の表紙に関して也。
それより武侠社といふ処を捜る。


昭和8年6月17日 谷崎昨日の読売に本の装幀のことかき*1、予を引合ひに出せし由佐藤君語る。


昭和8年7月9日 夜谷崎潤一郎君の為めの「青春物語」表紙の試印加筆、カツト二枚出来、郵便にて送らす。


昭和10年5月27日 朝七時谷崎潤一郎より電話かゝる。
夜六時五十分、谷崎中央公論の雨宮庸蔵と尋ね来る。及び小宮と三人にて春日にて夕飯。両人は十時五十分の汽車にて立つ。
谷崎は源氏の現代語訳を作るにて、山田孝雄さんを訪ねて来れるなり。


従来の年譜では、谷崎と雨宮が仙台の山田孝雄を訪問したのは単に昭和10年の春*2としているが、これにより5月ということになる。いや、もっと狭めることが可能だ。小谷野敦版年譜によれば、5月25日に星ケ丘茶寮で『経済往来』の座談会に出席している。これは夕方に開催されているから、5月26日又は27日に仙台の山田を訪問したとしてよいだろう。
この時期の雨宮は別の人物の日記でも確認することができる。


(その2)へ続く。


追記:『週刊朝日』にて、内澤旬子『世界屠畜紀行』(解放出版社)への著者インタビューを見る。内澤さんの写真も見た。以前見た写真と感じが違っていた。小谷野敦氏による秋山駿『私小説という人生』(新潮社)の書評もあり。 

*1:「装釘漫談」(原題「装幀漫談」)のこと。

*2:谷崎は、「あの頃のこと(山田孝雄追悼)」で「翌十年の春の末、仙台に桜が咲いてゐる頃に、始めて先生のお宅へ御挨拶に上つたのであつた。」と記している。