神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

谷崎潤一郎の第1回支那旅行と木下杢太郎


谷崎潤一郎の第1回支那旅行は大正7年10月出発。その前に準備のため、9月上旬には上京したとされる。この時期に、満州から一時帰国していた南満医学堂教授兼皮膚科部長木下杢太郎と会っている。


大正7年9月4日 ○揚出し 上野 小糸源太郎・鏑木清方谷崎潤一郎・長田


「揚出し」というのは、上野池之端にあった小絲源太郎の生家たる料亭*1。木下の歓迎会だったのであろうが、翌月奉天の木下宅に逗留する谷崎が、木下と支那旅行に関する打ち合わせもしたでことであろう。
引用は『木下杢太郎日記』第2巻から。谷崎の支那旅行に関して詳述する西原大輔『谷崎潤一郎オリエンタリズム 大正日本の中国幻想』(中央公論新社、2003年7月)では言及されていない。


鏑木とは、明治45年1月4日に芝の紅葉館で催された読売新聞社主催新年宴会で、初めて会ったと思われるが、小糸との最初の出会は、いつであろうか。


谷崎と木下とは、既に見たようにパンの会で確実に2回は会っている。
その他、確認できるのは、大正5年9月21日付け長田秀雄の太田正雄(木下の本名)宛書簡*2によると、木下の満州赴任に当たり、見送り(木下の日記によれば大正5年9月7日)に「停車場」に来た人として、吉井、弟(長田幹彦)、春陽堂主人、与謝野夫妻などを挙げた上、「その外谷崎は君の言に従つて行かなかつたさうだ。よろしく云つてくれと云ふ話だつた。(略)美術院の展覧会が開かれた。俺は谷崎と二人で行つてみた。(略)俺たち素人の眼では一体去年程振はないやうだつた。長野草風氏に会つたから聞いたら、同氏もやはりさう云つて居られた。」とのこと。


後に『潤一郎訳源氏物語』の装幀を行う長野草風にこの時点で出会っていることも興味深いが、それよりも木下が見送りに来ないように谷崎に言ったのは、もしかしたら汽車恐怖症と関係があったりして・・・


もう一つ、明治・大正期の谷崎と木下の交際を示す資料がある。神奈川近代文学館の『木下杢太郎文庫目録』に谷崎の書簡として、明治45年1月1日、昭和8年5月24日・7月12日の3通が挙げられている。後二者は『木下杢太郎宛知友書簡集』に収録されているが、明治45年の書簡は収録されていない。年賀状だろうから、たいしたことは書かれていないのだろうけれど、横浜まで行かないと読めないのだろうか。

*1:「揚出し」については、谷崎は「上山草人のこと」で「草人もよく私と一緒に亀島町の偕楽園、揚げ出しの小絲源太郎君の所などへ花[花札のこと]をやりに行つた。」と書いている。

*2:『木下杢太郎宛知友書簡集』上巻、1984年7月、岩波書店