神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

柳田國男と谷崎潤一郎のファースト・コンタクト(その2)


明治42年11月27日に開演された自由劇場の公演について、谷崎は『青春物語』で次のように記している。


自由劇場が第一回の旗挙げとしてイプセンの「ジヨン・ガブリエル・ボルクマン」を試演した時に有楽座の舞台で挨拶する小山内君を、観客席にゐて眺めたことがあつたのである。(略)あの有楽座の階上階下にぎつしり詰まつた観客は、一人として氏の風采と弁舌とに魅せられない客はなかつたであらう。

この小山内薫が挨拶している時に、柳田は会場に入ってきた。
岡谷公二柳田国男の青春』(筑摩書房、1991年2月)によると、


国男がこの公演をどう見たかは、彼自身何ひとつ語っていないのでわからない。ただ私たちは藤村の筆によって、開演にさきだち、小山内薫が舞台で挨拶の言葉をのべているとき、扉をあけて入ってきて、「ヤ、passionateなところへやつて来たネ」と言ったり、「ぼくらにはこんな時がなかつたよ」と言ったりした国男の姿を知るばかりである。


「藤村の筆」とは、島崎藤村自由劇場の新しき試み」(『後の新片町より』所収)のこと。
『定本柳田國男集』の索引には谷崎の名は見当たらない。現在刊行中の『柳田國男全集』の索引篇が早く出ないかしら。


前掲の島崎の記録には、結局、谷崎については、何も記されていないが、明治44年6月1日の自由劇場第4回試演を柳田、中沢臨川等と同じ桝で見物したとして、次のように記している。


嘗てマーテルリンクの戯曲を愛読した柳田君の眼には此芝居は余程深く感じを与へたらしかつた、同君は日頃好んで研究される「山人」を見るやうな眼附をして聖アントニウスを見て居られた。そしてお伽芝居でも見るやうに、あの聖者の頭が電気の光で輝く度に「思ひきつたものだね」等と言つて居られた。


「山人」を見るような眼附の柳田國男*1という描写はとても興味深いね。

*1:このエピソードは従来の柳田の年譜には記されていない。