野上彌生子の日記や書簡には、多彩な人物が登場して多少楽しめた。
谷崎潤一郎の名前も登場するので、その一部を紹介すると、
昭和32年1月1日 ラヂオ年賀状といふので、いろいろな人の声をきく。谷崎潤一郎の調子がすつかり下町のおつさんなのに一寸おどろいた。思へばあたりまへの事であるが。*1
昭和39年1月18日 この間の日記をすつかり怠つたわけだが、昨日の金曜日には新潮社の小島[喜久江]さんが来た。文壇話をいろいろきく。佐藤春夫のひとり児の実子はK・Oの心理をでてその助手をしてをり、その生活費をしよつてをり、谷崎氏との間の娘で細君のつれ子の方の面倒も見るから中々フトコロ加減がよくないとの事。その谷崎はまた源氏物語の訳し直しで熱海から東京のアパートに移転してゐるが、その高級アパートに瀬戸内さんもいまは入つてゐて、文豪と同じ釜の飯をたべてゐるのを誇つてゐる。ホテル式に食堂が出来て、そこで同じく食事する為とのこと。こんなのが所謂文壇の楽屋すずめの噂話らしい。*2
小谷野敦『谷崎潤一郎伝―堂々たる人生』によれば、谷崎は昭和38年11月末に文京区関口台町の目白台アパートに仮住まい。瀬戸内晴美は年譜*3によれば、同年12月同アパートに転居。噂になるのは早いものである。
谷崎と瀬戸内との出会いは、この目白台アパート時代の前にあった。瀬戸内の「極楽トンボの記」*4によると、
「文学者」という人物に、私が生れてはじめて逢つたのは福田恆存氏だった。その前、私は京都で原智恵子の演奏会に行った時、一番前列に座っていられた谷崎潤一郎夫妻をお見かけした。生きている文豪というものを目の前に見て、私は興奮し、ピアノなどさっぱり耳に入らなかった。しかしそれは「見た」だけであった。まさか後年御夫妻と同じアパートに棲む運命になろうとは、その時、どうして予測し得ただろう。
旧谷崎邸(後の潺湲(せんかん)亭)が11月18日、19日公開。とりあえず申し込んでおけばよかった。
追記:90倍の申し込みだったという。→朝日新聞ニュース