神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

日露戦争下の奉天に結集した凄い人達(その2)

「トンデモネタを隠してるだろう」って?
ばれたか!!


酒井勝軍『世界の正体と猶太人』(内外書房、大正13年4月)によれば、酒井は「日露戦役第二年余軍に従ひて奉天城外保霊寺境内に宿営」していたのだ。戦前のトンデモ系人物としては、超大物の酒井も、明治38年奉天にいたのだ。酒井については、相馬黒光にちょっかいをかけた人物として紹介したね(4月5日参照)。


そして、「明治38年」「奉天」「黄寺」とくれば、トンデモ系に強い人は、既にピンと来ていたであろう。そうだね、契丹古伝が発見された時、場所だね。


耶律羽之原編・祖光濱名寛祐訳著『契丹古伝詳解全』(東大古族学会、昭和9年8月)によれば、


之を得たるは今を距る二十余年の昔なる日露戦役中の事であつた。当時鴨緑江兵站経理部長として奉天城外の黄寺に良久しく滞陣し居たる際、部内に廣部精といへる軍人にして且つ学者なる人がゐた、(略)嘗て亜細亜言語集の著もある程なれば、旁ら支那語を善くし、寺僧と往来して文墨の交を為せるが、或日寺僧一軸の巻物を繙き示し、如何に按し見ても不可読なる此の古書、若しや日韓諸部の古語にても混じ居れるには非ざるかとの問に、廣部氏受けて読んで見たれど読めず、因つて予に試に見たまはずや、不思議なる物なりとのことに、赴きて観覧したれど、勿論予に読めるわけもないので写取つて置かば何人か読みもすべしと、氏にそれを依嘱したるが、寺僧頑として容さず、聞けば某陵のどこかの秘物なりとか、兵禍に罹るを恐れて東方のどことかへ移したのを、其の附近亦危しとあつて、密に保管を黄寺に托せるものと云ふ、それより幾日か経て後、支那に行はるゝ或種の事が、廣部氏によつて庫院の内の或者に施され、遂に写取ることを得た 一本は廣部家に今もあるべし

さて、問題は契丹古伝が発見されたとされる黄寺と、内藤湖南の日記に出てくる黄寺が同一のものであるかどうかだ。
内藤の『満洲写真帖』*1によれば、「奉天ノ西ニ黄寺アリ本名ヲ實勝寺ト云ヒ掌印達喇嘛ノ住セル勅建ノ寺院ニテ満洲ニ於ル喇嘛教ノ総本山ナリ清太宗崇徳年間ノ創立ニカカル」という。


また、濱名寛祐自身が黄寺について詳説したものは見当たらないが、藤澤親雄「神国日本の使命」(「文藝春秋」昭和17年5月号)には、「日露戦争中、濱名主計少将は、奉天の東陵に於て偶然契丹神話と称する珍書を発見した。」とある。
奉天ノ西」と「奉天の東陵」では、おそらく別の黄寺と解した方がよいのだろう(ググってみると、もともと「黄寺」は固有名詞ではなく、ラマ教黄教派の寺のことらしい)。


以上、見てきたように、日露戦争下の奉天には、トンデモ系人物をはじめ、大谷探検隊や、著名な学者・軍人が結集していた。謎の古史古伝、「契丹古伝」をめぐって、日露の軍人・学者たちが争奪戦を繰り広げたというSF的妄想を抱くことも可能だ。
6月10日に紹介したように、森鴎外は、明治42年4月に濱名寛祐と会っているし、大正10年8月には山縣有朋偽書「富士文書神皇紀」について話をしている。でも、小谷野敦氏同様、合理主義者のわしは、これは偶然だと考えるのであった(と、一遍言うてみたかった)。


(参考)
水野梅暁が出てくる『松本学日記』(9月29日参照)だが、大谷光瑞は出てこない。ただし、大谷尊由は昭和10年12月26日、11年1月20日、12年10月15日の条に出てくる(索引のない300ページもある本だから、斜め読み再読にちかれた)。そのうち、昭和10年の分を紹介すると、

晩は黒面会、蜂龍に開く。中野武二、大谷尊由、裏松友光、井上源之丞、赤星陸治、森岡二郎等出席す。


以上。KATO氏、これで勘弁して。


*ちなみに、わしはトンデモネタは好きだけど、生きたトンデモ系人物は好きくないから、その手の人は見にこないでね(笑

*1:内藤湖南全集』第6巻