芥川龍之介をして東洋史研究をあきらめさせた男、元東洋文庫主事石田幹之助については8月27日、28日にも紹介したけれど、今時、関心があるのは、わし(と谷沢永一先生も?)だけかと思っていた。
ところが、ミネルヴァ日本評伝選の刊行予定リストに、岡本さえなる人による評伝があがっていた。わしが、生きている間に刊行されるかしら(て、いったいわしはいくつやねん)。
他にも、関心をもつ人がいるということで、野上彌生子の日記*1で見つけた石田に関する記述を紹介しておこう。
昭和24年4月15日 行く時、横山邸の先きで要書房の前田夫人が訪ねて来るのに出遭ひ、拾ひこんで、高野邸ではクルマの中に待つて貰ひ、面会を車中で片づけて新宿まで同乗したのは好都合であつた。出版がはじめの調子に行かぬうち明け話いろいろ。石田幹之助氏の*2が150部しか売れない由、しかし考へ方では150売れるのがカンシンかも知れない。
昭和24年6月15日 さて、また長い日記の怠慢をつづけた。(中略)
九日には姉崎先生の七十七歳のお祝いの会に参会。(中略)石田幹之助氏にはじめて逢ふ。西教史の文書文献をプリントにする件についてよい示唆をえた。雨中クルマにおのせして「日大」へ行くまでの短い時間であつたから、他の機会にはもつと多くを知ることができよう。
昭和24年7月9日 この間はまたすつかり日記をなまけてゐる。(これは十四日になつて書く)この日であつたか、昨日の金曜日であつたか石田幹之助氏が午後に来訪。柳田邸の帰りとのこと。父さん*3は留守であつたが、ロトンダで西教史についていろいろ聞くことができ、好都合であつた。
石田の柳田國男邸訪問については、柳田の『炭焼日記』にもあったけど、ここにも出てるね。