神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

後藤象二郎の孫とメディアの支配者


小島威彦の回想*1による、後藤象二郎の孫である川添紫郎の昭和9年のフランスへの旅立ちの様子。


早春を迎えて、川添紫郎の渡仏送別会を牛込合羽坂の深尾邸の二階で催した。山本薩夫谷口千吉水木洋子、長谷川紀兄妹ら早大仏文の仲間で飲みあかした。初夏になってフランス船で鹿島立ちのときは、あたかも明治初期に西園寺の鹿島立ちもかくやと思われるほどの華かさであった。紫郎の実母の新橋の名伎おもんも、その舞踊の弟子たちも引具してやってきた。僕たちも戸田や仲小路とともに、それらの華かな大勢のなかに交って、上甲板で別れの乾杯をあげた。紫郎の不思議な才幹は旧約聖書を思い出させるが、その血のなかに組織化されているのであろうか、祖父の後藤象二郎も親父の猛太郎もアイディアに溢れ、その流れるがままに収斂し統率してゆくイザクからヤコブへ、ヤコブからヨゼフへの血統のように、野を分け川を渉り、どこまでも自分の世界を拡大してゆく。


ここに名前が挙がってはいないが、おそらく川添を見送った人物がもう一人いる。


中川一徳『メディアの支配者』を読んだ人は、戦後フジサンケイグループの議長となる鹿内信隆かもと気づいたかな。
同書には、鹿内が昭和4年早稲田第一高等学院に入学後、演劇に熱中し、左翼的空気の中で脚本、演出を勉強し、仲間として後に社会派の巨匠となる映画監督の山本薩夫らがいると書いてあるけれど、川添については、言及されていない。


鹿内の自伝『泥まみれの自画像(上)』を見ると、芝居仲間には山本薩夫谷口千吉、川添紫郎らがいたとある。


井上清一(大阪万博富士グループ製作委員)「“地球人”川添浩史の生き方」(『文藝春秋』昭和45年4月号)には、


一九三四年の秋、十月にしてはよく晴れた朝、その大学都市の学生会館の図書室で、わたしははじめてパリに着いたばかりの川添君を知った。(中略)
鹿内信隆氏(現サンケイ新聞社長)や山本薩夫(映画監督)らとともに左翼演劇運動に加わり、その故に日本の学園を離れてパリに辿りついた彼の境遇が、わたしの人生体験と共通していたことも、二人を近づけたひとつの要因であっただろう。


とある。ちなみに、川添は大阪万博富士グループ総合プロデューサーであった。

*1:『百年目にあけた玉手箱』第2巻