神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

京都学派と弘文堂


竹田篤司『物語「京都学派」』(中央公論新社、2001年10月)によれば、


三木[清]以後の、下村のいわゆる「若い層」の労作の出版を、弘文堂は一手に引き受け、彼らを世に出すために絶大な貢献をした(「西哲叢書」に次いで「教養文庫」創刊)。いわば「京都学派」発展の蔭の功労者であり(東洋学の「京都学派」についても同様)、同時に自身もまた、それによって大をなし、東の岩波、西の弘文堂と喧伝されるまでにいたる。弘文堂と「京都学派」とのこのような連携は、大正一四年(一九二五)東大を出たばかりの八坂浅太郎が家業を継いだときから始まる。八坂は鹿児島の七高出だが、京都一中では下村寅太郎と同期の親友だった。


西田の門人達と弘文堂とはこういう関係があったのね。
スメラ学塾を研究するには、哲学関係の本も読まねばいかんのだなあ。
ちなみに、本書には「小島威彦と鹿ケ谷の会合」という一節があり、小島の七冊にも及ぶ自伝『百年目にあけた玉手箱』について、


もともと小島の「メモワール」たる同書は、そのような造型的な努力すらいちじるしく欠いている。極限すれば、「垂れ流し」の感すらある。加えて、個々の記述の不正確さは、目に余るほどだ(高齢での執筆ゆえに目をつぶろう)。だが、にもかかわらず、同書は「京都学派」の人間研究において(なかんずく小島が京大を去る昭和三年前後の数年にわたり)貴重なデータを提供している。


として、同書から多くの引用をしている。確かに、記述の誤りは多いが、おそらく記憶だけに頼って記述したものではなく、詳細な記述のある日記に基づいて、自伝を書いたと思われるふしがある。その意味で、貴重な記録であろう。鈴木庫三の日記とともに、小島の日記も広く公開してほしいものである。