国際文化振興会について、岡村敬二氏は『遺された蔵書』で次のように記している。
国際文化振興会とは知的協力国際委員会および「対支文化事務局」を源流として昭和九年四月に設立された財団で、中国だけでなくアジアや欧米各国に対して広く文化事業をうけ持ち、当時の海外文化活動には必ずといっていいほどその名前が見え隠れしていた。そしてまたこの振興会は海外各地に、駐在員を置いたが、そのうち北京は北京近代科学図書館館長山室三良がその任にあたっていた。
としている。また、同会による戦時下の文化活動については、「昭和一六年一二月の太平洋戦争勃発により海外連絡員との連絡も不可能となり実質上こうした文化交換は途絶した。」とあっさり書いている*1。
しかし、書物奉行氏が言うように、すべてが燃え尽きるまで、人間達の活動は行われていたはずである。
柳田國男の仮性図書館本『炭焼日記』にそれをうかがわせる記述がある。
昭和19年7月4日 朝、国際文化振興会の永井松三氏電話、独乙より書物を求めに来たこと、いつ頃の申越しか、いくささなかに余裕のある羨ましいことと思ふ。
戦前の日独図書交流については、何かで読んだ気もするが、思い出せない。
永井松三(1877年3月〜1957年4月)は、外交官。1902年外務省入省、1930年12月外務次官就任(『[現代日本]朝日人物事典』による)。確認したわけではないが、昭和19年当時、国際文化振興会理事長だったと思われる。