神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

未來社創業者西谷能雄の謎(その2)


国民精神文化研究所の所員であった志田延義や山本饒とは異なり、格下の助手であったためか、堀は戦後公職追放を免れ、昭和25年以降國學院大學東北大学東京大学成城大学の教授を歴任。

次に、未來社の創業者西谷能雄について、見てみよう。
西谷能雄(にしたによしお)は、1913年札幌生まれ。新潟県佐渡中学校卒業後、東京外国語大学ロシア語科入学、中退。1937年明治大学文芸科卒、4月弘文堂入社。取締役編集部長を経て、1951年10月退任。同年11月未來社創立。1995年4月没。


弘文堂に勤務していたとなると、9月16日に言及した山本饒との関係が浮かんでくるわけだ。


また、堀一郎著作集の編者である楠正弘は「西谷さんと私」(『ある軌跡−未來社40年の記録』所収)で、次のように記している。


私が西谷さんと会ったのは、まだ未來社ができない以前のことである。私の恩師、石津照璽先生が、最初の著書『天台実相論の研究』の出版準備をされている頃、西谷さんは弘文堂の編集主任であった。この書物の担当者でもあったので、たびたび仙台に来られていたらしい。
(略)東北大学の宗教史の教授として赴任された堀教授と未來社との関係で、西谷さんや小箕さん*1と私とのつながりは深められていった。


小島と石津、堀との交遊については4月27日に言及したところである。こう見ると、西谷と小島は戦前から面識があってもおかしくはない(ただし、石津の『天台実相論の研究』は昭和22年発行)。


もっとも、小島の7冊にもわたる自伝『百年目にあけた玉手箱』には西谷の名前は出てこない。未來社刊行のコラールの翻訳書について第7巻で次のように記しているだけである。


『ヨーロッパの略奪』*2の英訳書と仏訳書を左右に繙いて、その大著の日本訳にとりかかった。(略)僕のスペイン語一人旅も昭和三七年の晩秋に刊行を見るまでに漕ぎつけた。ちょうどその時ドイツ語訳が出来上り、急いで取り寄せ、中央大学の橋本教授*3の支援を得て修正をおえ、(略)漸く年末に未來社より出版することができた。


弘文堂や、未來社の資料を持っていないので、これ以上はよくわからない。
1953年4月から1983年5月まで未來社に勤務した松本昌次の『戦後出版と編集者』も見たが、何もみつからず。
未來社の小箕俊介は、教育大哲学科出身で下村寅太郎の教え子だったというので、小島が戦後創設した国際哲学研究会で小島とともに常任理事であった下村を通じた小箕の伝手だったかもしれない。


坂倉準三から始まったクラブシュメール謎解きの旅も、世界創造社、アルス、旺文社、講談社春陽堂改造社、便利堂、弘文堂に続いて、未來社まで登場してしまった。どげするだ!?


追記:国民精神文化研究所がらみでは、未來社からローウィ『原始社会』(河村只雄・河村望訳。昭和54年4月)なんてのも刊行されている。河村只雄については、書物蔵参照。

*1:小箕俊介。昭和34年未來社入社。後二代目社長となる。平成元年7月没

*2:昭和37年11月未來社から小島訳で刊行。

*3:橋本文夫。戦前、デュルクハイム伯の通訳を担当。クラブシュメールのメンバーであったことは確実と思われる。