『日本の名随筆別巻3 珈琲』中の寺田寅彦「コーヒー哲学序説」*1によると、
ドイツに留学するまでの間におけるコーヒーと自分との交渉についてはほとんどこれという事項は記憶に残っていないようである。(略)
西洋から帰ってからは、日曜に銀座の風月へよく珈琲を飲みに出かけた。(略)一方ではまたSとかFとかKとかいうわれわれ向きの喫茶店が出来たので自然に其方へ足が向いた。
寺田が印象に残っていないという、留学(明治42年3月出発、44年6月帰国)以前のコーヒーとの「交渉」については、幸いにも彼の日記*2に記録が残されている。
明治35年9月9日 青木堂にて珈琲を喫し(後略)
同月10日 帰途本郷のカフエーにて堀見に会ふ。
同月28日 本郷カフエーに行く
明治36年1月9日 本郷カフエーによりたれば年玉とてタオル一枚貰ふ。
同月14日 夜本郷カフエーに行きたるに田岡に逢ひ共に下宿に行く。
同年9月19日 砥上コーヒ店にて佐久間先生に会ふ
同月24日 青木堂にてミルクセーキ呑む
明治37年2月6日 本郷カフエーにて昼食
明治38年9月3日 本郷カフエーにて紅茶呑む。
青木堂、本郷カフエーについては、上記以外にも登場するが省略。
明治35年9月10日の記述のみ、「本郷のカフエー」とされているが、「本郷カフエー」は固有名詞と見てよいのだろう。これが、明治44年のカフェープランタン、カフェーライオン、カフェーパウリスタの登場以後であれば、数あるカフェーの一つに過ぎないが、明治35年9月時点において、東京にカフェーを名乗る店があったとなると、「カフェープランタン」が日本におけるカフェーの嚆矢とされる「定説」に反することになる。
林哲夫氏の『喫茶店の時代』にも記されていないこの「本郷カフエー」とはどのような店であり、また、漱石先生は入ったことがあるのか、色々疑問がわいてくるものである。