神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『蘆花日記』で笑ふ


徳冨蘆花の日記は、基本的にはロリコン親父の妄想日記とも言うべきものであるが、作家や出版人、宗教家などが登場する真面目な部分は資料として使える。石塚純一『金尾文淵堂をめぐる人びと』や、黒岩比佐子『『食道楽』の人 村井弦斎』は日記を活用した例であるが、二人とも真面目なせいか、面白い部分の引用がされていない。そこで、「悪のブログ」(笑)、じゃない、「面白半分のブログ」たるわしが、お二人が引用していない落穂拾いをしてみよう。


大正5年3月2日の条には、


午后、金尾文淵が来た。面会謝絶したら、はゞかりを借り、糞をたれて往つた。大阪人だ。


金尾は、確かに大阪人で間違いはないが。大阪人って、こんなイメージなのか。


大正5年5月30日の条を見ると、


それから”明暗”と弦斎の生食論*1を聞く。蔬菜に施す下肥だけは自家のにしたい、と細君は云ふ。同意。


ちと、汚い話になってしまった。「聞く」というのは、蘆花は、夫人に「婦人世界」を朗読してもらっていたことを指す。


大正3年12月7日の条は、意味がよくわからない。


細君は余の注意で弦斎流のすり芋を額につけて居る。芝居の中老女の如く、三角紙の亡者の様だ。


意味は不明だが、夫人の姿を想像すると、何となく笑えるものがある。弦斎流の健康法か、美顔法ですかね?


毛利宮彦と対立したかもしれない、例の湯浅吉郎も登場する。
大正5年3月30日の条によれば、


日課を書いてしばらくすると、十一時前に村田勤*2夫婦が来た。(略)
●海老名の一雄*3がぐれ、湯浅の吉郎*4が女狂ひをする云々。余は同志社絶縁の事を話す。


「女狂ひ」と聞いた蘆花は、「わしと同じ」と思ったか、「困ったものだ」と思ったか。ちなみに蘆花の姉初子は、湯浅吉郎の兄治郎の後妻(海老名弾正の媒酌で明治18年11月結婚)である。

*1:『婦人世界』(11巻7号、大正5年6月1日)掲載の「野菜の生食には斯くの如き効能あり」と思われる。

*2:原注:同志社で二年先輩。熊本英学校時代の同僚。明治中学校教頭

*3:原注:海老名弾正・みや夫妻の長男

*4:原注:湯浅半月。「十二の石塚」の詩人。同志社神学校卒の聖書学者。京都府立図書館長