4 水島幸子、「女だてらに」新聞記者
「スタール博士」といい、最近ググると「古書の森日記」がひっかかることが多いが、水島幸子もその例外ではない。
「婦人世界」明治43年12月号で「白百合」に例えられた婦人記者水島幸子。
黒岩さんは、既にお気づきになっているかしれないが、この人は、スタール博士の著作の挿絵なども描いた水島爾保布の夫人、SF作家今日泊亜蘭氏の母である。
その苦労の多い新人画家時代に、爾保布は結婚した。相手は、根岸小学校時代の同窓生山室福という女性だった。(中略)結婚した時は明治42年、明治17年生まれの爾保布二十六歳、明治十九年生まれの福は、二十四歳頃と推定される。(中略)
爾保布の妻福は、結婚した当時、読売新聞の記者をしていた。今日泊は、恐らく女性で新聞記者になった第一号だろう、と言っている。つまり新しい女であった。平塚らいてうが、「青踏」を出す前に彼女は結婚しているのだから、今日泊の言は、恐らく当っていよう。
しかも父親が、女大学さえ読んでいれば、女は学問なんぞしなくてもいい、といって、上の娘二人は、女学校にも入れなかった。だから福は独学で勉強し、新聞記者になったわけである。(中略)新聞記者としては、水島幸子と名のった。
「女性で新聞記者になった第一号」という記述については、江刺昭子『女のくせに 草分けの女性新聞記者たち』によれば、本邦の女性記者第一号は、明治23年から国民新聞に在社した竹越竹代(竹越与三郎の夫人)とあるので、明治19年生まれの水島幸子では第一号になれる可能性はまったくないであろう。もっとも、読売新聞における女性記者第一号の可能性は十分ある。