神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

鴎外のトンデモ、露伴の非科学(その4)


亀井貫一郎については、2月6日に言及した怪人だが、この人と、その父親茲迪も鴎外の日記に出てくる。

明治41年2月22日 午後亀井伯第に往く。家政相続人補欠、埋蔵金処分等の件を議す。亀井茲迪破産の顛末を聞く。


同4月26日 亀井伯の第に往き、亀井茲迪の母と弟貫一郎に告諭せらるる席に立会ふ。茲迪は隠居して別に一家を立し、長男凱夫相続し、貫一郎が丁年に達するを待ちて、凱夫を廃せんとするなり。貫一郎は実は長男にして、凱夫は実は二男なり。

『共同研究 転向 下』中の「転向思想史上の人びと −略伝−」によると、亀井貫一郎(1892−1987)は、「島根県津和野四万五千石の藩主亀井伯爵家の長男として生まれた。母は早く死に、父は海外に去り二十数年後再会したときには、神田の夜店で古本屋をやっていた。一高をへて、東京帝国大学政治学科を1917年卒業。さらに米国に留学してフォーダム大学を卒業。外務省に入り、天津領事館、ニューヨーク領事館をへて、本省づとめになる。その後外務省を去り、左傾。1925年から「労働総同盟」とむすびつき、おなじ年の12月社会民衆党結成にさいして、その外交政策を担当。満州事変後の国策の変化に応じた社会大衆党国家社会主義への集団転向にさいして、近衛文麿ら支配者層との間を斡旋した。戦後追放。追放解除後は右派社会党に所属。」


あの亀井貫一郎の父親が、神田の夜店で古本屋をやっていたとは!
すずらん通りでやっていたのかしら・・・