神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その15)

 (番外) 京大地政学 対 東大地政学


『辺境に映る日本』(福間良明著)から


当時の地政学においては、江澤[譲爾]や飯本[信之]とは異なる論理の主張を意図したものがあった。それは、「日本地政学」「皇国地政学」を企図する一派で、小牧實繁(京都帝大)、米倉二郎(和歌山高商)、室賀信夫(京都帝大)、別枝[ママ]篤彦(大阪商大)、野間三郎(京都帝大)、朝永陽二郎(同志社)ら、関西の地政学研究者が集まっていた。彼らはドイツ地政学の無批判な受容を批判し、日本地政学協会には参加せず、地理学・地政学界の「京都学派」とも言われた。その中心的な存在は、京都帝大教授で地理学講座主任の小牧實繁であった。
小牧は、ハウスホーファーの『太平洋地政学』に代表される当時のドイツ地政学を、「ドイツ的なものの域を一歩も出てゐない」として批判し、それは日本の地政学が参照すべきものではないと主張する。(中略)
そして、ドイツ地政学を拒否したうえで主張されるのが、「皇道」に依拠した「日本地政学」である。

「京都学派」に院生として参加していた村上次男の回想によれば、皇戦会の資金により、吉田山西麓に借りた民家にちなんで、グループは「吉田の会」と自称していたとのこと。また、村上は、小牧は四王天延孝の影響を強く受けていたのではないか、とのこと(「日本地政学の末路」(「空間・社会・地理思想」第4号))。



皇戦会と手を組んだ京都帝国大学文学部史学科による「京都学派」と、ドイツ地政学を奉じる東京帝国大学理学部地理学科中心の日本地政学協会とは、対立関係にあったのである。