神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その14)

7 旺文社社長赤尾好夫とクラブシュメールの宴の日々(承前)



『雪松・高嶋辰彦さんの思い出』(森晴治編)中の「高嶋さんと総力戦」(間野俊夫)によると、


少壮学者の一部を専属の嘱託とし、文部省の「国民精神文化研究所」内に間借りして「国防研究室」を作り、同研究所の所員とも交流して日本的な学問の研究が進められ、私はそこでの事務的役割を担うことになりました。
(中略)高嶋さんのお伴をして銀座近くの小さなビルの一室に行ってみますと、「戦争文化研究所」の標札がかかっていました。その出版物を軍で購入するという形の資金援助も高嶋さんの手によって行われていて、それ等の系統の人々との交流も頻繁になっていきました。(中略)
やがて大阪、東京の商工会議所の理事者に接触し、特に関西経済界から資金の提供を受けることになり、(中略)その結果「皇戦会」が生まれました。先ず東京の青山に洋館と付属家屋を購入し、ここを本拠とするとともに、国防研究室もここに移し、私は新たに皇戦会の庶務、財務をも処理することになり、(中略)皇戦会の役員には高嶋さんの同志の軍令部の幕僚、内務省その他の官僚も名を連ね、間もなく理事長として文化的教養の深い予備役の某中将を迎えました。(中略)
また、当時「ゲオポリティック」(地政学)を最初に取り上げて活動を起こしていた京大地理学教室とも接触をもち、その活動を支援されました。

戦前のトンデモ団体一覧ともいうべき『全国国家主義団体一覧』によれば、
「戦争文化研究所」とは、


所在地 麹町区有楽町一ノ四
代表者 小島威彦
性格  スメラ学塾ト関係ヲ有ス


「皇戦会」は、


所在地 四谷区霞ヶ丘日本青年会館内
代表者 仲小路彰


また、『雪松・高嶋辰彦さんの思い出』中の「皇戦会と高嶋さん」(藤田清)によれば

国防研究室の職員は参謀本部嘱託であり、直接に皇戦会に関係したのは高嶋先生と間野少佐(当時)位のものではなかったかと思う。しかし国防研究室の研究は皇戦会と極めて密接な関係があり、しばしばそのまとめ役になったような気がする。特に皇戦会と密接な関係があった中で、仲小路彰先生の世界歴史研究のグループと小牧實繁先生の日本地政学研究のグループとが一番印象に残っている。(中略)青山の国防研究室が皇戦会の本部でもあったため、皇戦会の理事長は元の十六師団長中岡弥高中将で、よく研究室に見えられた。

これらを総合すると、文部省国民精神文化研究所=皇戦会=地政学「京都学派」=戦争文化研究所=スメラ学塾クラブシュメールの密接なつながりが浮かび上がってくる。このグループの一角に、陸軍の鈴木少佐、あるいは旺文社社長赤尾も存在し、雑誌『新若人』は、彼らの機関誌的な役割を果たしていたのではないだろうか。