4 大川周明と鵜澤總明(補遺)
鵜澤の名前を意外なところで見る。
『透視も念写も事実である』(寺沢龍著)によれば、霊の、じゃないや、例の千里眼事件で登場する高橋貞子(リングの「貞子」は、この名前からきているのだろうね)夫妻は、千駄ヶ谷の鵜澤の邸宅内の一戸に住み、夫の宮二は鵜澤の世話になっていた。また、福来友吉は、以前から鵜澤と面識があったという。ちと、おもしろい。
『創造的日本学』(藤澤親雄遺稿)中「天才のグリンプス」(齋藤晌著)によれば、鵜澤は、親雄の父利喜太郎と同窓の親友で、親雄のことをよく頼まれ、結婚の媒酌もしたという。昭和10年頃、斉藤は、財団法人大東文化協会の研究部長をしていた鵜澤の下で、藤澤と同僚であったという。
ちなみに、藤澤利喜太郎は、「山川先生の追憶」(学士会月報520号。昭和6年7月山川男爵追悼号)で、「回顧すれば、明治9年に物理学初歩の先生として始めて先生を識り、その後ち、約20年間は理学部の同僚として、その又後ち先生が総長となられてからは一種の「フりーランス」として先生に接触し殆んど時を同ふして大学を去りたる後ちも、文政審議会その他の関係に於て接触を絶えなかつた」と述べているから、藤澤親雄の父利喜太郎は、山川健次郎の側で千里眼事件を見ていたことになる。不思議だ・・・
明治 9年 開成学校教授補
14年 7月 東京大学教授
34年 6月〜38年12月 東京帝国大学総長
大正 2年5月〜9年9月 東京帝国大学総長
昭和6年 死去・・・執刀は緒方知三郎。
後年、内村祐之は、山川の保存された脳に出会うことになるんだよね!?
藤澤利喜太郎
明治 9年 9月 開成学校に入る
11年 9月 東京大学理学部に入り物理学を修業
15年 7月 同上卒業
20年 6月〜大正10年10月 東京帝国大学教授
昭和8年12月 死去
追記:紀田順一郎のIT書斎に『向井透史『早稲田古本屋目[ママ]録』右文書院』がでてくる。