神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大川周明とトンデモ本の世界(その8)

3 大川周明と櫻澤如一(承前)


櫻澤と中山の関係については、『食生活の革命児』(松本一朗著。昭和51年4月刊)
にある、

かれは6年間フランスで暮らしたが、この間国際情勢ことにユダヤ人問題に通じるようになり、日本指導者の世界認識の甘さを痛感したので、年に一回は帰国して、戦争回避のため参謀本部や軍令部に出向いて警鐘をならしていた。無位無冠の桜沢が軍部に警告することができたのは、食養会には陸海軍の高官が関係しており、桜沢は食養会監事時代その知遇を得ていたからである。


という記述から、親ユダヤ論者、日猶同祖論者としての中山と交流があったとも考えられる。

 
 次の可能性としては、中山の『日本人に適する衣食住』(昭和2年11月)の序によれば、

予の中心思想に対して、最も大なる影響を与へし人々を列挙すれば、理学博士川村清一、防水学者矢中龍次郎、石塚式食養法の創始者石塚左玄氏を挙げねばならぬ。

とあり、また、櫻澤の食養会入会が大正5年、同会監事就任が昭和2年であることから、食養会を通じて、知り合ったのだろうと推測できる。ちなみに、中山の『我が日本学』(昭和14年7月発行)の巻末にある『日本人に適する衣食住』の広告には、「著者は玄米食(中略)を提唱してから15年になり、昭和13年に議会は氏の建白を容れて『玄米死化防止』を通過させてゐる。著者は正食運動の中心人物の一人である。」とある。


 さて、結局のところ、この項の本来の目的であった(いつも、脱線してしまうのだ。)大川と櫻澤の接点として考えられるのは、第一に満鉄東亜経済調査局のメンバー(藤澤、岡上)を通じたもの、第二には食養会関係、第三には軍部関係が挙げられるのだが、なかなか物証で裏付けることができない。第一のルートがあることは明確だが、櫻澤と調査局とどういう関係があったのかわからないのだなあ・・・


 さて、この項を終えるに当たって、藤澤親雄の意外な(でもないか?)経歴を紹介しておこう。『創造的日本学』(藤澤親雄遺稿。昭和39年2月刊)中「藤沢さんのこと」(東季彦)によれば


大正14年4月九州大学法文学部が開設され、藤沢さんも私も最初の教授メンバーに加わったのであったが、二人の間に特に親交が結ばれたのは、エスペラントと、釣りと、反共的思想の共鳴とであった。(中略)
 藤沢さんのエスペラントは完全に身について居り、実に流暢で且つその美しい発音は、講演会などで聴衆を魅了したものであった。(中略)
 藤沢さんは、東大時代には吉野作造博士を中心とする新人会のメンバーでもあったし、卒業後もマルクスボーイであったと、自分でも言って居たが、何時頃からか、転向して反マルクス主義になり、九大に赴任した頃は、「絶対にマルクスには反対だ」といって居た。


 藤澤も、東大新人会の会員だったなんて・・・。ただし、新人会の研究書には出てこないから、断定はできないのだ。