古書通、博識家の一つの典型であった彼は、知ること多く、出すこと少なく、自らはあまり筆を取ろうとしなかった。文章を書くなどといったヤボな作業を嫌った。
(中略)
「『探書五十年』編集委員会後記」と題された、この本のあとがきに、こうある。
(前略)仲間内の判断は、いろいろと分かれるところだろうが、福田さんは、文学研究者のひとつのスタイルとして、自著は持たないと考えていた節がある。1996年に頂戴した年賀状には、次のように書かれている。「狩野亨吉、大塚保治、深田康算、関与三郎ら碩学たちの心に学びたい気持ちは、今年も持ち続けます」
あとがきを本人ではなく「編集委員会」が担当しているのは、福田氏のテレではない。実はこの『探書五十年』は大正13年生まれの福田氏の、最初にして最後の著書、つまり遺著なのである。
(参考)「知ること少なくても、出すことの多い」わすは、名前の挙がっている4名のうち、狩野しか知らんなあ。
『探書五十年』については、昨年12月26日にも言及あり。