いまひとつ、岡田は学生時代、人類学者の鳥居龍蔵の家に
よく出入りしていた。鳥居は、モンゴル、満州などの辺境を
妻や幼い子供を連れて探検している。鳥居夫人は逞しい女性
だったようで、小柄な岡田は、鳥居家に泊めてもらった翌朝、
朝寝をしていて、鳥居夫人に布団ごと「よいしょッ」と丸めて
隣室へ運ばれてしまったという。のちに岡田は、小玉数信に
「あれぐらい馬力がないと、蒙古探検に即(つ)いて行けなか
っただろう」と感心して語っている(小玉数信『岡田家武先生』
私家版、1981)。家族ぐるみで辺境を探検した鳥居家の人
びととの交流は、岡田が家族ぐるみで中国人になりきろうとし
たことに、何らかの影響を与えているのかもしれない。
小玉数信によれば、研究所の彼の部屋の書棚には、専門の科学書
以外に、東洋史学者桑原隲蔵の著作や、今和次郎の『考現学』、
宮武外骨の私刊本などまであったという。
(参考)化学科の岡田家武は、敗戦後、妻子とともに、完全に中国人
なりきろうと、現地で姿を消した。
外骨を愛しつつ、祖国日本を捨ててまで、溶け込もうとした
中国で、彼は、文化大革命の嵐の下、獄中死。
妻子は、強制労働に従事させられた。
同研究所の第2代所長新城新蔵による文物保存工作について
は、『遺された蔵書』(岡村敬二著)に記されているところ
である。
(「新城新蔵」のキーワードまで既にできている。何でだ?)