阿佐ヶ谷会が開かれたピノチオの喫茶店時代

昭和2年2月10日付『文藝時報』に阿佐ヶ谷のピノチヨという喫茶店が出てくる。近傍に住む文士連のヒイキで頗る繁昌しているという。

その繁昌の源はその喫茶店に常に出入する通称洋妾○○子と呼ぶ女の魅力だといふから耳寄りであらう。○○子は派手な洋装のたくましい格好で、ピノチヨに出入する文士連に巧に取り入り、盛に文藝を論じて文士連を煙に巻くのである。ばかりでない○○子は、岸田國士、武野藤介、大木篤夫といった諸君を歴訪して、歌留多を取つたり、花を引いたり、静寂な阿佐ヶ谷の空にいとも悩乱の気を流してゐる。

阿佐ヶ谷というと、ピノチオという支那料理屋を思い出す。『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』の青柳いづみこ「序にかえて お先にどうぞ」によると、

井伏鱒二太宰治上林暁木山捷平、外村繁、小田嶽夫亀井勝一郎ら中央線沿線に住んでいた文士たちが阿佐ヶ谷の北口、現在の西友ストアの向かいあたりにあった支那料理屋『ピノチオ』につどい、将棋を指し、酒を酌み交わしたのが阿佐ヶ谷会のはじまりである。

茶店ピノチヨと支那料理屋のピノチオは似て非なるものかと思ったが、『杉並文学館−井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士−』に、

ピノチオ」は大正末に永井竜男の次兄で、元報知新聞の記者であった二郎が開いた店。大正十四年の商店会名簿に「喫茶酒場」として出ていることや、大正十四年の春から秋まで、中原中也と高円寺に住んでいた長谷川泰子が、この店にソバを食べに来たと記憶して事から、十四年には既にあったと考えられる。

とあって、同一の店と見てよさそうだ。ピノチオは、当初、ややいかがわしいカフェーの雰囲気があったようだ。なお、創業者だった永井二郎の経歴は、『新聞及新聞記者』大正10年10月号によると、

永井二郎 報知新聞経済部米穀部担任。明治44年4月入社。[現住]神田猿楽町1の2。明治29年5月29日神田生[学歴]独学

である。

「阿佐ヶ谷会」文学アルバム

「阿佐ヶ谷会」文学アルバム