姉崎正治の講義「神秘主義」を聴いていた武林無想庵

磯前順一・深澤英隆『近代日本における知識人と宗教 姉崎正治』所収の年譜によると、姉崎はドイツ留学からの帰国の帰り、明治36年3月マドラスの神智学協会本部に、アニー・べサントを訪問。同年6月神戸着、9月には、東京帝国大学文科大学助教授を休職し、講師として「神秘主義」を講義。この伝説の講義「神秘主義」については、従来今岡信一良『わが自由宗教の百年』の次の記述が知られている。

正式に宗教学の講座が開設されたのは二年後の明治三十八年であったけれども、姉崎先生は私どもの入学した初年度に、「神秘主義」と題して、超心理宗教現象のみならず、正統基督教とはまったく異なるドイツ中世紀の神秘家マイスター・エックハルトヨハネス・タウラーなどを紹介されたのは、異常な感動を覚えた。そして姉崎先生は「僕はブッディスト(仏教者)である。しかしブッディストなるが故にクリスチャンであり、クリスチャンなるが故にブッディストである」と自分の宗教的立場を公言されたので、私はビックリした。

新たに、武林無想庵も「神秘主義」を聴いていたことが判明した。『むさうあん物語3』(昭和32年11月)によると、

新帰朝、姉崎先生の神秘主義講義をきくにおよんで、さながら魚の水を得たるごとく、Metaethereal Medium(超エーテル媒介)によるPsychical researchの実例や、識域をこえて、無意識界に通ずるというSecondary Self(第二のわれ)の実存説に魅せられ、爾来なにものかに憑れたる狂信者のように、昼は教室より図書館より、人なき御殿の池の縁にひねもす立ちつゞけ、夜は書斎をでて、英国大使館まえの桜林を背にして、幽邃な石垣の松を対岸にした、千鳥ケ淵の草土手に腰をおろし、夜もすがら、瞑想に耽ったりしたあげくのはて、学校を休んで、「神秘」の創作に没頭することになりました。
で、半年書斎にこもった結果、「神秘」は、四ケ月「帝国文学」へ連載され、そのまゝ尻切りとんぼになってしまいました。

この前後の無想庵の状況を本人自筆の年譜*1で見ると、

明治36年9月 文科大学の英文科へはひる。高瀬、小山内、川田、太田と一緒だ。

  37年 学校を休学して、『神秘』と題するヘンなものを『帝国文学』へ連載しはじめたが、生活発展の方がいそがしくなつて中止して了つた。

  38年 休学後は国文科へ移つて見たが、結局学校は面白くなくてやめて了つた。

ところが、この自筆年譜が当てにならない。『東京帝国大学一覧』によれば、明治35年英文科入学、36年国文科へ転学科ということになる。『日本近代文学大事典』や山本夏彦『無想庵物語』も36年入学としてしまっている。また、「神秘」は、「いはを」名義(無想庵の本名は盤雄)で明治36年6月、8月、10月、11月の四回掲載が正しい。内容は、「神秘主義」とは無関係(と思う)。

元々、細江光先生が「ハッサン・カン、オーマン、芥川」で谷崎に『ラーマーヤナ』の教えた人物として名をあげていた無想庵こそ、核心に近い人物だったかもしれない。

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西原大輔氏の「日本人のシンガポール体験(43)うさん臭い女衒、村岡伊平治」『シンガポール』250号(2010年3月)を読んだが、朝日新聞並みの村岡の自伝のみに基づく古臭い記述であった。わしのブログ(2007年7月3日2009年7月31日)を読んで、勉強しませう。

*1:現代日本文学全集第四十一篇』改造社昭和5年7月。