神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

ここにも市河彦太郎の影が・・・


下嶋哲郎『謎の森に棲む古賀政男』(講談社、1998年7月)にも市河彦太郎の名前が。
古賀政男昭和13年11月の日米親善音楽使節について、

古賀によれば、外務省の市河(彦太郎/文化事業部第三課長)が古賀に、
フィンランド公使時代、レストランへゆくとかならず古賀メロディーをかけてくれた、なつかしい>
とコンタクトしてきた。そのうえで、日米親善音楽使節の件をもちかけたという。
(略)
敝之館設立の担当部局は外務省情報部、設立の立役者は部長の河相達夫だった。驚いたことにこの河相は後述する治朗*1が主宰した結社、皇道世界政治研究所に名を連ねることになる。このことから推測するに、河相は治朗をとおして古賀にコンタクトしたのではなないか。古賀のいう市河第二[ママ]課長はかくれみの、メッセンジャー・ボーイにすぎなかったと思われる。


メッセンジャー・ボーイだったかもしれないが、市河は色々なところに顔を出すね。
なお、下嶋によれば、「敝之(へいし)館」とは、外務省が満鉄や同盟通信と共に昭和14年12月開校したスパイ養成学校という。


本書には他にもおなじみの名前が登場する。

政男の弟治朗は、昭和2年に明大予科に入学するが、

明大には赤神良譲政経学部教授、野田孝明法学部教授という国粋主義者がいた。ことに赤神は治朗に強い影響を与えた人物である。


また、

国粋主義者になった治朗は、その一方で政教一体の奇妙な新興宗教にのめりこんだ。出会いの経緯は不明だが、もっとも尊敬した人物を酒井勝軍といった。


「皇道世界政治研究所」について竹内文献を信奉する天津教の外郭団体に属した思われるとしたのが、大内義郷『神代秘史資料集成解題』(八幡書店、昭和59年5月)。同書によると、発起人として、


入江種矩(陸軍大尉、大政翼賛会東京府常務委員会理事、日本及日本人政教社主幹、国体擁護連合会委員長)
入来重彦(報国砂鉄精錬(株)取締役)
鵜澤總明
倉元要一(元司法政務次官衆議院議員
古賀治朗(帝国蓄音機(株)の取締役古賀政男の兄弟)
鹽谷信男(医学博士)
白鳥敏夫
末次信正(海軍大将)
徳富猪一郎
中島今朝吾(陸軍中将)
中村嘉壽(元衆議院議員、海外之日本社社長、海外貿易振興会理事長)
林銑十郎(元総理大臣・皇道派軍人)
藤澤親雄
三室戸敬光(子爵、宮中顧問官)
などを挙げている。


この他、下嶋の書によれば、賛同者として安達謙蔵、赤池濃、大谷光演、小磯國昭、佐藤鐵太郎、下中彌三郎、中島知久平、中野正剛永野修身、岡本米蔵、松本瀧蔵、野依秀市頭山満がいるという。更には、吉川弘文館社長の吉川圭三も賛同者だったという。


平凡社の下中の名前には驚かないが、加えて吉川弘文館まで出てきただす。どうしよう・・・

皇道世界政治研究所と藤澤親雄

古賀政男の弟治朗が皇道世界政治研究所を主宰していたというのは、確認できない。
昭和17年6月に設立された同研究所の当初の「責任提唱」者は、鵜澤總明、林銑十郎、中島今朝吾、白鳥敏夫藤澤親雄の5名。しかし、本人の弁によると藤澤は直ぐに脱退したらしい。
昭和18年7月26日に開かれた座談会(「偽史を攘ふ−太古文献論争−」)で島田春雄につるし上げられた藤澤は、次のように弁明している。

藤澤 (略)私はつい人がいいところがあるといふのか、白鳥敏夫とか、或は林銑十郎、或は鵜澤聡明、中島今朝吾といふやうな人と一緒になつて、さういふ人と国策提唱者といふ形で皇道世界政治研究所といふものの設立に名前を連ねたわけです。ところがこれは私が不注意であつたので、あれを実際動かしてゐる人はどうも意図があまり真面目でないやうに思はれるのですね。(略)
島田 あの原案を誰が作つたのですか。
藤澤 やはり竹内文書に非常に熱心な人が作つた。さうしてあれは竹内文書などが非常に金科玉条になつてゐるのですよ。そこでさつきいつたやうな僕の心境から、これはいかぬ、かういふものに関係してをつたなら、僕は真意を疑はれるし、脱退するといつて脱退したので、僕は関係ないのです。
島田 去年のいつ頃です。
(略)
藤澤 それは去年の十一月です。
島田 それを公にされましたか。
藤澤 それはしてゐない。
島田 ぜひなさつて戴きたい。
藤澤 こゝで発表してもいゝのです。