神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

谷崎潤一郎と怪談会


泉鏡花の年譜を見ていると、谷崎潤一郎の名前を幾つか発見。そのうちの一つに、大正3年7月12日の条があって、画博堂主催の「怪談会」に、鏡花の他、長谷川時雨喜多村緑郎吉井勇、長田秀雄・幹彦、谷崎潤一郎岡本綺堂、坂本紅蓮洞、松山省三、鈴木鼓村らが出席したという。


鏡花と怪談会については、昨年刊行された東雅夫編『百物語怪談会』(ちくま文庫)に詳しく、『怪談会』(柏舎書楼、明治42年10月)や「怪談百物語」(『新小説』明治44年12月)が再録されている。後者所収の作品には平井金三の「大きな怪物」があったりする。

                                                                                                • -


何日か前のNHK教育の「あしたをつかめ」は学校司書の人だった。地味な職種のはずだが、この番組で取り上げられると、カタカナ言葉の職種に負けずにかっこよく見えるね。「セドリ師 書物蔵さん 三十ン歳」なんてのも登場しないかすらね。

豊島与志雄も平井金三の教え子か


恒藤恭と同様平井金三に英語の教えを受けたと思われる久米正雄が、次のように書いている*1

豊島君は日常茶飯の間にも、彼の小説に現はるゝ如き、妙な神経から来る神秘の世界が実際あるらしい。其の点に於いて、彼はメエテルリンクの一面とひどく共鳴するらしい。而して此間中は太霊道にいたく興味を持つて、入らうかと思つてゐたのさうだが、其の中に太霊道が山師めいた広告を始めたので、すつかり厭気がさして廃めたと自ら話してゐた。


豊島は明治42年9月一高第一部丁類入学、大正元年9月東大文学科仏蘭西文学専修入学、4年7月卒、同年10月陸軍中央幼年学校フランス語担当教官、7年3月芥川龍之介の推薦で横須賀の海軍機関学校嘱託教官。


一高では、恒藤恭らのいた英語系と異なり、豊島は仏語系だが、平井金三の英語の授業を受けていたとすれば、色々想像させるものがあるね。


追記:内澤旬子高野秀行の対談(『小説すばる』10月特大号)の広告が、新聞に写真付で出てるね。


中村義『川柳のなかの中国』(岩波書店)を見る。川柳は書物奉行氏もマイブームみたい。

*1:豊島與志雄氏の印象」『新潮』大正7年5月号、『久米正雄全集』13巻

千里眼の時代


恒藤恭(大正5年11月までは井川恭)の日記(『向陵記』)に面白い記述がある。

明治43年12月30日 千里眼千里眼。このごろの新聞ハ、千里眼と飛行機で持ち切って居る。誰にも出来相だが、さて僕にハ出来そうに無ひ。片桐の奥さんハ、あんな風な事が得意だから、おとゝひ行った時、「どうです、あなたもやって御覧なさいませんか」と言うたら、「妾ね、実際やり出すと気が変になりますからね」と真面目な答へであった。


原注によると、明治43年4月上京後の都新聞見習い記者時代、福来友吉の講演を「千里眼に就て(上)(下)」と題する記事にまとめており、大阪市立大学恒藤記念室で所蔵しているという。恒藤も明治末期の千里眼ブームの時代に生きた一人だった。日記には出てこないが、おそらく平井金三と千里眼の話をしたこともあったのだろう。


追記:段々、オカルト系ブログになってきちゃったか(汗

平井金三と芥川龍之介


平井金三については、8月15日に言及したところであるが、『漱石研究年表』の記載の出典を示しておこう。
漱石全集月報」14号(昭和4年4月)の松浦嘉一「漱石先生の詞」に、松浦の大正5年1月6日の日記が引用されていて、そこに漱石が次のように発言したとある。

「(前略)君、平井金三ね、あいつ妙なことを言ふさうだね。いつか、あいつの前で大きな筆が逆さに立つたといふのだ。そして、特筆大書といふ文字が空中に出たといふんだ。すると、その夜、誰かゞ死んださうだ。支那で筆が逆さに立つと、何か兇い前兆だといふのだね。それから、ある時、あいつが道を歩いてゐると、空に印度人の姿が、大勢映つたさうだ。何かといふと、家へ帰つて見ると、ある印度人から手紙が来てゐたつてね。だからよそから、来る手紙なんか、もう見なくとも判るといふんだ。」


この時期に漱石のもとを訪問していた芥川龍之介は、恒藤恭とともに一高時代に平井から英語を学んでいる。明治43年9月11日、第一高等学校一部乙類(文科)に入学した芥川。早速、平井の英語の授業を受けた感想を山本喜誉司に送っている。


明治43年9月16日付け書簡(月推定)に「殊にクライブを講ずる平井金三氏の如きは every boyを「どの子供でも」と訳すのを不可とし必ず「小供と云ふ小供は皆」と訳させI have little moneyを「あまり金を持つてない」と訳すを不可とし「金を持つ事少し」と訳させる位に候へば試験の時が思ひやられ候」とある。芥川の同級には、他に石田幹之助菊池寛倉田百三(翌年独法科転科)、成瀬正一、松岡譲、久米正雄、佐野文夫や落第組の山本有三土屋文明がいたというので、平井に関する資料はまだ見つかるかもしれない。


さて、芥川龍之介は、平井に催眠術をかけてもらったり、神智学の話を聞いたことはあったのだろうか。

安成貞雄の平井金三批判


伊多波英夫『安成貞雄を祖先とす』に平井金三が出てきた。
黒潮』創刊号(大正5年11月)の安成貞雄「「南洋の土人」の為に」で、貞雄は、<日本語はアリア語なり>と日本人の人種的優位性を主張した平井金三を批判し、その対極にあるポリネシア人について論じているという。
平井は、この年の三月に亡くなっているため、残念ながら反論はなされていない。


(参考)平井の生涯については、「http://www.maizuru-ct.ac.jp/human/yosinaga/hirai.htm」参照。

平井金三の厄年


漱石研究年表』。これを労作と言わずして何を労作と言うべきか。
しかし、同書にしても不詳とされる人物がいる。
大正5年1月6日の条によると、

野上豊一郎・内田百輭・松浦嘉一連れ立って来る。野上豊一郎、胡桃だけで十二年生きている男の話をする。平井金三(不詳)の奇怪な体験なども伝える。


平井については、その道の専門家のma-tango氏や森洋介氏に聞けばその正体はすぐわかるのだが。
さて、一高時代に平井講師の教えを受けた人物の日記を見てみよう。

明治44年2月27日 五時半ごろ出て、石原、後藤、外に二部の某君と、平井サンのところへゆく。(略)
やがて平井サンが出られ、時候のはなし、紀念祭の余興のはなしがすんだのち、心霊の研究のはなしをされる。/それから石原君が、催眠術をかけてもらふ。そのあとで、あとの三人も一緒にかけてもらふ。某君ハすぐかゝつた。


石原は石原登、後藤は後藤隆之助。
明治44年1月9日の条は、もっと面白い。平井先生は授業をそっちのけで、前年は52歳でいかに自分にとって厄年だったか延々と説明をしている。娘の離婚、失職したこと*1、坊主に祖先の骨をとられ、回復するのに困難をなめたこと、継母の死、遠戚が自分の名前をかたり大変な事をしたことを語っている。


平井のトンデモない授業を受けたこの人物、戦後創設された大阪市立大学の初代総長(後、学長に改称)となる恒藤恭である。引用は『向陵記』(大阪市立大学、2003年3月)によった。

*1:東京外国語学校教授の辞職

大川周明とトンデモ本の世界(その2)


1 大川周明小谷部全一郎(承前)


 大川の自伝『安楽の門』によると、

 私は頭山[満]翁に於て真個の日本人を、押川[方義]先生に於て真個の信神者を、八代[六郎]大将に於て真個の武人を見た。


 とある。押川は、ヨコジュンのファンの方には押川春浪の父として、ご承知であろう。小谷部でなく、酒井勝軍であれば、押川の創設した東北学院の出身者であるから、大川との接点が浮かんでくることになるが、そう簡単には謎はとけない。


 『大川周明と国家改造運動』(苅田徹著)によれば、大川は、「明治43年7月、松村介石が三年程前[明治40年10月]に創設した日本教会(1912年に道会と改称される)に入会」し、既に同会の会友であった押川に親炙するようになったという。


 さて、誰ぞには、余り受けていなそう(?)なので、そろそろ解答をだそう。
 小谷部が亡くなった妻菊代(明治8年1月生まれ。明治32年結婚)への「供養の卒塔婆のつもり」で綴った『純日本婦人の俤』(昭和13年4月発行)から引用する。


父(引用者注:亡妻の父、石川重松)の生前に米国宣教師等が首唱となりて宮城女学校を創立するに際し、父は売買の名義の下に、今の東三番庁の仙台目抜きの土地を寄附せしより、其の謝恩の意味に於てのことなりしか、不幸なる石川家の乙女等二人を学校に引取り、校費にて教育し、姉の梅代は押川方義牧師の媒介にて東京の松村介石氏に嫁し、妹の菊代も宮城女学校卒業後、姉の縁先なる松村家に母と共に引取られてありしが(以下略)

 
 そう、小谷部の妻、旧姓石川菊代の姉、梅代は、松村夫人(明治28年1月結婚)なのだ。ちなみに、石川梅代は、相馬黒光が、宮城女学校を自主退校することとなるきっかけのストライキをした五人組の一人で、そのうちの一人、町田辰は、後にあの千里眼事件の福来友吉の夫人となる(相馬『黙移』による。)。


 更に、薀蓄を付け加えれば、松村は、明治41年、平井金三と相談して、心霊的現象の研究を目的とする「心象会」を結成するが、「忽ちにして帝大の博士諸名を始め、朝野の紳士数十名の会員を得」たというが、その中には東京帝大教授、心理学者の元良勇次郎、すなわち、福来の恩師で千里眼実験にも何度か立ち会う人物の名前も見られる。松村をめぐって、千里眼事件の師弟が姿を見せるのはおもしろい(『大川周明と国家改造運動』(苅田徹著)による。)。


 さて、小谷部は、妻や、義理の姉菊代を通じて松村と面識があることは、当然であろうが、それ以上に親しい関係であったようである。
 小谷部『著述の動機と再論』によれば、

拙著に対する反対書の始めて世に現はれたる日に、先登第一に余の草庵を訪ひ、速に反駁書を出して世に問ふべしと、玄関先より大声にて怒号せられたる松村介石氏も、余の沈黙自重して筆を執らざる事をもどかしく思ふたるにや、「道」雑誌に氏の所信を掲げて曰く、
 「(前略)成吉思汗は確に我が源義経である(以下略)」

というから、尋常な関係ではない。


 さて、今まで述べてきたことから、小谷部と大川は、松村、押川、日本教会(道会)の関係の中で、面識があったと推測できるのである。


 さて、本項のテーマからはずれるが、終わりに当たって、小谷部『純日本婦人の俤』の次の一節で終わろう。相馬黒光の意外な一面を知ることができる。

最近亡妻の告別式の前日に、菊代の親友にて有名なる新宿中村屋の主婦でありまた『黙移』と題する本の著者としても、世に知られて居る相馬黒光女史が拙宅を訪はれ、本人の遺骨を安置せる室に通り、私に述懐して曰く、
『この菊代さんの様な心の立派な人は、世にふたりとありません。実に惜しいことを致しました。
 私は今日お宅へ泣きに参りました。私は以前子供を二人も亡くして居りますが、曾つて涙などを人様に見せませんでした、併しこの菊代さんには心から泣かずに居られません。どうぞ私を泣いて泣いて泣き崩れさせて下さい、あなたはあちらに行つて下さい。私を此処で一人で泣きくづれさせて下さい』とて嗚咽の涙にむせぶなりき。