東京美術学校の小場恒吉に依頼した日比谷図書館の蔵書印

『上野直昭日記ーー東京芸術大学百年史東京美術学校篇第3巻別巻ーー』(ぎょうせい、平成9年3月)に都立日比谷図書館(現・千代田区立日比谷図書文化館)の蔵書印が出てきた。

(昭和二十一年)
六月十八日 (略)日比谷図書館伊沢万治来る。蔵書印の件也。小場をさがせどもあらず。金曜に再来を約して去る。(略)
(昭和二十二年)
五月一日 (略)小場再来。日比谷図書館の蔵書印を示す。
(昭和二十五年)
十月十六日 (略)小場来つて上野氏蔵の印をくれる。かねて頼んであつたものを作つてくれたので美しくできてゐる。うれし。あれこれに押して見る。

上野は東京美術学校の校長や後身の東京芸術大学の学長、小場は小場恒吉で両校教員。昭和25年10月16日の条中「小場」には、編者により「小場恒吉は篆刻家として知られていた」と注がある。
日比谷図書館は昭和20年の空襲で全焼し、敗戦後の24年仮館舎で閲覧を再開。『上野直昭日記』により、21年6月には新しい蔵書印の作成を進めていたことがわかる。なお、「蔵書印データベース」で日比谷図書館関係の印は4件ヒットする。

第6代関西学院大学図書館長東晋太郎が空襲から守った蔵書群

下鴨納涼古本まつりで竹岡書店の3冊500円コーナーから東晋太郎『夕靄』(歌集夕靄刊行会、昭和36年1月)を購入。219頁、私家版、上原専禄宛署名入り。歌集や句集には興味がないが、序文や年譜等をざっと見て面白いことが書いてあれば、買うことにしている。今回は、年譜の昭和18年の条に「(四月)山本五郎氏の後をうけ(関西学院大学)図書館長となる」、20年の条に「七月図書館蔵書中重なるもの約一万冊、非常なる労苦を以て有馬街道名塩小学校に疎開す」とあるのにひかれて購入。
蔵書の疎開については、ネットで読める『関西学院大学図書館史 1889年〜2012年』(関西学院大学図書館、平成26年1月)によれば、

第2次世界大戦の終焉が近づくにつれて空襲が激化し、図書館としては、これに対応するために、1945(昭和20)年5月から7月にかけて、重要図書9,000冊を、名塩国民学校、川西町花屋敷奥小路民蔵邸、武庫村友行国光宣揚会道場に分散疎開させたりしている。

とあった。都立日比谷図書館の蔵書疎開については、金高謙二氏によって映画『疎開した40万冊の図書』や著書『疎開した四〇万冊の図書』(幻戯書房、平成25年8月)になるなど、よく知られている。一方、関西学院大学図書館の蔵書疎開についてはほとんど知られていないだろう。疎開した蔵書数も多くないし、日比谷図書館みたいに疎開しなかった蔵書が空襲で全焼というドラマ性もない。しかし、関西学院大学図書館の蔵書疎開について、誰がどのように運んだのかなど詳しく知りたいものである。
本書の昭和21年の部には、東が学院図書館前で詠んだ

見のかぎりみどりの芝生夏の雨ゆたけくふりてこゝろ足らへり

が収録されている。空襲から図書館や蔵書を守りきった館長としての思いが出た一首だろうか。東は病気で辞任する昭和30年12月まで館長を務めた。

疎開した四〇万冊の図書

疎開した四〇万冊の図書

CIE図書館が生んだ芥川賞候補作家久坂葉子

嵐山のロンドンブックスでだいぶ前に買った『久坂葉子の手紙』(六興出版、昭和54年9月)を読んでると、CIE図書館が出てきた。昭和25年1月26日付け川崎澄子(久坂の本名)から友好安子宛の書簡で、

(略)
今、一人の女性をかいてます。
C、I、Eで、昨日、一時間十枚のスピードで三十枚かきました。
百枚前後になるでしよう。
(略)
題を「晶子礼讚」としてますが、改題しようと思つてます。(略)

「C、I、E」はCIE図書館のことだろうと思ったら、26年5月12日付け斎田昭吉宛葉書に「CIE図書館にて/久坂葉子」と書かれているので、推測は間違いなかった。CIE図書館は、敗戦後GHQのCIE(民間情報教育局)が設置した図書館である。当時久坂は神戸市生田区山本通に住んでいたので、同区三宮一丁目三宮ビルにあった神戸CIE図書館だろう。『日本教育年鑑』1950年版(明治書院、昭和25年4月)によれば、23年6月開館、302坪、収容人員192人。無料で開架図書を自由に閲覧できたが、久坂は本を読むよりも執筆活動に使っていたようだ。「青空文庫」で読める「久坂葉子の誕生と死亡」にも、昭和25年頃として

その頃、私は喫茶店につとめていた。一週間に、二度か三度 、手伝いに行っていた。一日働いたら三百円であった。休みの日は、朝から、インキ壺と原稿用紙をもって、CIEの図書館へ通った。ストーブがあって暖いのである。一時間に十枚位のスピードで、やたらむたらに書きまくった。

とある。久坂の芥川賞候補となった「ドミノのお告げ」(『作品』5号、25年6月)は「落ちてゆく世界」(25年1月11日脱稿。『VIKING』17号、25年5月)を改作したもの*1なので、CIE図書館で書かれたものと見てよいだろう。芥川賞候補作家久坂葉子は、CIE図書館で誕生したのだ。

*1:久坂葉子全集』3巻(鼎書房、平成15年12月)「久坂葉子著作目録」、佐藤和夫「解説」参照

福岡県立図書館の女性出納手にして俳人の竹下しづの女

最近刊行された柳与志夫・田村俊作編『公共図書館の冒険ーー未来につながるヒストリーーー』(みすず書房、平成30年4月)第5章は河合将彦氏の「図書館で働く人々ーーイメージ・現実・未来ーー」である。ここに出納手という図書館員の職種が出てくる。

出納手」は、聞きなれない言葉だろう。戦前は閉架式の図書館が多く、利用者の請求を受けて、主に少年の出納手が資料を出納した。

夜学に通いながら図書館に勤める少年が多かったらしい出納手だが、身分としては傭人扱いで職員名簿には名前が載らない場合が多かっただろう。例外的に後世に名前が残った出納手として、「ある帝国図書館員の死」で紹介した事故死したため名前が伝わった例がある。
さて、坂本宮尾『竹下しづの女ーー理性と母性の俳人1887-1951ーー』(藤原書店、平成30年7月)を見てたら、俳人竹下しづの女は昭和9年から14年まで福岡県立図書館の児童室係の出納手だったという。しづの女は明治20年福岡県京都郡稗田村生、39年福岡県女子師範学校卒業、福岡県立小倉師範学校の訓導などを務めた。女性でかつ高学歴とあって戦前の出納手のイメージとはかけ離れたものがある。更に福岡県立図書館月報に「児童図書館の諸問題」という論考を発表している。ただの出納手ではなかったわけだ。残念ながら『図書館人物事典』(日外アソシエーツ、平成29年9月)には登場しない。
出納手時代の句が極めて面白い。

日々の足袋の穢しるし書庫を守る
紋のなき夏羽織被て書庫を守る
書庫瞑く春盡日の書魔あそぶ
既に陳る昭和の書あり曝すなり

白足袋で羽織を着て書庫から出納したり、曝書する姿が目に浮かぶようだ。坂本氏によると、「書魔」は、「薄暗い書庫のなかになにかが潜んでいるように感じたしづの女の造語」だという。書庫に潜む書魔、なにか小説のネタに使えそうだ。
そして、憲兵隊による検閲も詠まれていた。

かじかみて禁閲の書を吾が守れり
憲兵を案内す書庫のい*1てし扉に

竹下しづの女 〔理性と母性の俳人 1887-1951〕

竹下しづの女 〔理性と母性の俳人 1887-1951〕

公共図書館の冒険

公共図書館の冒険

図書館人物事典

図書館人物事典

*1:にすいに「互」

昭和17年8月シンガポールで交錯したジャワ派遣の大木惇夫と日米交換船の鶴見和子・俊輔

書砦・梁山泊京都店で掘り出した(つもり)の『井上照丸追憶録』(井上照丸追憶記刊行会、昭和44年4月)。昭和43年4月に亡くなった元満鉄の調査マン井上の追悼本。わしは饅頭本が好きで、古本市などで面白いものを見つけると安ければ買ってしまう。ただ、饅頭本なら何でもいいというわけでなく、
・戦前に活躍した人であること
・有名人ではなく、といってただの人では困るわけで、書物蔵さんが言うところの半有名人か。学歴は、旧制高校旧帝大早稲田大学、高等女学校などの卒業生が望ましい。
・文学者、国家主義者、出版関係者、図書館関係者、満洲など大陸関係者、トンデモない人など、ちょっと毛色の変わった人であること
・私が関心のある人が故人についての回想文を書いていること
・年譜が付いていること
・日記や書簡が収録されていること
この条件をすべて満たす饅頭本にはなかなか出会えないが、今回はこのすべてを満たす上に、値段が1000円。買った時はよさげな本を見つけたぐらいの気分だったが、少し読んでみると、これは大変な本を見つけたという驚きがあった。
井上の経歴を年譜から要約すると、

明治40年6月 山口県徳山市
昭和3年3月 第三高等学校文科甲類卒
7年3月 東京帝国大学法学部政治学科卒
7年4月 南満洲鉄道株式会社入社、調査部(正しくは、経済調査会)勤務
14年11月 内閣企画院調査官
18年6月 南満洲鉄道株式会社復職、東京支社勤務
21年3月 社団法人金属工業調査会及び財団法人国民経済研究協会常務理事兼任
30年1月 財団法人海外貿易振興会事務嘱託
43年4月 死去

井上の日記は、中学時代から昭和24、25年までの膨大な量が残っているとのことだが、本書には戦時中と終戦直後の日記が摘録されている。井上が、企画院から南方総軍の軍政総監部付として転属した昭和17年のある一日を引用してみよう。

(昭和十七年)
八月十日 月曜
午前十時半、総軍、参謀に会えず(浅間丸ーー撃沈のため)。十一時半、総軍報道部、キャセイ・ホテル、伊地知進氏に会う。
(略)
浅野晃、大木惇夫、大林清、小籔英一等とともに昼食、阿部知二武田麟太郎などの消息をきく。浅野氏の人柄に興味をもつ。富沢有為男の活躍(浅野、大木はジャバへ帰る)。午後、博物館にてーー交換船の連中の見学。邦人の群、家族連れに、子供たちのことを想う。前田多門、鶴見氏令息嬢の一行、外務省、ブラジル帰りの連中。雇員を指揮し、案内する。
二五A宣伝班にて、中島健蔵、大久保班長に会う。
(略)

登場する人物の一部について補足してみよう。
・宮田毬栄『忘れられた詩人の伝記ーー父・大木惇夫の軌跡ーー』(中央公論新社、平成25年4月)によると、大木らジャワに派遣された文士が乗った佐倉丸は、17年3月バンタム湾入口で撃沈され、海中に飛び込んだ大木らは漂流後救助された。この日記に登場する同年8月は、『海原にありて歌へる』の後書をバタビヤの宿舎で書き上げたという。翌9月下旬には現地除隊という形式で、新聞社用の極秘の特別機により帰国している。この日記は、短期間しかジャワにいなかった大木の動向がわかる貴重な記述である。
なお、ジャワに派遣されたメンバーは日記に挙がっている文士のほか、大宅壮一小野佐世男らがいる。また、「博物館」はわしも愛読した『思い出の昭南博物館ーー占領下シンガポールと徳川侯ーー』(中公新書、昭和57年8月)で知られる昭南博物館である。
鶴見俊輔加藤典洋黒川創『日米交換船』(新潮社、平成16年3月)によると、交換船でシンガポールに到着した翌日の17年8月10日前田と鶴見祐輔の子供である鶴見和子・俊輔姉弟らが陸軍の南方総軍軍政顧問だった永田秀次郎を訪問している。
いやはや、この一日の記述だけで十分1000円の価値がある饅頭本である。最後に、同じく元満鉄調査マンで戦後国会図書館に勤めた枝吉勇の「照丸君との因縁」から引用しておこう。

彼は一時シルバーという小型ラジオの会社に関係し、貿易関係の援助などしていたが、その会社が閉鎖してからは翻訳生活に入ったようである。(略)国会図書館から彼のためにこっそり持ち出してやった字引きを片手に、ポーランド語のランゲの大冊を訳し*1おおせもしたし、数々の大冊や短文を手がけていた。

忘れられた詩人の伝記 - 父・大木惇夫の軌跡

忘れられた詩人の伝記 - 父・大木惇夫の軌跡

日米交換船

日米交換船

*1:オスカー・ランゲ、都留重人監修訳『社会主義体制における統計学入門』(岩波書店、昭和29年12月)

趣味人をつなぐ豊橋趣味会の舟橋水哉

大谷大学博物館では、しばしば大学に関係した仏教者の展覧会が開催される。昨年1月11日から2月10日まで開催された「仏教典籍の宝庫 三舟文庫舟橋水哉コレクション」では、三舟文庫の旧蔵者舟橋水哉(1874-1945)が登場。全然知らない人だったが、展示のパネルに大谷大学教授を辞した後、故郷豊橋に戻り、豊橋趣味の会を主宰したとあり、驚いた。図録を買わねばと思ったが、発行されておらず、ちょっとがっかり。
真宗人名辞典』(法蔵館、平成11年)から要約すると、

舟橋水哉(ふなはし・すいさい)明治7年-昭和20年。号三舟
明治44年 大谷大学教授となり、特に倶舎論・唯識を研究
昭和元年 同大学教授を辞任し、豊橋の蓮泉寺に帰郷。「豊橋趣味の会」を主宰して、郷土史研究の振興に尽力。また「三舟文庫」を創設し書籍を広く一般に開放した。

確かに「豊橋趣味の会」を主宰したようだ。ただし、国会図書館デジコレで見られる豊田珍彦『郷土研究東三河ところどころ』(豊橋趣味会、昭和13年1月)の奥付には「豊橋趣味会」の代表として舟橋の名前があがっている。正式名称は「豊橋趣味会」のようだ。「序」を舟橋が書いていて、豊橋趣味会の会員である豊田が前年の史跡名勝天然紀念物保存協会創立25周年に当たり地方功労者として同会長から表彰されたのは、豊橋趣味会の栄誉でもあると書いている。
また、白井一二『旅寝塚:旅寝塚建立記念誌』(豊橋趣味会、昭和8年3月)の口絵は松井佳一が撮影している。白井や松井は、戦前の『愛書家名簿』・『特選蒐集家名簿』に豊橋在住の者として挙がる人物である。舟橋は豊橋の趣味人達のまとめ役のような存在だったのであろうか。ぬりえ屋さんや誰ぞ、リバーフィールド氏の蒐集家名簿に舟橋の名は載っているかなあ。

拝啓 壽岳文章様ーー菊地暁「拝啓 新村出様」を読んでーー

菊地暁先生が『国立歴史民俗博物館研究報告』165集(2011年3月)に発表した「拝啓 新村出様ーー柳田国男書簡からみる民俗学史断章ーー」。だいぶ前にいただきましたが、ありがとうございます。面白いので何度も読み返している。菊地論文を読んで幾つか気付いたことのメモ。
・主に新村出記念財団重山文庫蔵の新村宛柳田国男書簡を用いているが、同財団のホームページ中の「新村出宛書簡発信者一覧」を見ると、壽岳文章・章子の書簡も所蔵している。*印が付されており、「封書、葉書、絵葉書の別に、かつ発信年月日順に整理されている」そうだ。壽岳の研究者は既に調査されているだろうか。また、この一覧を見ると、図書館関係者や出版人も多数出てくる。姉崎正治天野敬太郎石田幹之助、伊藤祷一、伊藤長蔵、稲村徹元*1犬丸秀雄、今井貫一、今澤慈海植松安、臼井喜之介、岡茂雄、荻山秀雄*2、奥田啓市、小野則秋、金尾種次郎、川瀬一馬斎藤昌三、竹之内静雄、富永牧太中井正一中田邦造長澤規矩也長谷川巳之吉*3間宮不二雄宮武外骨毛利宮彦八木敏夫弥吉光長和田万吉らの名前がある。その他、浅野和三郎荒木伊兵衛生島遼一岡正雄恩地孝四郎、川守田英二、小谷方明、小牧實繁、澤田四郎作、鹿田静七、園頼三、田中緑紅、九十九豊勝、鳥居龍蔵、日夏耿之助、平井功富士正晴、ポンソンビ・リチャド、丸山薫水野葉舟、若林正治なども。宝の山ですな。
大阪市立大学新村文庫所蔵書に貼り込まれた柳田の書簡も使用している。『大阪市立大学附属図書館所蔵新村文庫目録』を見ると、同文庫は壽岳の『書誌学とは何か』と『ヰルヤム・ブレイク書誌』を所蔵している。どちらも、ぐろりあそさえての発行である。これらに壽岳の書簡が貼り込まれている可能性がある。なお、昭和4年11月17日付け柳田書簡中に「薩道先生景仰録ハ拝見仕りまだ伊藤君へも御礼申出ず候がよき企てと存候」とあり、柳田は新村の『薩道先生景仰録』を刊行したぐろりあそさえて社主の伊藤に言及している。
・菊地論文で未詳又は生没年未詳とされている人物のうち、
筧五百里*4は、明治29年6月生、香川県出身。東大国文大正12年卒、元岐阜大学学芸学部教授、昭和50年12月29日没(『国語年鑑』昭和29年版、読売新聞昭和50年12月30日朝刊)
大岡保三*5は、明治20年千葉市生、44年東大文科卒、大正3年同大学院卒、8年文部省嘱託、10年図書監督官、国語調査官等を経て昭和20年千葉師範校長、24年千葉大学附属図書館長(『大衆人事録』16版)。『国語年鑑』には前年の物故者が載るので軒並み当たれば没年が判るかも。
倉野は倉野憲司か。明治35年3月9日生、福岡県出身。大正15年東大国文卒、元東京女子大学教授、平成3年2月28日没(『昭和十六年十月一日現在文部省職員録』、『新訂増補人物レファレンス事典 明治・大正・昭和(戦前)篇2』、『国語年鑑』昭和29年版)
吉田は吉田澄夫か。明治35年6月生、新潟県出身。大正15年東大国文卒、埼玉大・武蔵野女子大各名誉教授、昭和62年2月26日没(『昭和十六年十月一日現在文部省職員録』、『国語年鑑』昭和29年版、『東京帝国大学卒業生氏名録[昭和八年三月末現在]』、朝日新聞昭和62年2月27日朝刊)
阪大の岡島昭浩先生なら他の未詳とされる人物の経歴も判明できるかもしれない。

*1:一覧では、稲村徹光だが、徹元だろう。

*2:一覧では、萩山秀雄

*3:一覧では、長谷川己之吉

*4:昭和5年10月6日付け柳田書簡に「十一日夕を以て方言協会を開くことに筧君を煩し置」と出てくる。

*5:昭和16年1月5日付け柳田書簡に「文部省に今度国語課が新設せられ 大岡保三氏の下に倉野吉田その他の新進学者が働らくことになりました」と出てくる。