神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

カフェー

神田の喫茶田沢画房

場所がはっきりしないが、大正期の神田に田沢画房という喫茶店があった。美作太郎『戦前戦中を歩む 編集者として』によると、大正13年東大法学部に入学後の話として、 今のすずらん通りへつづく九段よりの家並みに、<田沢画房>という喫茶店があった。八坪…

谷崎精二のカフェ修行のきっかけとなった神保町のランポー

ゆまに書房の和田博文編『コレクション・モダン都市文化12 カフェ』所収の関連年表によると、 一九一六(大正五)年 一八九〇年生まれの谷崎精二は『都市風景』(一九三九年)で、「二十六七から卅二三迄私は方々のカフエーを歩き回つた」と、「カフエー修行…

カフェ・ロシアと辻衛

3月5日に言及した画家辻永の弟は、銀座でカフェーを経営していたようだ。 安藤更生『銀座細見』(春陽堂、昭和6年)によると、 ロシヤは今の松坂屋の横、カアネーシヨンといふバアのところにあつた。(略)店主は辻衛氏と云つて、洋画家の辻永さんの弟だつた…

里見とんとカフェー

ライオンにいる里見とんについては、4月4日に言及したので、別のカフェーと里見を披露しよう。荷風の『断腸亭日乗』によると、 大正10年9月14日 (略)独食事をなし有楽座久米氏を訪ふ。松山画伯里見醇[ママ]とプランタン酒亭に至る。 「久米」は久米正雄で…

神保町の喫茶らんぼおをぶっ壊した寺田透

猫猫ブログの「駒場学派の歴史(3)」にも出てくる寺田透は、神保町の喫茶「らんぼお」をぶっ壊したことがあるらしい。埴谷雄高「酒と戦後派」*1によると、 いま寺田透は東大教養部の先生として穏和な方でこそあれ、決して破目をはずす酔つぱらいではない。…

らんぼおと壺井栄

昭和24年2月、神保町の「らんぼお」で、多喜二祭の二次会が開かれていた。 壺井栄「袖ふりあう」*1によると、 一九四九年といえば、戦後の混乱の中からようやく秩序が生まれてきかかったころではなかろうか。おそらく戦後はじめて公けにもたれた多喜二祭だっ…

 神保町の喫茶らんぼおの終焉(その2)

昭和24年6月9日消印の埴谷雄高の野間宏宛書簡*1に「ランボオ」が出てくる。 来週火曜十四日は正午からランボオで同人会をやり、二時から小山書店と野球の試合をやります。時間があれば、きて下さい。 らんぼおの閉店については、昨年11月9日にも紹介したとこ…

 三浦関造と更新文学社

三浦関造が大正期に更新文学社という出版社を経営していことはあまり知られていないと思われる。 秋田雨雀に日記にこの出版社のことが出てくるので紹介しておこう。 大正5年9月2日 きょう、朝、もと弘前の牧師をしていた三浦開[ママ。以下同じ]造君が東[ママ…

サロン春

銀座のカフェー、サロン春は有名だったらしい。猪瀬直樹『こころの王国』にも、 美人の女給さんが揃っていると人気のサロン春というカフェが、銀座の交詢社ビルの下にあります。先生は一度、こういう場所も描写に必要だから見ておきなさい、とわたしを連れて…

改造社の山本実彦とカフェー

山本実彦ブームも一段落したかしら。 阿部次郎の日記に気になる一節がある。 昭和6年3月6日 (略)改造社で本の用件を話し山本に会ふ、夕刻岩波、茅野夫婦と打合をして六時新橋停車場にあひ濱作で夕食をよばれる、話しながら赤坂まで歩いて山本にあひカフエ…

板垣鷹穂と阿部次郎

阿部次郎の日記にも板垣鷹穂が出てくる。でも、どういう関係かよくわからない。 大正9年10月6日 午後坂[板]垣に誘はれて丸善に行き独乙書数冊を買ふ。 12月15日 午後坂[板]垣鷹穂来訪美学会少壮連の雑誌の話をする。ムーターを譲つた金を受取る。 10年3月4日…

神保町の喫茶らんぼおの終焉

神田神保町一の三(冨山房裏)にあった「らんぼお」は、林哲夫『喫茶店の時代』によると、昭和22年3月開店、潰れたのは24年4月頃という*1。『草野心平日記』第1巻を見てたら、閉店時期はもう少し後のようだ。 昭和22年9月18日 午后二時。歴程会議。神田ラン…

国枝史郎の喫茶ロゼッタ

国枝史郎の年譜*1を見ていたら、昭和14年2月の欄に、「京橋に喫茶ロゼッタを開き夫人に経営を委せる」とあった。 気になる喫茶店だが、詳細は不明。 追記:いつのまにか、ゆまに書房から『コレクション・モダン都市文化 カフェ』なる本が出ていた。しかし、…

プランタン以前のカフェー・キサラギ

橋爪紳也『モダン都市の誕生』(吉川弘文館、2003年6月)によると、 従来、日本で最初に「カフェー」と名乗った店は、明治四四年(一九一一)三月に開業した銀座の「カフェー・プランタン」であるとされてきた。しかしその一年ほど前、大阪の川口に「カフェ…

カフェー好きの秋田雨雀

『秋田雨雀日記』第1巻から。 夜、生方敏郎君がきて、二人で銀座にでて、カフエ・ロシアへゆき、クリスマスデナーをすました。童話劇の俳優といっしょにお鯉のカフエ・ナシヨナルへいった。お鯉は桂公の愛妾だった。 お鯉と桂太郎については、黒岩比佐子『…

カフェー発祥の地としての本郷(その2)

昭和の初期、「本郷カフエー」が日本最初のカフェーであることに気がついた文人がいる。その証言を見てみよう。 ・・・・・・それは、私が中学に入つたか、入らなかつたかの時分だつたから、かれこれ二十年近く前にはなるのだらう、今日ではアスフアルトの立…

カフェー発祥の地としての本郷(その1)

「日本において最初にカフェーを名乗った店が登場したのは、明治44年の銀座プランタンである」という定説に反して、それ以前に「本郷カフエー」が存在したことについては、「寺田寅彦と謎の本郷カフエー」で紹介したところである。 寺田の日記だけでは、確…

明治四十四年銀座のカフェーに先陣争い(その3)

3 決戦!カフェーパウリスタ ここまで1勝1敗の両者の戦い。いよいよカフェーパウリスタで決戦。 鴎外は、 大正6年3月24日 與類往銀座。Café Paulistaに立ち寄る。 小泉は、 明治45年1月19日 阿部、久保田の二人と小山内さんの時間が済んだあと、はじめて…

明治四十四年銀座のカフェーに先陣争い(その2)

2 カフェーライオンで第2戦 森鴎外は、 明治44年12月26日 築地精養軒にて陸軍省忘年会を開く。予も往く。始てCafé Lyonに往きて見る。 小泉信三は、 明治44年9月1日 三河屋から銀座に廻ってカフェライオンに入って見た。 これは、明らかに小泉の勝利である…

明治四十四年銀座のカフェーに先陣争い(その1)

明治44年銀座に相次いで、オープンしたカフェー、プランタン、ライオン、パウリスタ。当時の日記が残る森鴎外、小泉信三の日記を使って、どちらが先に入店したか調べてみた。 1 初戦はカフェープランタン 鴎外*1は、 明治44年5月20日 亀井伯夫人洋行の途に…

寺田寅彦と謎の本郷カフエー

『日本の名随筆別巻3 珈琲』中の寺田寅彦「コーヒー哲学序説」*1によると、 ドイツに留学するまでの間におけるコーヒーと自分との交渉についてはほとんどこれという事項は記憶に残っていないようである。(略) 西洋から帰ってからは、日曜に銀座の風月へよ…

カフェーパウリスタとおとわ亭の時代

『珈琲』*1を飲んでいたら、いや、読んでいたら、おとわ亭に出会った*2。 私が宇野浩二等とカッフェエを歩きまわったのは、それから大分後の事になる、鴻の巣に青い酒、赤い酒を飲んだ連中がカッフェエ第一期生とすれば、我々はさしずめ第二期生と呼ばれるの…

神保町カフェブラジルに書痴二人

林哲夫氏の『喫茶店の時代』には、神田神保町桜通りのブラジルのマッチラベルの写真が掲載されているが、戦前のある日、このカフェブラジルに、書痴二人が会した(ただし、両者が同一の喫茶店という絶対的根拠はない)。 斎藤茂吉の日記によると、 昭和4年8…