神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

2011-06-01から1ヶ月間の記事一覧

吉田巌が読んでもトンデモ本だった小谷部全一郎『日本及日本国民之起原』

小田光雄氏が「古本夜話108 春山行夫と小谷部全一郎『日本及日本国民之起原』」を書いておられる。厚生閣にいた春山行夫が小谷部の『日本及日本国民之起原』(厚生閣、昭和4年1月)を担当していたという話には驚かされた。そこで、同書関連のネタをアップ…

結城素明と伊上凡骨

盛厚三『木版画彫刻師 伊上凡骨』(ことのは文庫、2011年3月)8頁に、目次に伊上純蔵の名前が初登場した『明星』明治35年1月号には、どれを凡骨が彫ったものか不明だが、結城素明、山本幽香、岡吉江、藤島武二らの挿絵版画が載っているとある。この結城は、…

監獄部屋(タコ部屋)撲滅運動家だった中山忠直

『近代日本社会運動史人物大事典』には名前の出てこない中山忠直だが、本人によると監獄部屋(タコ部屋)撲滅運動に尽力したという。『日本に適する政治』(中山忠直、昭和15年11月)によると、 明治から大正十年頃まで、北海道や樺太に監獄部屋とて、人夫を…

林倭衛と広津和郎の出会い

広津和郎『年月のあしおと』の「本郷・八重山館時代」に、 その八重山館時代には、画家の林倭衛がよくやって来た。大杉派のアナーキストで、一時実行運動までやっていたのが、絵を描き出し、大杉の肖像や小笠原風景を描いたりして、二科会に出したが、その小…

団鬼六の母香取幸枝と六条奈美子

『断腸亭日乗』に国木田虎男夫妻が出てくる次の記述については、既に述べた*1。 昭和2年8月13日 蚤く起き出でホテル門外の街を歩む、偶然活動株式会社の北沢氏に会ひ(略)北沢氏の紹介にて始めて国木田独歩の男乕男氏夫妻と語る、夫人は女優六条氏の妹なり…

座右宝刊行会と後藤真太郎

さて、小谷野敦『里見とん伝』409頁に、1971年末志賀直哉『玄人素人』(座右刊行会)豪華版刊行記念で、志賀の妻康子を慰めるため、志賀家に集まったメンバーとして、阿川弘之や座右宝刊行会の後藤茂樹の名前があがっている。この後藤茂樹だが、座右宝刊行会…

岡本太郎を小僧呼ばわりした元第一高等学校教授の内藤丈吉

石黒敬七『蚤の市』(大倉書房、昭和10年2月)によると、 昔、一高の数学の教授で、巴里に留学し、そのまゝ巴里美人と出来て、今では二人の児もあり、仏蘭西に帰化して、美術学校の横、ボナバルト通りは十二番地に、日本雑貨店を経営し、浮世絵、日本食料品…

微苦笑の人久米正雄とモダーン・ガールの人北澤秀一

長野まで行かなくても、薄井秀一=北澤秀一に関して幾つかの発見があった。東京朝日新聞とは別の死亡広告に、親戚総代として、北澤新作、清水金右衛門、西澤豊三郎、薄井登一郎の名前があった。北澤側の資料から「薄井」が出てきたことになる。あと、東京朝…

灰色の鳩という名の大正期の作家

大正7年12月14日燕楽軒で開かれた生方敏郎の『一円札と猫』の会に出席した「灰色の鳩」は、作家だったようだ。大正期の読売新聞「よみうり婦人附録」の「読売おとぎばなし」に執筆していた。 大正6年11月17日〜27日 「鐘太郎の正夢」 12月25日〜29日 「或晩…

永井荷風が見たカフェーの久米正雄

『断腸亭日乗』は索引があるのですぐ調べられるのだが、荷風がカフェーで目撃した久米正雄をまとめてみた。 大正15年10月5日 銀座太牙楼にて瀬戸英一、久米正雄、俳優高橋義信等に会ふ昭和2年7月6日 邦枝日高*1の二子来訪、改造社全集本編纂のことにつきてな…

澤田卓爾の没年

英文学者澤田卓爾の経歴については、2008年3月2日に紹介したところである。生年は1881年だが、没年は未だ不明である。秋庭太郎の『荷風外傳』にハワイ在住の澤田から荷風と交際した頃を回想した手紙を1967年11月に貰ったとあるのが確認できる最後の消息か。 …

久米正雄に漂う淋しさ

関口良雄『昔日の客』所収の「古本」に久米正雄が出てくる。 私は久米さんの講演を二、三回聴いたことがある。一度は九段の軍人会館であつたか、昭和十五年の紀元節の前夜、菊池寛、横光利一、室生犀星と云つた人達の文芸講演会があつた。司会者は久米さんで…

燕楽軒開店初期の状況

大正7・8年に燕楽軒で開催されたり、開催予定だった会合の状況をまとめてみた。 大正7年5月12日 本郷三丁目燕楽軒開業披露広告(同日付東京朝日新聞) 6月5日*1 龍土会(本郷四丁目燕楽軒)・・・徳田秋聲・岩野泡鳴が幹事。白鳥正宗、前田晁、長田秀雄、有…

荒川洋治がまたまたやってくれた*1

日経に荒川洋治氏による小谷野敦『久米正雄伝』(中央公論新社)の書評。やってくれますね。 「この大部な労作はどこを読んでもおもしろい」とか「軽快なリズム、流麗な語りは格別だ」と。久米正雄伝―微苦笑の人作者: 小谷野敦出版社/メーカー: 中央公論新社…

久米正雄が昭和2年に失ったもう一人の友人北澤秀一(その3)

6 北澤秀一としての活躍薄井秀一は大正11年には帰国したと思われる。阿部の日記に、 大正11年4月13日 六時約に従つてライオンに北澤(薄井)小宮をたづね帰つたあとで一人で銀座を散歩して帰宅 とある。実は、この「北澤(薄井)」という記述で、北澤秀一と…

消えた大西小生

薄井秀一=北澤秀一はちと一休み。昔々大西小生という人がいた。いや、今もいるはずだが、主宰していたホームページ「新「アリス」訳解」は2009年以来消滅したままである。小谷野敦『リアリズムの擁護 近現代文学論集』(新曜社、2008年3月)所収の「岡田美…

久米正雄が昭和2年に失ったもう一人の友人北澤秀一(その2)

1 生年 薄井の生年は不明だが、 ・松崎天民『人間見物』(騒人社書局、昭和2年11月)に北澤秀一は明治11年生まれの天民より若いとある*1 ・米窪太刀雄『海のロマンス』(誠文堂書店・中興館書店、大正3年2月)の「はしがき」で、明治14年生まれの米窪は薄井…

久米正雄が昭和2年に失ったもう一人の友人北澤秀一(その1)

久米正雄は昭和2年7月第一高等学校以来の親友芥川龍之介を失った。従来知られていないことだが、久米は翌月にも友人を失っている。日本で「モダーン・ガール」という言葉を最初に使った北澤秀一である。北澤の死については、故菅聡子先生が『セクシュアリ…

松宮春一郎と『外交時報』

「松宮春一郎年譜」(2月13日参照)は、安藤礼二氏に続いて小田光雄氏(「古本夜話104 『世界聖典全集』と世界文庫刊行会」)からも過分のお言葉をいただきました。作成した甲斐がありました。ありがとうございます。この松宮だが、伊藤信哉『近代日本の…

独歩の通夜の翌日も一騒ぎ

独歩の通夜の日における茅ヶ崎館での田山花袋と小栗風葉・真山青果との騒ぎについては、黒岩比佐子『編集者国木田独歩の時代』(角川選書)317頁に書かれているところである。実は、その翌日にも騒ぎがあったことが、岩野泡鳴の日記に出てくる。 大正2年4月1…

大正6・7年の久米正雄と燕楽軒の時代

小谷野敦編「久米正雄略年譜」などから大正6・7年の久米正雄の交友関係と燕楽軒を年譜にしてみた。 大正6年 3月 「嫌疑」で『中央公論』デビュー 4月 本郷五丁目二十一番地荒井しげ方へ転居 9月 三土会で広津和郎と初対面。他に谷崎精二、芥川龍之介、江口渙…

万年大学生だった五十嵐小太郎

久米正雄「万年大学生」を読んだら、万年大学生について、 ・高等学校は独逸語か何かに落第点を取って、一年遅れて卒業したが、その時になって急に文学志望を変えて、京都大学の法科に転じてしまった ・しばらく京都にいたが、面白くないし、頭を悪くしたた…

小谷部全一郎『日本及日本国民之起原』が発行10年後に発禁処分になった理由

小谷野敦『久米正雄伝』491頁に「日ユ同祖論」が出てくる。昭和19年10月21日、いとう句会で日ユ(日本−ユダヤ)同祖論で盛り上がったが、久米だけがその本を知っていたという。この典拠は徳川夢声の日記で、 昭和19年10月19日 「日本及日本国民[之]起原」ト…

久米正雄「モン・アミ」の画家相澤八郎のモデル(その2)

小谷野敦『久米正雄伝』の「あとがき」に、久米の趣味人としての側面をあまり描かなかったとある。そこであげているのは、スポーツ、賭け事、お祭りであるが、画家としての側面も含めているようで、同書に出てくるのは、大正8年1月10日から1週間、洋画の「一…

和田博文『資生堂という文化装置 1872−1945』(岩波書店)への補足

田中貴子先生が今日の朝日に和田博文『資生堂という文化装置 1872−1945』(岩波書店)の書評を書かれた。本書をほめる人が多いだろうから、あえて注文を一、二。和田氏は知っていて書いていない気もするが、 ・129頁『資生堂月報』昭和2年5月号「「断髪」特…

あっちゃんもビックリ!?久米正雄『拓きゆく道』の共著者遠藤節の正体

実は海老名文雄にはちょっこし付け足しがあるが、その前にあっちゃんもビックリ!?の遠藤節ネタを。 小谷野敦『久米正雄伝』407頁は、久米が書いた『拓きゆく道』(講文館、昭和8年3月)について、福島県会議員で郡山市参事会員の原孝吉*1の伝記読み物と紹…

「グーグーだって猫である」だって終わるのである

大島弓子「グーグーだって猫である」は、掲載誌である『本の旅人』をもらえた時だけ読んでいたので、あまり良い読者ではなかった。しかし、6月号の最終回を読んで涙した。4月21日グーグーは15年8月の生涯を閉じたという。最後のコマには、 グーグーにかける…

久米正雄「モン・アミ」の画家相澤八郎のモデル

武野藤介『文士の側面裏面』(千倉書房、昭和5年6月)の「誤失歩政策」は、久米正雄の「モン・アミ」について、 扨(さ)て久米正雄氏はこのチェッペリン伯飛行船に托して、小説「モン・アミ」一篇を「改造」へ寄稿して来たのだ。読んでみなくてもたいしたも…