神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

壽岳文章と上方郷土研究会の南木芳太郎ーー向日市文化資料館で「寿岳文章と向日庵本の世界」開催中ーー


 昨年11月第5集で完結した『南木芳太郎日記ーー大阪郷土研究の先覚者ーー』(大阪市史料調査会)は、読むのが楽しい日記である。第5集に小早川秋聲が出てくることは、「昭和19年《國之楯》を完成した直後の小早川秋聲が『南木芳太郎日記五』に - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。今回は壽岳文章である。

(昭和十六年)
住所人名録
(略)
京都市外向日町上植野  壽岳文章
(略)
(昭和十九年)
五月二十一日
◯十一時過ぎ、高津中寺町梅松院へ行く。後藤*1・森*2・鹿田*3先着。
(略)
◯四時過ぎ解散、来会者百名斗り、盛会也。留守中に壽岳文章氏来訪、『入江昌喜翁』十冊申受け帰る。
(略)

 昭和19年5月21日は、江戸期の国学者入江昌喜の顕彰会の行事だったようだ。壽岳と南木はそれほど親しかったとは思えないが、壽岳は南木が主宰した『上方』(上方郷土研究会)135号、昭和17年3月に「和紙文化と大阪」を寄稿するなど、一定の交流があった。調査が進められている壽岳の日記に南木は出てくるだろうか。
 ちょうど今、向日市文化資料館で「寿岳文章と向日庵本の世界」展を開催中。3月26日(日)まで。記念講演会として、3月25日(土)キャスリーン・A・ベーカー氏(紙史研究家兼教育者、ザ・レガシー・プレス代表)の「ダード・ハンターとその私家版」が予定されています。要申込。詳しくは、「催し物案内/京都府向日市ホームページ」。

 

*1:後藤捷一

*2:森繁夫

*3:鹿田静七

昭和19年《國之楯》を完成した直後の小早川秋聲が『南木芳太郎日記五』に


 昭和19年2月22日小早川秋聲の《國之楯》が完成した。この作品は、一昨年の夏京都文化博物館の「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」展で展示された。この時期の小早川が、『南木芳太郎日記五』(大阪市史料調査会、令和4年11月)に出てくるので、紹介しておこう。

(昭和十九年)
二月十一日(金曜日)紀元節
(略)難波別院に至る。(略)
番所にて鹿野氏・長島氏・山口氏と会見。明治天皇聖蹟顕彰について相談す。(略)
二月十七日(木曜日)
◯京都東山巡り護国神社前東一休庵にて(大谷大学徳重氏*1・小早川氏・山口氏・鹿野氏等と会合の事、午後四時の約束也)。
(略)
二月二十四日
(略)
◯午後五時、難波別院へ行き安井栄之(少年審判所長)・勝山検事・藤岡事務長官・小早川秋声氏等と協議後、信濃橋ふた葉にて会食す。
二月二十八日(月曜日)
(略)
◯難波別院発起人会欠席す、電話にて断る。
三月十日(金曜日)午後より寒し
(略)
◯難波別院より、午後四時、相談会、「明治天皇聖蹟絵画選定」に就て、中山副会長・江崎政忠・中根貞彦・藤岡・私・朝倉の諸氏。
(略)
四月十九日
(略)
◯難波別院長島賢正氏より明治天皇避[ママ]画館の順序書を送り来る。
(略)

 「鹿野氏」は、南木が主宰した『上方』149号(上方郷土研究会、昭和18年8月)の「上方日記抄」昭和18年8月24日の条に出てくる難波別院輪番の鹿野久恒と思われる。難波別院は、東本願寺の別院である。  
 また、表紙に《國之楯》が載る前記展覧会の図録(求龍堂、令和3年8月)の年譜(浅田裕子編)によれば、秋聲の父は東本願寺明治35年から会計顧問を務め、秋聲も明治27年から同寺の集徒として僧籍があった。昭和11年12月には横浜東本願寺別院の本堂に掲げる《太子伝》と《宗祖伝(親鸞聖人)》の絵伝壁画の執筆を受けている。更に、昭和14年11月に鹿野久恒の発願による石川県仏願寺の蓮如上人一代記壁画六作を完成し枳殻亭で内示展を開催している。
 これらの事から、南木の日記に出てくる「小早川秋声」は、《國之楯》の小早川と同定できそうだ。日記の前後の文章から小早川は、大阪に行幸した明治天皇聖蹟絵画を頼まれた可能性があるが、どうだろうか。戦局が益々悪化していく時期で、依頼を引き受けたのか、作品は完成したのかどうか。ただ、翌年3月の大阪大空襲で難波別院は壊滅するので、作品があったとしても焼失したことになる。

*1:徳重浅吉

東大の博士論文に「神保町系オタオタ日記」登場ーー鈴木聖子『「科学」としての日本音楽研究』にスメラ学塾ーー


 国会図書館デジタルコレクションで全文検索の対象範囲が飛躍的に拡大され、研究環境に革命が起きたようだ。例えば、「神保町系オタオタ日記」で検索すると、鈴木聖子氏の博士論文『「科学」としての日本音楽研究:田辺尚雄の雅楽研究と日本音楽史の構築』(東京大学大学院人文社会系研究科、平成26年9月)がヒットして驚いた。
 国会図書館館内限定なので、早速確認してきた*1。注として、「神保町系オタオタ日記」内の「スメラ学塾」の連載が有用な情報を提供しているとある。わっ、ビックリ。日本音楽史関係の論文になぜ拙ブログが?と思っていたら、まさかのスメラ学塾に関連しての言及だった。他には、森田朋子論文、竹内孝治・小川英明論文、小田光雄「古本夜話122」にも言及している*2
 なぜ、日本音楽史関係の論文にスメラ学塾が出てくるかというと、田辺の『東洋音楽史』(雄山閣昭和5年9月)*3にスメル人と日本人が同祖というようなことを書いていて、鈴木氏はその背景として当時のバビロン学会の原田敬吾*4や『天孫人種六千年史の研究』(スメル学会、昭和2年12月)の三島敦雄に触れ、更にその延長線上として後年の小島威彦らのスメラ学塾にも言及しているからである。ただし、田辺がスメラ学塾と直接に関係があったというわけではない。
 博士論文の審査委員は、
渡辺裕東大教授
古井戸秀夫東大教授
佐藤健二東大教授
小林真理東大准教授
寺内直子神大教授
である。博士論文中の注に出てくる「神保町系オタオタ日記」を目にして、苦笑したか、「なんじゃこれは」と思ったりしただろうか。
 「人間グーグル」を自称してきたオタどんだが、国会デジコレの全文検索化により、そろそろ引退するか、「人間デジコレ」に進化しないと生き残れないかもしれない(^◇^;)
参考:「大塚英志『大東亜共栄圏のクールジャパン』(集英社新書)にスメラ学塾 - 神保町系オタオタ日記

*1:東京大学学術機関リポジトリ」でも読めます。

*2:博士論文を「一般の読者の方へ向けて大幅に書き直した」という『〈雅楽〉の誕生:田辺尚雄が見た大東亜の響き』(春秋社、平成31年1月)では、スメラ学塾には言及していない。ただし、「文献資料」として竹内孝治・小川英明論文を挙げている。

*3:平凡社東洋文庫からの復刻版(平成26年12月)の校注(植村幸生氏)(4)で、高楠順次郎について、「晩年の高楠は「スメラ学塾」の一員となり」とあるが、管見の限りではそのような事実はない。

*4:「日本人=バビロン起源説」を提唱した原田敬吾のバビロン学会と無教会主義の塚本虎二 - 神保町系オタオタ日記」参照

大阪古書会館で脇清吉の『プレスアルト』77号(プレスアルト会、昭和24年)を


 広告印刷物の実物付きの研究誌『プレスアルト』を昭和12年1月に創刊した脇清吉については、「ワキヤ書房の脇清吉とイスクラ書房の黒木重徳 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介したところである。戦前分(~73号、昭和19年3月)*1柏書房から復刻版が刊行され、戦後分(74号、昭和24年1月~)は平成30年10月江之子島文化芸術創造センターの「『プレスアルト』誌と戦後関西の広告展」に多数展示された。原本を一冊ぐらい欲しいと思っていたら、先月の大阪古書会館「たにまち月いち古書即売展」で見つけた。77号(プレスアルト会、昭和24年7月)で、シルヴァン書房出品1,000円。残念ながら、広告印刷物は付いていなかった*2
 77号は、戦死した3人のデザイナー、柴田可寿馬・原藤雄・佐藤英一郎の追悼号である。同時期に柴田や佐藤と大丸宣伝部で活躍し、プレスアルト復刊の発起人の一人でもある今竹七郎による追悼文「二つの流星」が載っていて、安い買い物だったと思う。
 3人のうち、大丸京都店宣伝部にいた原の略歴だけ紹介しておこう。

原藤雄
原籍地 京都府船井郡富本村
大正2年3月 出生
昭和8年 京都高等工芸学校図案科卒業
? 霜鳥之彦・向井寛三郎・赤澤鉞太郎らと共に商業美術団体KBB*3を結成
昭和11年11月 大丸京都店宣伝部に転勤
昭和20年1月 レイテ島で戦死

*1:64号、昭和18年5月より『印刷報道研究』に改題

*2:竹内幸絵編『開封・戦後日本の印刷広告:『プレスアルト』同梱広告傑作選〈1949-1977〉』(創元社、令和2年3月)の佐藤守弘「医薬品ーー病気と健康のあいだに」と石田あゆう「化粧品広告デザインの多様性 美人ポスター・ハウスオーガン・包装パッケージ」に、77号の広告印刷物の一部が掲載されている。

*3:正しくは、昭和15年創立の京都産業美術研究会(KSB)か。

福島県只見町生まれだが寒がりのオタどんーー内山大介・辻本侑生『山口弥一郎のみた東北』を読むーー


 南陀楼綾繁『古本マニア採集帖』(皓星社)を読んだ人は、私が昭和34年に福島県南会津郡只見町で生まれ、その後静岡県清水市で育ったと覚えているかもしれない。今戸籍を見ていたら、より詳しくは只見町大字石伏字澤の下で生まれていたことが判った。ただ、生まれて数年で清水に移っているので、まったく記憶にない。大人になってから父に何度か「生まれた所に連れて行ってやるよ」と言われたが、興味がなかったので断ってしまった。結局、未だに只見町を再訪したことがない。
 冒頭の写真で挙げた『会津日日新聞』明治38年2月10日は、6年前東京古書会館で購入。珍しそう*1なのと出生地縁の新聞なので買ったのだろう。日露戦争中で特に面白い記事は載っていない。
 福島県関係では、内山大介・辻本侑生『山口弥生一郎のみた東北:津波研究から危機のフィールド学へ』(文化書房博文社、令和4年2月)も最近読んだ。山口は現福島県大沼郡会津美里町生まれの教員・民俗学者・地理学者である。山口らが昭和10年創立した磐城民俗研究同志会が刊行したという『磐城地方の石に関する民間伝説』が気になる。更に、昭和28年田子倉ダム着工前に会津女子高校郷土研究部の活動として行った「奥会津田子倉生活調査」に関する記述にも注目した。実は、父が只見町に来ていたのは田子倉ダム建設のためであった。そのため、私は、昭和35年のダム完成後清水に移るまでのごく短期間しか豪雪地帯の只見町に住んでいない。雪がまったく降らない清水で育ったので、寒さには弱く冬はコタツネコ状態である。
 同書114頁には『東北民俗誌:会津編』(富貴書房、昭和30年5月)からの引用文が載っている。

ダムが完成したとき、それらの工事関係者は再び大波のひくごとく立ち去るであろうが、その頃は又、湖底に沈む墳墓の地に、尽きせぬ名残を惜しみながら、村人もこのなつかしの四周の風景にも別れて、去ってゆくであろう。(略)

 まさしく父はこの大波のごとく立ち去った工事関係者の一人であった。いつか私が父の代わりに只見を訪れたいものである。

喫茶進々堂のテーブルを作った黒田辰秋と平瀬貝類博物館ーー併せて梅原真隆と仏教児童博物館ーー


 昨年最も印象的だったのが、龍谷ミュージアムの「博覧ーー近代京都の集め見せる力ーー 初期京都博覧会・西本願寺蒐覧会・仏教児童博物館・平瀬貝類博物館」展であった。最近その時の興奮を再び呼び起こすかのように、平瀬貝類博物館や仏教児童博物館に関する記述に出会った。
 一つは、黒田辰秋の年譜である。黒田は京大前にある喫茶進々堂*1のテーブルセットを制作した木漆工芸作家である。あの長机でお勉強したことがある京大生も多いだろう。現在アサヒビール大山崎山荘美術館で「没後40年黒田辰秋展ーー山本爲三郎コレクションより」を開催中(5月7日まで)である。展示されていた年譜の中に大正10年黒田が画廊三角堂で河井寛次郎の《三彩獅子牡丹文莨筥》に感銘を受けたとあった。この京都初の洋画商三角堂については、「武林無想庵の渡仏を助けた京都初の洋画商三角堂の薄田晴彦 - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがあるので驚いた。更に関連イベント「森見登美彦先生と語る 京都の青春、上加茂民藝協団」で配られた黒田の略年譜(抄)*2大正6年平安神宮近くの平瀬貝類博物館でメキシコ鮑の標本を見て、そのきらめきに魅了されたとあった。この記述は展覧会場の年譜にもあって見落としていたのかもしれない。黒田は後にメキシコ産鮑貝を使った螺鈿装飾を手がけるので、平瀬貝類博物館での出会いがよほど強い衝撃を与えたのであろう。大正2年3月から8年5月までの短期間しか存在しなかった同博物館を伊良子清白が観ていたことは「京都の上野、岡崎にもあった博物館ーー平瀬與一郎の平瀬貝類博物館ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した。黒田も観覧者の一人だったのだ。
 もう一つは、仏教児童博物館に関する記述のある梅原真隆主宰の雑誌『道』(親鸞聖人研究発行所)である。

「雲水抄」『道』101号、昭和8年10月
(九月)
◯廿一日は京にかへつた。夜は児童博物館で宗教研究座談会がひらかれた、大本教の制度について聴いた。

「学苑雑抄」『道』126号、昭和10年11月
(十一月)
十一日、午後二時より東山児童博物館にて宗教制度座談会を催す。大阪の田中東三郎氏が「金光教の制度組織について」話さる。

 仏教児童博物館が、展覧会のほか宗教関係の会合にも使われたことは「龍谷大学龍谷ミュージアムで仏教児童博物館に関する展覧会を開催ーーオタどんのツイートが切っ掛け⁉ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及したが、大本(教)や金光教に関する宗教座談会も開催されていたことがこれで判明した。

大塚英志『大東亜共栄圏のクールジャパン』(集英社新書)にスメラ学塾


 大塚英志大東亜共栄圏のクールジャパン:「協働」する文化工作』(集英社、令和4年3月)にスメラ学塾が出てくる。「第四章 大東亜共栄圏ユビキタス的情報空間ーーアニメ『桃太郎 海の神兵』と柳田國男」の「四 スメル文化圏と南方言説」である。

(略)「スメラ学」を提唱したグループは小島威彦(国民精神文化研究所)・仲小路彰を中心に「スメラ学塾」を名乗り、女優・原節子の義兄・熊谷久虎*1らが参加した。一九四二年には同様の主張をする「アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会」*2(図16)なるイベントが開催される。(略)

 大塚氏もスメラ学塾に着目しましたか。最近では、小池百合子都知事の父親がスメラ学塾の塾員だったと話題になりましたね。ただ、大塚氏は「これ以上、深入りしない」とし、関連組織「戦争文化研究所」*3の「日本学」や戦後に連なる川添浩史(レストランキャンティのオーナー)*4らの人脈は重要かつ興味深いが「これも今のぼくの手に余る」としている。しかし、「今の」とあるので、今後調査・研究する可能性はありそうだ。
 『文化資源学』4号(文化資源学会、平成17年)掲載の森田朋子論文*5やそれに続く拙ブログ、更には『造形学研究所所報』7号・8号(愛知産業大学造形学研究所、平成23年・24年)掲載の竹内孝治・小川英明論文*6以来、スメラ学塾関係の論文や記事が増えてきた。最近話題の国会デジコレの全文検索を使うと、未知の文献も多数見つかる。そろそろ本格的な著書が出てくるかな。