神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

東京古書会館の特選古書即売展にも負けない一箱古本市を目指してーー10月29日・30日に皓星社で一箱古本市ーー


 今年も何とか「神田古本まつり」(10月28日~11月3日)と「神保町ブックフェスティバル」(10月29日・30日)が開催される。併せて昨年に続き皓星社(専修大学前、ラーメン屋大勝軒の上6階)では、10月29日・30日10時~16時に一箱古本市が開催されます。私も頼まれて一箱出すことになりました。よろしくお願いします。ほとんどが初めて出品する本・紙ものですが、一部古書善行堂の一箱古本市で売れなかった物も含まれます。
 10月28日からは東京古書会館で特選古書即売展が開催されます。私も楽しみにしてます。意気込みとしてはこの特選古書即売展にも負けない出品を目指しますが、あちらには何十万円、何百万円もするトンデモない物が出るようなので、中々…まあそれでも一部の好事家には受けそうな逸品を用意しましたので、是非お寄りください。
 現時点で準備ができた物の一部の写真を挙げました。また、ブログで紹介したことがある物はリンクしておきます。
昭和8年竹中郁から川西英に贈られた詩とはーー小磯記念美術館で開館30年特別展「竹中郁と小磯良平」、神戸ゆかりの美術館で特別展「川西英」を開催予定ーー - 神保町系オタオタ日記
明治41年京都御苑内の京都府立図書館で法学を勉強する若者がいた - 神保町系オタオタ日記
下鴨納涼古本まつりの最終日に福沢諭吉『京都学校の記』(書籍会社、明治5年?)を拾う - 神保町系オタオタ日記
昭和13年の日記に挟まっていたトンデモないお宝ーー中華民国維新政府の成立を伝える『南京民報』号外ーー - 神保町系オタオタ日記
高橋輝次氏旧蔵?金子光晴命名の詩誌『いささか』創刊号(さかえ書房) - 神保町系オタオタ日記
古書鎌田から芝川ビルの意匠設計をした本間乙彦の饅頭本『忍び草』 - 神保町系オタオタ日記
口笛文庫で横尾忠則人生初の装幀本『近畿文学作品集』を確保 - 神保町系オタオタ日記
戦時下の雑誌統廃合が進む中でも創刊された同人雑誌『四国文化』 - 神保町系オタオタ日記
カルピスを「初恋の味」にした驪城卓爾と三島海雲ーー厚生書店で見つけた『箕山遺稿』ーー - 神保町系オタオタ日記
第4代東洋大学学長境野黄洋旧蔵の村上専精『仏教統一論』(金港堂、明治34年)を発見!ーーオリオン・クラウタウ編『村上専精と日本近代仏教』(法藏館)に寄せてーー - 神保町系オタオタ日記

大谷派の真宗東京中学舎監・教授だった赤松大励の経歴


 赤松大励『修養小話:印度古代お伽草紙』(森江英二、明治39年12月)は、国会図書館デジタルコレクションで見ることができる。初版の序文は南條文雄・吉田賢龍で、再版に際して佐々木月樵の序文が加わったようだ。それによると、赤松は、兵庫県飾磨郡西中島村の法林寺住職川崎了温の次男として明治7年5月に生まれた。その後、妻鹿村西楽寺の赤松祐秀の養嗣子となり、佐々木とは真宗大学の寄宿舎で同室となって知り合ったという。赤松は、卒業後に真宗東京中学の舎監長[ママ]、倫理の教授となるが、明治38年3月満洲奉天で戦死したともある。
 実は、この赤松が「明治28年稲葉昌丸や今川覚神の周辺にいた真宗大谷派某氏の日記 - 神保町系オタオタ日記」や「『教界時言』を発行した清沢満之ら白川党の身近にいたか『乙未日録』の筆者ーー大谷大学博物館で「清沢満之と真宗大学」展開催中ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した日記『乙未日録』の筆者であった。これは、今年四天王寺春の大古本まつりで、赤松自筆の『予乃歴史』を掘り出して判明した。同書から赤松の経歴を要約すると、

明治7年7月 川崎了温の息子として誕生
明治11年 父遷化
明治16年~17年 叔父に供われ京都に赴き得度式を受ける。赤松祐賢(祐秀の父)の次男として、同年7月僧侶となる。 
明治18年(又は17年)7月 網干を去り、妻鹿村の赤松祐秀に依托され教育を受ける。
明治23年 姫路本徳寺内私立崇徳校卒業*1
明治28年3月 姫路尋常中学校卒業
同年 6月京師に入り岩崎護と真宗大学寮入学を企て、9月第2部に入学
同年12月 一年志願兵となり入隊
明治29年11月 満期退営
明治30年9月~12月 予備召集に応じる。
明治31年1月 復学
同年3月 陸軍少尉
明治34年7月 真宗大学卒業。権律師に補せられ、学師補の称号を受ける。
同年11月 真宗東京中学舎監兼教授
明治35年3月 歩兵中尉
同年9月 1年、2年級の倫理科を受け持つ。

 佐々木による序文の内容とは、赤松の生年月や養父の名前が異なっていることが分かる。また、私は、日記の筆者は岩崎や興地観円らと共に清沢満之ら白川党の周辺にいたと推測したが、赤松は後年ではあるものの『精神界』2巻12号(精神界発行所、明治35年12月)に「親鸞聖人の理想的人格」を執筆していた。更に、日記に見える進化論に関する記事は自ら原書を翻訳した節があるとしたが、『予乃歴史』には18歳の時に川口弥吉に英語を学ぶとあるので、翻訳ができる可能性はあったことになる。300円均一のクズ和本の中にあった赤松の日記・自筆年譜、目録に挙げれば大谷大学の学史研究者には売れたかもしれない。

*1:『日露戦役忠勇列伝:兵庫県之部第二号』(忠勇顕彰会、大正4年8月)によれば、同校在学中に雑誌『学園』の編集員となり、「華陽日記」を掲載した。

昭和13年の日記に挟まっていたトンデモないお宝ーー中華民国維新政府の成立を伝える『南京民報』号外ーー


 一時期「痕跡本」が話題になった。提唱したのは、古沢和宏『痕跡本のすすめ』(太田出版平成24年2月)である。書き込み、破れ、挟み込み、貼り込み、破り取りなど、前の所有者の「痕跡」が残された本のことである。よくある痕跡としては、書き込み(傍線、誤植の訂正、落書き、所蔵者の氏名、蔵書印など)、挟み込み(葉書、切符、入場券の半券、領収書、イチョウの葉、新聞特に訃報欄、現金など)かな。
 ありがたくない痕跡がほとんどだが、著名人のサイン・蔵書印・書き込みや著名人からの葉書・手紙、珍しい絵葉書、現金などはありがたい痕跡ですね。古沢氏の真骨頂は通常ありがたくないと思われる痕跡に対して独自の視点から物語を構築していることである。これは誰にでもできることではなく、真似して痕跡だらけの本を集めても、いざ処分しようとする時にトホホということになる場合が多いので注意。
 私が数ヶ月前に骨董市で買った昭和13年の日記も痕跡本であった。日記帳なので書き込みがあるのは当然だが、挟まっていた新聞には驚いた。写真に挙げた『南京民報』(南京民報社)の3月28日付け号外である*1
 記事の内容は、中華民国維新政府の誕生を伝えるもので、後半には梁鴻志、温宗堯、陳則民、王子惠、任援道、陳錦濤など主要閣僚の名前が出ている。同政府の誕生は、南京陥落後の昭和13年3月28日。挟まっていた場所も、日記の同月27日と28日の頁の間である。
 日記の筆者は岐阜県に住んでいて、どうやって入手したのか疑問に思うところである。これは、3月28日の記述である程度推測できた。江南の地で活躍している藤田某からの同日に届いたと思われる手紙に「山田隊も音にきこえた○○方面へ移動せんとしてゐるとの事でこの御便がつくころにはその○○の目的地へ着いてゐる」とあるが、「○○」とは「南京だろう」と推測している。その後の日記の「受信」欄にもこの藤田某の名前があるので、おそらく南京で号外を入手した藤田某が後日送ってきて、日記の筆者は3月28日の頁に挟み込んだのだろう。
 『南京民報』については、「次世代デジタルライブラリー」で読める『昭和十六年版日本新聞年鑑』(新聞研究所、昭和15年12月)の『南京新報』(華文)の紹介中に言及がある。同紙は民国27年8月1日『南京民報』として発行、維新新政府の新聞政策確定と共にその機関紙として改組され『南京新報』と改称したという。ここで問題は、民国27年は昭和13年に当たることである。昭和13年8月創刊では、同年3月に号外を出した『南京民報』とは別の新聞ということになる。この辺りは中国における華文紙の発行状況に詳しい人の御教示を得たいものである。いずれにしても、日本国内には残っていそうもないお宝の号外、近く神保町で開催される某一箱古本市にこっそり出すかもしれないので、お楽しみに(^_^)

*1:縦17cm、横23cm。正確な長方形ではない。裁断機ではなく、ハサミで切ったと思われる。

民間伝承の会主催日本民俗学講座と折口信夫主催鳥船社の歌会が開催された佐藤新興生活館


 神田駿河台の佐藤新興生活館については、「昭和17年民族学者杉浦健一が佐藤生活館で南方派遣者(?)向けの講演会ーースメラ学塾の南方指導者講座との関係ーー - 神保町系オタオタ日記」などで紹介したところである。今は山の上ホテルとなっていて、私もいつかは泊まってみたいものである。
 この佐藤新興生活館が柳田國男の年譜*1に出てくる。要約すると、

昭和14年
2月26日 佐藤新興生活館で行われた民間伝承の会東京会員大会の日本民俗学講演会で、「文化と文化系」を講演
3月26日 佐藤新興生活館で開催された民間伝承の会東京会員大会で「伝承者」を講演し、座談会ももつ。
4月14日 佐藤新興生活館で行われた民間伝承の会主催の日本民俗学講座で「祭礼と固有信仰」の第1回講演。丸の内ビルで行われていた講座の第7期に当たるが、丸の内ビル側の都合で休止していて、会場を移しての再開。

 その後の日本民俗学講座には折口信夫も参加している。折口の年譜*2によると、

昭和14年
9月22・29日 民間伝承の会主催日本民俗学講座(佐藤新興生活館)で「民間芸術」を講演
昭和15年
1月26・2月2日 民間伝承の会主催日本民俗学講座(佐藤新興生活館)で「民間芸術」を講演

 折口は佐藤新興生活館が気に入ったのか、折口が主催していた鳥船社の歌会も同館で行われるようになった。池田彌三郎『わが幻の歌びとたち:折口信夫とその周辺』(角川書店、昭和53年7月)掲載の波多郁太郎の日記には、

(昭和十四年十月)
五日(木) (略)鳥船短歌会、六時より佐藤新興生活会館にて。(略)
(同年十一月)
七日(火) 晴、温。鳥船歌会。五時より。佐藤新興生活館にて。(略)

 鳥船歌会は、以降も佐藤新興生活館で開催されている。鳥船社は『迢空・折口信夫事典』(勉誠出版、平成12年2月)に立項されていて、大正14年春に國學院大學予科の学生を中心に始まった折口が指導する短歌結社である。昭和13年3月以降、慶應義塾大学の学生波多、加藤守雄、池田、戸板康二ら8名が参加していた。
 日本民俗学講座や折口信夫の鳥船歌会が開催されていた佐藤新興生活館。貸館としての歴史も研究したら、面白そうだ。

*1:柳田國男全集別巻1』(筑摩書房平成31年3月)

*2:折口信夫全集第36巻』(中央公論新社、平成13年2月)

四天王寺の古本まつりで山崎斌の生活文化雑誌『月明』を


 四天王寺秋の大古本まつりは、明日10月7日(金)から。今回Cosyo Cosyoが参加されないのが、残念。冒頭の写真は、4月に開催された四天王寺春の大古本まつりで同店の均一台から見つけた雑誌『月明』5巻5号(月明会、昭和17年6月)である。同誌の発行人である山崎斌については、「草木染の命名者山崎斌が創刊した雑誌群ーー『青年改造』『旅行と文芸』『芸術解放』『文学』『橙』『月明』などーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。

 表紙は山本丘人、裏表紙は前川千帆である。目次を挙げておく。「飛騨雲龍寺」の平塚運一とは、大正11年6月に雑誌『旅行と文芸』を創刊した仲である。『平塚運一展:木版画に捧げた102歳の生涯』(東日本鉄道文化財団、平成12年)の年譜によれば、昭和17年は平塚が手ほどきした作家が集まり、「きつつき会」(畦地梅太郎上野誠、小川龍彦、柿原俊男、北岡文雄、黒木貞雄、下沢木鉢郎、武田由平、中川雄太郎、橋本興家、前田政雄、武藤完一、棟方末華ほか24名)が結成された年である。また、法隆寺五重塔が解体されると聞き、その姿を永久に伝えようと《斑鳩寺初秋》を作り、文展に出品している。
 「草木記(一)」の「なづな」を寄稿した水野葉舟と山崎がいつからの付き合いかは、不明。『近代文学研究叢書61巻』(昭和女子大学近代文学研究室、昭和63年10月)によれば、水野の第2歌集『滴瀝』(昭和15年9月)*1の装幀を山崎が行っている。

 本誌には月明会出版部の近刊情報があり、水野の『食べられる草木(上)』が載っている。これは、月明文庫として上巻が昭和17年7月に、下巻が18年5月に刊行された。前記『近代文学研究叢書』によると、水野は昭和3年9月現成田市駒井野で3千坪の畑地に家を立て、妻子を連れて移り住んだ。「草木記」でも原野にはえる草木を観察したり、食べたり楽しんでいるようだが、妻文は農耕生活に順応できず、2児を連れて別居していたという。

*1:柳田國男全集別巻1』(筑摩書房、平成元年3月)の年譜によれば、昭和16年4月19日柳田は、『滴瀝』の出版記念会に発起人として参加。高村光太郎斎藤茂吉前田夕暮、窪田空穂、野尻抱影北原白秋、安成三郎、山崎らの発起人と折口信夫などが集まった。

太田喜二郎はなぜ内藤湖南の葬儀に出席しなかったのか?ーー太田喜二郎邸が来月公開ーー


 「京都モダン建築祭」の一環で太田喜二郎邸の見学ツアー(事前予約制)があるようだ。太田が大正5年に京都帝国大学工学部講師になって知り合った藤井厚二*1に設計を依頼した建物である。藤井も含めた太田周辺の近代文化人、京大関係者・画家・文学者・新聞記者・政治家などのネットワークについては、昨年から今年にかけて京都文化博物館で「近代文化人ネットワークーー太田喜二郎の周辺ーー」展が開催されたところである。拙ブログでも「太田喜二郎人生最後の年賀状ーー津崎信子宛年賀状からーー - 神保町系オタオタ日記」で同展に出品された『署名貼付帖』について言及した。
 一方、今年3月陶徳民編著『内藤湖南の人脈と影響ーー関西大学内藤文庫所蔵還暦祝賀及び葬祭関連資料に見るーー』(関西大学出版部)が刊行された。内藤の「還暦祝賀関係資料」を見ていると、太田の『署名貼付帖』(内藤を含む158人の署名)と共通する名前が幾らか見つかった。太田を含む700人ほどの『決算書および賛成者芳名録』では、20人ほどが『署名貼付帖』と共通する。京大関係者では荒木寅三郎、植田寿蔵、狩野直毅、河上肇島文次郎新村出、羽田亨*2濱田耕作、深田康算、松村鶴造らである。
 そのほか、黒田天外*3白鳥庫吉らの名前もある。活字の五十音順なので、『署名貼付帖』で署名の一部が不明とされているものが解明できないかと思って調べてみたが、とくに解明できた署名はなかった…
 また、昭和9年6月に亡くなった内藤の「葬祭関係資料」も見てみた。『御参会各位芳名録 その一』には大島五郎(彙文堂)、鹿田静七(鹿田松雲堂)、反町茂雄(弘文荘)といった古書店主の署名がある。「その一」が参会者の順番通りであれば、さすが抜け目のない古書店、真っ先に駆け付けたことになる(^_^;)
 不思議なのは、『御参会各位芳名録』、『香典帳』、『弔電記録』などに太田の名前がないことである。忙しくて内藤の死去を知らなかったのだろうか。それとも、それほど親しくはなかったということだろうか。

坂本慎一『ラジオの戦争責任』(法蔵館文庫)への「補足」ーーラジオ新聞の戦争責任ーー


 坂本慎一『ラヂオの戦争責任』(PHP研究所、平成20年)が法蔵館文庫入りした。せっかくなので、版元の法藏館に行って購入。本書の「法蔵館文庫版・解説」によれば、

 その後、少し遅れて大きな反響があったのが、近代仏教史である。「ミスター・近代仏教」と呼ばれる佛教大学の大谷栄一先生によれば、『ラジオの戦争責任』は近代仏教史研究においてベストセラーになったそうである。今回、仏教書を主に出版されている法藏館から文庫になったのも、この延長上である。

という。確かに第1章で高嶋米峰、第2章で友松円諦と高神覚昇が扱われていて、近代仏教の研究者に注目されたのももっともなことである。大谷栄一・吉永進一・近藤俊太郎編『近代仏教スタディーズ』(法藏館平成28年4月)にも執筆されていて、吉永さんにも会う機会はあったのだろう。
 本書は、日本放送協会の戦争責任を問うものではなく、問うているのは文明の装置としてのラジオということである。そのため、ラジオ出演者の公職追放、ましてや各地の放送協会の役員の公職追放について補足するのは筋違いではあるが、あえて紹介して「補足」としよう。
 先ずは、放送協会の役員である。『公職追放に関する覚書該当者名簿』(日比谷政経会、昭和24年2月*1)から私が直接拾ったものではなく、トム・リバーフィールド「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」『二級河川』17号(金腐川宴游会、平成29年4月)から抽出した。なお、満洲の場合は放送協会ではなく満洲電信電話株式会社だが、同索引では記載が漏れているので私が気付いた役員のみ追加した。

片岡直道 日本放送協会常務理事総務局長
甘蔗義邦 朝鮮放送協会会長
小森七郎 日本放送協会会長
近藤確郎 朝鮮放送協会常務理事
清水市治 日本放送協会理事
関正雄 日本放送協会常務理事
瀬田常男 満洲電信電話理事
泊武治 台湾放送協会理事長
中郷孝之助 日本放送協会業務局次長
西邨知一 日本放送協会参事
土師盛定 朝鮮放送協会長
広瀬寿助 満洲電信電話総裁
深川繁治 台湾放送協会常務理事
副見喬雄 台湾放送協会理事長
保坂久松 朝鮮放送協会常務理事
吉田悳 満洲電信電話総裁
米沢与三七 日本放送協会常務理事

 次に本書に出てくる人物(ラジオ出演者に限らない)の公職追放である。

太田正孝 推薦議員
徳富猪一郎 言論報国会々長
下村宏 国務相情報局総裁興亜同盟顧問
鶴見祐輔 推薦議員他
東条英機 戦犯首相陸相興亜院副総裁軍需相内相外相商工相対満事務局総裁正規陸軍将校
友松円諦 翼壮区団長
山口喜三郎 東京芝浦電気社長

 本書によると「軍国主義を礼賛」するようになった友松でも、公職追放の該当事項は「翼壮」(翼賛壮年団)の区団長である。これについては、「日本最初のムー大陸紹介者三好武二と友松円諦の雑誌『真理』(全日本真理運動本部) - 神保町系オタオタ日記」参照。また、「玉音放送の仕掛け人」で「戦争を終わらせた男」とも言うべき下村も、その肩書きから公職追放は免れなかったことがわかる。
 これらの他、永井柳太郎、永田秀次朗、松岡洋右公職追放になるべき人物ではあるが、戦時中又は戦後間もなく亡くなっているので、公職追放にはなっていない。そもそもラジオ演説を理由として公職追放になった者はいない。著書、官職、団体役員などが該当事項である。
 ラジオに「戦争責任」があるのなら、「ラヂオ」を冠した『~ラヂオ新聞』にも戦争責任がありそうだ。しかし、公職追放の対象となる所謂「G項該当言論報道団体」に指定されたラジオ新聞はなかった。ラジオ新聞としては、次のようなものがあるようだ。

紙名      発行所      創刊年月
南洋ラヂオ新聞 南洋ラヂオ倶楽部 昭和7年6月?
日刊ラヂオ新聞 日刊ラヂオ新聞社 大正14年6月
北海ラヂオ新聞 北門日報社? 昭和3年10月
満洲ラヂオ新聞 満洲ラヂオ新聞社 大正14年10月
ラヂオタイムス 台湾放送協会 昭和8年1月

 この他、『昭和十年ラヂオ年鑑』(日本放送協会昭和10年5月)の「参考欄」に「ラヂオ関係新聞」が載っていて、そこにある広島新聞社の『帝国ラヂオ新聞』も気になるところである。なお、『満洲ラヂオ新聞』については、橋本雄一「声の勢力版図ーー鑑定州」大連放送局と『満洲ラヂオ新聞』の連携」『朱夏』11号、平成10年がある。また、『ラジオタイムス』は金沢文圃閣から『台湾ラジオ資料集』として復刻版が刊行されている。ラジオ新聞全体についての研究はまだ無さそうで、研究の進展が期待されるところである。

*1:奥付では昭和23年であるが、正しくは昭和24年である。「死してなお公職追放となった満川亀太郎 - 神保町系オタオタ日記」参照