神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

下鴨納涼古本まつりの最終日に福沢諭吉『京都学校の記』(書籍会社、明治5年?)を拾う


 今年も無事下鴨納涼古本まつりが開催された。今回は書物蔵氏と森洋介氏が後半に上洛された。私の方は、初日から参戦しているので既にお腹一杯であったが、最終日に最後の最後にのぞいた三密堂書店の特価本コーナーで驚くべき1冊を見つけた。500円。
 冒頭の写真に挙げた福沢諭吉『京都学校の記』*1(書籍会社*2、明治5年?)である。「三密堂書店で槙村正直『私用文』(書籍会社、明治7年)を発見ーー「夢見る京都集書院」の世界ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したことがある本で、まさか原本を入手できるとは思わなかった。古本まつりの最終日の午後でも、思わぬ掘り出し物を見つけられるものである。国会図書館にはなく、京都学・歴彩館のほか、幾つかの大学図書館が所蔵している*3。本家の慶應義塾図書館には無いようだが、『福沢諭吉全集第20巻』(岩波書店、昭和38年6月)に収録されている。同書の註によれば、福沢が明治5年春に中津市学校を視察するため郷里の中津に赴く途中、京阪神や有馬等に遊んだ時の作品である。数種の写本が残っているほか、木版本として本書が刊行されたという。

 本書には、発行年の記載はない。ただ、末尾に「明治五年申五月六日京都三条御幸町の旅宿松屋にて/福沢諭吉記」とあるので、明治5年頃刊行されたと思われる。また、冒頭に「書籍会社」の印が押されている。歴彩館の所蔵している分には同印のほか、「京都府文庫」印が押されているようだ。三密堂書店からは、本書の他にも槙村正直『私用文』(書籍会社、明治7年)を店内の特価本台から拾っているので、それも本書の表紙に記載のある「井上」の旧蔵書だったのかもしれない。

*1:内題に「京都学校の記」とあるほか、標題と版心に「京都学校記」とある。

*2:奥付に「京都書籍会社」とあるが、正式名称は単に「書籍会社」と思われる。

*3:上田正昭の序文付きで、平成6年9月京都市教育委員会から平安建都1200年・小学校創設125年記念として復刻版が出ている。

古書柘榴ノ國で井上女神が創立した神九図之会の10周年記念誌『神九図』(昭和55年)を発掘


 今年も下鴨納涼古本まつりが始まりました。シルヴァン書房が参加しているので、てっきり寸葉さんこと矢原さんが絵葉書を出品していると思いきや、不参加であった。ヲガクズさん(@wogakuzu)の情報によると、「下鴨は卒業」されたらしい。そう言えば、寸葉さんから下鴨の案内状が来てなかった。
 寸葉さんの師匠井上女神が主宰した神九図之会については、「京都で神九図之会を主宰した年賀状コレクター井上女神(井上未喜知)ーー寸葉会の矢原章さんの師匠ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したことがある。その後、創立10周年記念誌『神九図』(神九図之会、昭和55年8月)を奈良の古書柘榴ノ國で見つけたので、表紙と目次の写真を挙げておく。


 どんな物でも蒐集する人がいるようで、特に妻楊子袋とかピンクカードを集めてどうするのかと思うが、古本や絵葉書もまったく興味の無い人から見たら、同じように思われているかもしれない(^◇^;)
 本書の井上会長「はじめに」によると、

(略)京都では戦後コレクターの集る会が無かった。そんな折、私の蒐集品のうち箸袋を並べての個展を、新京極花月劇場三階で催したところ、駆け付けて呉れた趣友達が、一度集まって快談会(こころ良く語り合うの意)でもやろうじゃないかと衆議一決。
 そして十年前の八月九日第二日曜に集ったが、話は弾み女三人寄ればどころか、男七人で楽しく且つ賑やかな集いとなった。

 7人で始まった神九図之会というコレクターの交換会。昭和55年8月10日現在の会員名簿によると、113人に拡大している*1。関西だけでなく、東京、愛知県などにも及んでいる。また、「神九図之会十年のあゆみ」によれば、昭和53年会員が京都新聞の源流である幻の新聞を発見して京都新聞社から表彰されたようだ。このように京都で一世を風靡した神九図之会のことを今どれだけの人が記憶しているだろうか。
 冒頭の写真で挙げた井上の蔵書票と昭和58年新年総会記念交換会時の食券(?)は、@pieinthesky氏からいただきました。ありがとうございます。また、井上女神が井上未喜知として掲載されているトム・リバーフィールド『昭和前期蒐書家リスト』(令和元年11月)は第2刷が発行され、8月13日のコミケ100の「土曜日東地区”ペ“30a」で販売されるようだ。

*1:この段階では、矢原さんの名前はない。

玄洋社役員・社員の公職追放一覧ーー嵯峨隆『頭山満』(ちくま新書)への補足ーー


 一時期福岡市には出張で行くことが多く、帰りに福岡市美術館福岡県立美術館や古本屋の葦書房には必ず寄ったものである。しかし、玄洋社記念館に寄る機会がないまま同館は無くなったので、惜しいことをしたものである。
 さて、昨年10月ちくま新書から嵯峨隆『頭山満アジア主義者の実像』が刊行された。頭山が新書になるとは、良き時代ですね。本書や石瀧豊美『玄洋社:封印された実像』(海鳥社、平成22年10月)では、戦後超国家主義団体の一つとして玄洋社へ解散命令が出されたことには言及されている。しかし、玄洋社が昭和22年勅令第1号公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令の施行に関する命令(昭和22年閣令内務省令第1号)別表第1第3号により時期の如何を問わず創立者・役員・理事等が公職追放の対象となる極端な国家主義的団体に指定され、多くの役員が公職追放になったことには言及されていない。そこで、石瀧著の「玄洋社社員名簿」を基に『公職追放に関する覚書該当者名簿』の復刻版(以下「名簿」という)から公職追放になった玄洋社の主な役員・社員の公職追放該当事項(玄洋社役員以外の該当事項を含む)を列挙してみた。

氏名   該当事項       地方別
緒方竹虎 国務相情報局総裁翰長 東京
香椎源太郎 東洋拓殖顧問 福岡
白石芳一 玄洋社監事評議員 福岡
進藤一馬 玄洋社理事社長東方会幹事 福岡
末永節 玄洋社理事 福岡
副田直規 玄洋社評議員 (空欄)
高場損蔵 武徳会理事銃剣道部長 福岡
土屋直幹 玄洋社理事 福岡
頭山泉 玄洋社理事 福岡
頭山秀三 著書天行会々長 東京
箱田達磨*1 玄洋社理事評議員 福岡
原口初太郎 正規陸軍将校 東京
広田弘毅 戦犯 神奈川
増永元也*2 玄洋社理事評議員 福岡
宮川五郎三郎 玄洋社理事 福岡
安川第五郎 玄洋社理事 東京
山内惣作 玄洋社理事監事 福岡
山座三郎 玄洋社理事 福岡
山崎和三郎 玄洋社理事相談役 福岡
吉田こくら*3 玄洋社理事相談役 福岡

 頭山自身は、昭和19年10月に亡くなっているので公職追放にはなっていない。戦後も健在であれば、「玄洋社創立者」として公職追放になっただろう。なお、「「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」が完成 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したように出版・新聞・映画・放送・著書・陸海軍文官関係者の公職追放については、トム・リバーフィルド「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」『二級河川』17号(金腐川宴游会、平成29年4月)にまとめられていて、便利である。国家主義的団体役員の公職追放についても、このようなリストがあれば便利なので、研究者のどなたかにお願いしたいものである。

*1:名簿では「箱田達麿」

*2:名簿では「増永之也」

*3:「こくら」は「广」に「臾」。名簿では「吉田痩」

『児童百科大辞典』完結で賑わう玉川学園出版部と京都の書道家多和格


 玉川大学出版部のホームページで「会社情報 - 玉川大学出版部」を見ると、昭和4年玉川学園出版部として発足し、昭和7年日本で初めての子ども向け百科事典『児童百科大辞典』(全30巻)を刊行したことが書かれている。『児童百科大辞典』は、今年が創刊90周年に当たる。完結は、昭和12年である。
 手元に大辞典完結記念に出された可能性がある絵葉書がある。冒頭に挙げた写真で、昭和13年10月5日消印の玉川学園創設者小原國芳から京都市の多和格宛である。キャプションには、「出版部」とある。平成29年8月下鴨神社納涼古本まつりでシルヴァン書房から400円で入手。その時は小原の署名とは分からなかった。翌年の5月「小原國芳」なら玉川大学[ママ]出版部ということになるとツイートしたら、玉川大学出版部の方から、前年の大辞典完結記念に発行したものではないかと御教示いただいた。Twitterの威力ですね。

 その御教示により、もう一つの謎も解明できた。絵葉書に写っている黒板の中に「百大倉庫」と書かれていて、「百大」は渋谷の百軒店のような地名かと思っていたのだが、「百科大辞典」の略称だったのだ。長い間の疑問が解けた。
 一方、宛先の多和については、さっぱり情報が得られなかった。ところが、このブログで何度か引用したことがある『田代善太郎日記昭和篇』(創元社、昭和48年10月)に多和格という名前が出てくるではないか。

(昭和11年5月)
10. 日. (略)
 晃二、写真業を始むるにつき知人を招きて披露す。白石(荘治)島田(定治)多和兄弟(格、勝人)福井(尚一)氏等14名。村田(国男)北牧、森下(邦堂)氏等加勢してくれたり。
11. 月. 午後、晃二、多和氏の処に撮影にゆく。(略)
(同年10月)
27. 火. (略)
 夜、多和(格)氏来り習字。(略)
(昭和16年1月)
3. 金. (略)
 多和(格)氏(習字の先生をして居る人)来訪。
(略)

注:( )内は、「習字の先生をして居る人」を除き、編者田代晃二(善太郎の次男)による注

 田代は、昭和15年まで京都帝国大学理学部植物学教室の嘱託であった。同時期の京都市にいた2人の多和格。同定する決め手はないのだが、小原と交流があって書道の先生なら、どこかの師範学校卒の教員かと推測できるものの、「次世代デジタルライブラリー」では1件もヒットしない。引き続き探索が必要である。

明治44年小川一眞が撮影した少女小宅﨑子ーー岡塚章子『帝国の写真師小川一眞』(国書刊行会)刊行ーー


 岡塚章子『帝国の写真師小川一眞』(国書刊行会、令和4年4月)が刊行された。日本写真史も一時期関心があったので、小川の名前は知っている。しかし、詳しいことは知らないので読んでいるところである。小川がどういう人物かは、本書の「はじめにーー写真メディアの体現者・小川一眞」から引いておこう。

 小川一眞は、明治中期から大正期にかけて、写真撮影から印刷、出版、乾板製造など、写真を軸とした一連の事業を展開し、写真師で唯一、帝室技芸員を拝命した人物である。小川一眞という名前は一般には知られていないが、一九八四ー二〇〇七年に発行されていた千円札に使われていた夏目漱石の肖像は、小川一眞が撮影した写真をもとに制作されたものである(図1)。よって、間接的ではあるが、かつては誰もが小川の写真を目にしていた。

 帝室技芸員就任は明治43年10月、漱石の撮影は大正元年9月である。この間に撮影された少女の写真を持っている。冒頭に挙げた写真である。寸葉会*1で、ひげ美術から購入。千円。「K.Ogawa」と印刷されていて、小川一眞と思われる。ただし、本書55頁に載る永井荷風一族の写真(明治18年)の裏面に印刷されたサインとは微妙に異なる。
 写真の裏面には、「明治四十四年十月十二日写ス/小宅﨑子十六才」とある*2。「小宅」は珍しい苗字で、「日本人物情報大系人物検索フォーム」(皓星社)では1人もヒットしない(追記:同検索フォームでは、そもそも姓だけのような部分一致の検索はできないようだ)。「人事興信録データベース」では「小宅正造」(おやけ・しょうぞう)という明治8年生まれの兵庫県に住む岩見銀行常務がヒットした。ただし、﨑子とは関係がなさそうである。
 本書400頁によると、日吉町の小川写真館は大正7年10月閉業。明治42年以降に撮影した写真ネガは保存してあるので、ネガ番号を連絡すれば特別料金で譲るとの広告を出したという。本写真の裏面に「D/2002/乙」とあるが、これがネガ番号だろう。

*1:シルヴァン書房の矢原さんが主催する絵葉書など紙ものの骨董市

*2:本写真だけでは左右どちらが﨑子か不明だが、もう1枚出品されていた写真と共通する左側の少女が﨑子かと思われる。

昭和8年竹中郁から川西英に贈られた詩とはーー小磯記念美術館で開館30年特別展「竹中郁と小磯良平」、神戸ゆかりの美術館で特別展「川西英」を開催予定ーー


 久しぶりに小磯記念美術館に行ってきました。お目当ては、特別展「秘蔵の小磯良平ーー武田薬品コレクションから」に出品されている薬用植物画である。薬用植物学を多少かじったこともあって、小磯の作品の中でも好きな画である。
 美術館で、次の特別展は開館30年記念の「竹中郁小磯良平ーー詩人と画家の回想録(メモワール)ーー」であること、神戸ゆかりの美術館で特別展「川西英~三つの百景」が開催予定であることを知った。前者は10月8日~12月18日、後者は10月15日~12月25日の会期である。
 それで、数年前に中之島公会堂の古本まつりでモズブックスから昭和8年8月3日付けの竹中郁から川西英宛の書簡を買ったことを思い出した。ん千円もしました。もう一通誰の書簡だったか川西宛書簡が出ていたが、そちらは買わなかった。川西の遺品がまとまって市会に出たのだろうか。
 無事に発掘された書簡の内容を紹介しよう。川西から「ハアゲンベツク」の話はいずれゆっくり聴きたいこと、竹中もコダックを持って馬車を写しに行ったと書かれている。これは、『生誕150年川西英回顧展』(神戸市立小磯記念美術館平成26年10月)54・55頁に出ている昭和8年夏ドイツから阪神浜甲子園に来たハーゲンベック・サーカスのことである。川西は、サーカスに通って翌年版画荘から『サーカス』(昭和9年1月)と『曲馬写生帖』(昭和9年5月)を刊行している。
 また、川西から野球絵葉書を貰ったこと、竹中が近く画廊へ行きたいことも書かれている。これは、図録の年譜にある昭和8年8月1日~5日に神戸で開催された野球美術展だろう。川西は、《甲子園野球大会入場式》《甲子園野球》などを出品している。
 竹中と川西は、いつ知り合ったのだろうか。川西(明治27年生)の方が10歳年上だが、2人とも神戸市兵庫区生まれ、神戸市立兵庫幼稚園、神戸市立入江小学校卒という共通点がある。足立巻一『評伝竹中郁:その青春と詩の出発』(理論社、昭和61年9月)111頁は、大正15年6月30日消印の川西宛の今井朝路・竹中連名の葉書に言及しているので、相当若い頃からの知り合いである。なお、足立は「川西英あての今井の書簡が大量に英の三男祐三郎(版画家)に伝えられている」としているので、本書簡も祐三郎の旧蔵かもしれない。
 一般的に竹中と川西の関係で話題になるのは、竹中が編集・発行した第2次『羅針』(海港詩人倶楽部、昭和9年2月~11年2月)に川西が表紙・カットを書いていることである。同誌第1号には小磯がカットを描いている。竹中と小磯は、第二神戸中学校以来の親友であった。
 書簡には、もう一つ気になることが書いてある。「詩を一つ書いてみてました。別紙ごらんにいれます」である。しかし、別紙は見当たらない。昭和8年8月竹中はどういう詩を書いたのだろうか。
追記:「別紙」は「別便」だったようで、熊本の古書店ぬりえ屋さんが詩の書かれた原稿用紙2枚入りの同日消印の封書を持っているとのこと。

『和紙談叢』第1冊(澄心堂、昭和12年)を編集した後に消えた謎の奥本正人ーー向日市文化資料館で企画展「『紙漉村旅日記』が語る和紙と時代」開催中ーー


 壽岳文章は平成4(1992)年没。今年が、没後30年に当たる。そのためか幾つか壽岳関係の出版・展覧会を目にする。『民藝』7月号(日本民藝協会)は、特集「寿岳文章民藝運動」である。本誌は、壽岳の孫弟子に当たる中島俊郎先生から御恵投いただきました。ありがとうございます。目次も挙げておきます。

 向日市文化資料館では、企画展「『紙漉村旅日記』が語る和紙と時代」を7月31日まで開催中。和紙関係は人気があるようで、関連イベントは満員御礼である。ただ、類似の展示が続いているので、壽岳に関して新たな切り口も求められるところである。
 さて、壽岳と和紙研究に関連して、私が気になっている人物として、生没年を含めた経歴がさっぱり不明な奥本正人がいる。奥本については、既に田村正「『和紙研究』」『向日庵』2号(特定非営利活動法人向日庵、平成31年2月)で調査されている。田村氏のまとめたところによると、奥本及びその周辺の足跡は次のとおりである。

昭和11年夏 禿氏祐祥を訪ね、其の後、寿岳文章新村出、中村直勝など訪問
昭和11年10月24日(土) 京都帝大楽友会館に於いて、「紙に関する座談会」を開催
昭和11年12月3日(木) 若林と二人で第一回の美濃紙の調査
    12月5日(土) 若林大阪の古書即売会に於いて『美濃紙抄製図説』購入
    12月23日(水) 再び若林と二人で美濃紙の調査
昭和12年2月10日(水) 『和紙談叢』発刊。「美濃国抄紙の沿革と現況」発表
    5月25日(火) 『縮写 美濃紙抄製図説 全』を『和紙談叢別冊』として編集発行
其の後奥本行方不明、昭和13年7月半ば『和紙談叢』から身を引く。生年月日不明。

 「若林」は、「みやこめっせの古本まつり中止にガックリ。しかし、三密堂書店で禿氏祐祥・若林正治旧蔵書を - 神保町系オタオタ日記」などで言及した若林正治である。奥本は『和紙談叢』発行の発案者で若林と共に同誌第1冊(澄心堂、昭和12年2月)発行の事務方を務めた。ところが、第2冊の発行前に行方不明になり、ようやく判明した下宿先を訪ねると、不都合を陳謝し、第2冊の原稿と読者名簿等を差し出して一切の処理を託したという。結局、『和紙談叢』第2冊は発行されず、あらためて昭和14年1月『和紙研究』の創刊に至った*1
 また、『和紙談叢』第1冊の奥付として、田村氏は次のように挙げている。       

京都市伏見区桃山町羽栄[ママ]長吉九番地 
印刷人 奥本正人 京都市伏見区瀬戸物町
印刷所 創文社印刷工場
京都市伏見区桃山町羽栄[ママ]長吉九 奥本内
発行人 和紙研究会
京都市伏見区京町南八丁目 若林内
発行所 澄心堂

 これはやや不正確で一見すると奥本の住所が伏見区の瀬戸物町と桃山町の両方にあると誤解しかねない。正確には、次のとおりである。

  京都市伏見区桃山町羽柴長吉九番地
編集兼印刷人 奥本正人

  京都市伏見区瀬戸物町
印刷所 創文社印刷工場

  京都市伏見区桃山町羽柴長吉九 奥本内
発行人 和紙研究会

  京都市伏見区京町南八丁目 若林内
発行所 澄心堂 

 瀬戸物町の創文社印刷工場が気になるので調べてみた。宗形金風『何故支那と戦ふか』(創文社昭和12年12月)という本があって、創文社の所在地は伏見区瀬戸物町728、印刷者笠間信義の住所も同一である*2。この笠間は、奥本が編集した『縮写美濃紙抄製図説:全』(澄心堂、昭和12年5月)の印刷者でもある。『和紙研究』第1号(和紙研究会、昭和14年1月)の「編集雑記」には「印刷の業務にも多少の関連を持つてゐる奥本正人君」ともあり、奥本は創文社で働いていたのかもしれない。
 いずれにしても、奥本の詳細な経歴は不明である。『和紙談叢』や『和紙研究』には、壽岳や禿氏が参加していた。壽岳の日記・書簡については、中島先生や高木博志先生らにより調査が進められているし、先日の大阪古典会の「古典籍展観入札会」には禿氏宛書簡群が出品されたところである。今後の研究の進展により、謎の奥本の正体が判明するかもしれないので期待しておこう。

*1:『和紙研究』第1号(和紙研究会、昭和14年1月)の禾木生「編集雑記」

*2:発行者は、著者の宗形で住所は京都市伏見区舞台町45である。