神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

本野精吾が設計した暁烏敏による幻の図書館「大日本文教院」ーー小林昌樹「宗教と図書館の近代史」への補足ーー


 『近代出版研究』創刊号(皓星社発売)が大成功した近代出版研究所長小林昌樹君の「宗教と図書館の近代史」が、昨年2月から3月まで『佛教タイムス』に連載された。内容は、「小林 昌樹 (Masaki KOBAYASHI) - マイポータル - researchmap」の「MISC」で見ることができる。第7回は、「草の根的な寺院立図書館」である。そこでは、大正10年岡山に設立された「笠岡図書館」(浄土宗智光寺住職椋梨了我)と「中津図書館」(天台宗願興寺住職渡辺憲朝)が紹介され、「同様の例は他県でも多くあったはずだが、歴史の闇に埋もれている」としている。
 ここに、臨川書店の古書バーゲンセールで入手した松田章一『暁烏敏 世と共に世を超えん』(北國新聞社、平成10年3月)がある。石川県松任町の明達寺住職だった暁烏が戦前に蔵書「香草文庫」を利用して計画した図書館に関する記載が下巻にある。

 収集した書籍が四万冊ほどになり、その書庫兼研究室を欲しいとかねがね思っていた。建設費は、鉄筋三階の円筒図書館一棟、寄宿舎と講堂二棟などに七万円。設計は京都高等工芸学校の本野精吾教授が引受けた。これら費用もすべて篤志に待つことにした。

 4万冊という規模に加えて、本野の設計による3階建の図書館という構想には驚く。『建築家本野精吾展:モダンデザインの先駆者』(京都工芸繊維大学美術工芸資料館、平成22年1月)には記載がない。本野の研究者には知られているだろうか。下巻271頁に図書館の図が載っているので挙げておこう。設計図がどこかに残っていないものか。

 結局この図書館は実現しなかった。暁烏の蔵書は戦後金沢大学に寄贈されて、「暁烏文庫」として保管されている。「暁烏文庫の沿革 | 金沢大学附属図書館」参照。
参考:「鹿野治助日記から見た戦時下における本野精吾の絵画教室 - 神保町系オタオタ日記」、「伊達俊光の大阪文化女塾の創立と終焉ーー本野精吾や田代善太郎が講義ーー - 神保町系オタオタ日記

『児童読物之研究』(葺合教育会児童愛護研究会、大正12年)の活用ーー今田絵里香『「少年」「少女」の誕生』(ミネルヴァ書房)への補足ーー


 今田絵里香『「少年」「少女」の誕生』(ミネルヴァ書房、令元年10月)は、序章によると、「本書は、少年少女雑誌の誕生と変遷、および、少年少女雑誌における「少年」「少女」に関する知の誕生と変遷を明らか」にし、「その背景を考え」たものである。このうち少年少女雑誌の変遷としては、115頁に次のようにある。

(略)一九一〇年代、都市新中間層が量的拡大を遂げると、少年少女雑誌を購入する層が増加するということになる。さらには、少年少女雑誌の発行部数が、量的拡大を遂げるということになる。事実、『日本少年』『少女の友』の発行部数は、増加の一途を辿ったのである。ところが、『少年世界』『少女世界』は、『日本少年』『少女の友』に発行部数の上では敗北したのである。そうであるとすると、量的拡大を遂げた都市新中間層は、『少年世界』『少女世界』ではなく、『日本少年』『少女の友』を購入したと考えることできる。

 確かに大きな流れとしては、『少年世界』(博文館)→『日本少年』(実業之日本社)、『少女世界』(博文館)→『少女の友』(実業之日本社)である。しかし、地域や時期によっては、『少年世界』や『少女世界』が逆襲していたと思われる。手元に『児童読物之研究』(葺合教育会児童愛護研究会、大正12年3月)という冊子がある。神戸市葺合区の小学生(尋常科3年以上7520人、高等科1385人)が大正11年4月~6月に読んだ本を調査したものである。読んだ本のうち雑誌の順位については、「さんちかホールで『児童読物之研究』(葺合教育会児童愛護研究会、大正12年3月) - 神保町系オタオタ日記」で紹介済みである。その時は、男女の合計数の順位であったが、今回男女別に尋常科については10位まで、高等科については5位まで一覧にしておこう。

尋常科(男子)
1 少年世界(833人)
2 日本少年(601人)
3 少年倶楽部(509人)
4 譚海(493人)
5 飛行少年(235人)
6 世界少年(227人)
7 少年(171人)
8 小学男生(170人)
9 海国少年(149人)
10 幼年世界(146人)

高等科(男子)
1 少年倶楽部(193人)
2 日本少年(117人)
3 潭海(97人)
4 少年世界(90人)
5 海国少年(62人)

尋常科(女子)
1 少女世界(1054人)
2 譚海(632人)
3 少女の友(582人)
4 小学女生(249人)
5 少女(218人)
6 赤い鳥(208人)
7 少年世界(178人)
8 少女号(139人)
9 幼年世界(132人)
10 小学少女(131人)

高等科(女子)
1 少女世界(143人)
2 譚海(112人)
3 少女の友(68人)
4 少女画報(46人)
5 赤い鳥(19人)
5 少女号(19人)

 高等科の男子を除き、大差で『少年世界』が『日本少年』を、『少女世界』が『少女の友』を上回っていたことが分かる。この傾向は、神戸市だけではなく、東京市でもある程度うかがえる。永嶺重敏『雑誌と読者の近代』(日本エディタースクール出版部、平成9年7月)206頁にあがる大正14年東京市内の尋常科4~6年生の小学生に対する調査で、男子は2位『日本少年』(1497人)、3位『少年世界』(717人)であるが、女子は1位『少女世界』(2281人)、2位『少女の友』(1840人)である。女子については、『少女世界』の方が『少女の友』を上回っている。
 今田氏も永嶺氏も『児童読物之研究』を利用していないので、研究者にも知られていない文献のようだ。国会図書館サーチでは日本大学文理学部図書館しかヒットしない。さんちか古書大即売会で見つけた本だが、かなり貴重な冊子であった。

秦テルヲが裏表紙画を描いた中川四明の句誌『懸葵』大正4年7月号ーー玉城文庫の均一台からーー


 昨年の知恩寺秋の古本祭りで玉城文庫の3冊500円台には、一番目に張りついた。そこでは、中川四明が主宰した句誌『懸葵(かけあおい)』(懸葵発行所、明治37年2月創刊)が数冊出ていた。句誌には関心がないので、散々迷って何回目かのチェックで購入。京都で発行されてるし、三井甲之*1が度々執筆していて面白そうではあるが、裏表紙が秦テルヲ画の大正4年7月号、故四明翁追悼の大正6年7月号など3冊だけ購入。
 平成29年6月から7月にかけて岡崎の星野画廊で開催された生誕130年記念展「秦テルヲの生涯」の図録*2によると、テルヲは大正4年4月に吉原研究を思い立って大阪から上京している。裏表紙の「夏の水道場」を描いたのは、「夏の」とあることから東京に移ってからなのだろう。この小品は、展覧会にも出品されないので観たことがある人は少なそうである。目次と裏表紙の写真を挙げておく。

 テルヲと四明の接点は、京都市立美術工芸学校だろうか。テルヲは明治37年同校図案科卒、四明*3は明治33年10月から同校教員嘱託であった。また、テルヲは明治44年京都日出新聞の「こどもらん」で樫野南陽とともに挿絵を担当、四明は同新聞編輯課員であった。
 テルヲの年譜を見てると、他にも色々気になる記述がある。
・明治45年2月~7月 巌谷小波鹿子木孟郎上田敏山元春挙、松本亦太郎、深田康算の発起により「テルヲ子供画会」結成 
・大正5年6月 高島平三郎、上田敏、松本亦太郎、深田康算を発起人として秦テルヲ画会設立
大正12年4月 京都府立図書館にて作品展開催
昭和4年 夏頃、京都市内に戻り、北白川上終町に住む。その後北白川仕伏町に移るか。 
 また、図録の別紙「正誤表と追記」によると、テルヲの母は同志社デントンハウスの舎監をしていたという。妻初の実家は、一時祇園乙部の取締をした西川繁三郎の義弟ともある。
 四明の年譜も面白い。
明治11年3月 舎密局で技師ワグネル*4のドイツ語通訳をする。

*1:櫻澤如一と福田把栗 - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:以下、テルヲに関する記述は図録の星野由美子「秦テルヲーー生きる意味を追い求めた芸術」、「秦テルヲ略年譜」などによる。

*3:以下、四明に関する記述は、根本文子『正岡子規研究:中川四明を軸として』(笠間書院、令和3年3月)の「中川四明年譜考証ーー子規との交流を中心にーー」による。

*4:東京医学校でお雇い外国人ワグネルに学んだ佐野誉の『回想録』(昭和12年)ーー京都まちなか古本市の掘り出し物ーー - 神保町系オタオタ日記」参照

平安蚤の市で得した!損した?ーー近事画報社から発行された絵葉書集『西洋近世名画集』(明治38年)ーー


 平安蚤の市でナンブ寛永氏の200円均一箱から、『西洋近世名画集』(近事画報社、明治38年10月)を購入。黒田清輝小山正太郎、浅井忠が選んだ絵葉書を使って西洋名画を紹介した本である。同月から毎月発行され、39年5月までの8冊が確認されている。絵葉書が外れて挟まっていたり、新聞の切り抜きが代わりに差し込んであったりしたが、一応12枚の絵葉書が揃っていたので、購入。ところが、調べて見ると、本来の絵葉書とは別の絵葉書が混じっていた。

・ヂュプレー《駆牛》、ルロール《牧羊》、シャフラン《酔美人》は欠
・バーンヂヨーンス《王と乞食娘》、フイルズ《緑蔭の化粧》、クラウド(題名不明)、コロー《森の精》、ヂツクシー(題名不明)は、博文館発売の絵葉書
・グリユーズ《愁》は『西洋近世名画集』(明治38年12月)掲載分

 この他、プルードホン《昇天》、ゲラルド《春ヲ誘フ》、ブグロー《女神》も欠けている。ただし、これは国会図書館所蔵本の冒頭に「御断り」の紙片があって、この3葉は発行間近にその筋よりの注意のため省き、定価を下げた旨が記載されていた。この辺りの経緯については、黒岩比佐子『編集者国木田独歩の時代』(角川書店、平成19年12月)に記載されていた。さすが黒岩さんである。

 興味深いことに、この『名画集』創刊号には初版と再版があり、内容が一部異なっていることがわかった。初版の冒頭には、其筋からの注意によって、十二点中三点を省かざるをえなくなったという注記があり、絵画が入るべき三カ所が空白のままになっている。女神の裸体が描かれた絵画だったようだが、警察から削除を命じられたらしい。結局、初版は三点を取り除いた九点のみで発行され、その分、定価も割り引いている。一方、再版では三点を別の絵画に差し替え、予定通り十二点を掲載して定価で販売したようだ。

 私が入手した版は初版と思われる国会図書館所蔵本と印刷日・発行日が同じである。しかし、奥付の頁の広告に違いがあって、前者は『新版絵はがき広告』と奥付の2欄であるが、後者はこの2欄に加えて最上欄が『近事画報』の広告である3欄になっている。入手したのは、再版だろうか。しかし、目次は初版と同じである。

 本書で面白いのは、タイトルの「名画集」からは必ずしも想像できないが、絵葉書集であることだ。切り込みに絵葉書を差し込んである体裁なので、はずして絵葉書として通信に利用することもできた。黒岩さんは「別紙に印刷した十二点の名画の写真版(モノクロ)が各ページの台紙に貼られ、巻末には作者それぞれの略歴を掲載している」としているが、これは正確ではない。ただ、国会図書館所蔵の明治38年11月以降発行分には切り込みが見えず、貼ってあるようだ。更にややこしいことを言うと、「日本の古本屋」にアルカディア書房が5,500円で出品している同月分の画像を見ると、貼ってはなくて、切り込みに差し込んである。出版社から納本された本を内務省帝国図書館に交付して後身の国会図書館が所蔵するいわゆる「内交本」は、このように必ずしも流布本とは体裁が同じでない場合があるので、要注意である。いずれにしても、本来の絵葉書が揃っていないという点では損した気もするし、12枚の絵葉書集が200円とは得したような不思議な気分である。
 なお、本書は斎藤昌三編『現代筆禍文献大年表』(粋古堂書店、昭和7年11月)には記載がない。明治38年において発禁になった絵葉書としては、『私製絵葉書』洋装の男子半裸体の婦人に対し相語らんとするの情態を描きたるもの(玉澤賢吉)、『裸体婦人絵葉書』12枚1組(不詳)、『裸体婦人絵葉書』4種4枚(京都市便利堂)などが挙がっている。

東京医学校でお雇い外国人ワグネルに学んだ佐野誉の『回想録』(昭和12年)ーー京都まちなか古本市の掘り出し物ーー


 昨年10月に開催された京都古書会館のまちなか古本市は初日が四天王寺秋の大古本まつりと重なった。両方回る元気はないので、初日は四天王寺、2日目は京都古書会館にした。京都古書会館では、2日目のためか1冊だけ購入。500円均一だったかで、佐野實『佐野誉回想録』(佐野實、昭和12年4月)を。鉛筆による線引きが多く、大阪古書組合入札用紙に「線消し要」とあるものの、結局線を消さないまま均一に回したようだ。
 著者兼発行人の佐野實は神戸市の佐野病院の2代目院長で、本書は初代院長誉の回想談を記録したものである。実業家や医師の伝記は、文学者や出版人のそれと比べると面白くはないが、本書には「ドクトル・ワグナー教師(理学)送別会」の写真が載っていたので、「ワグネルだ!」と購入。ワグネルは、お雇い外国人で、京都府立図書館の横の公園に記念碑が建ってますね。

 意外と貴重な本のようで、国会図書館サーチでは国会図書館日本医師会医学図書館のみヒットする。内容も面白かった。ただ、昭和10年における誉80歳の誕生日に聞き取った回想なので、記憶違いも多そうだ。たとえば、明治8年に入学した東京医学校(現在の東京大学医学部)時代の記述。

 ワグナー教師
 私の記憶に最も鮮明な印象を残してゐるのはワグナー先生である。先生は地理の受持であつた。勿論ドイツ人であるが、夙くから東洋の事物殊に支那の陶器に深い興味を有ち、その研究のため支那渡航せんとした途中、暴風雨に逢ふて漂流し、終に我が福岡に漂着し、土地の或る富豪の家に寄食してゐる間、その家の息子にドイツ語を教へてゐた人であるが、大学東校が設立される時、政府が之を呼出して教師に任命したといふ数奇の半生を有つた人であつた。
 私は先生から、この地球は円いものであるとか、西へ/\と行けば又元の位置に帰るものであるとかいふやうな事を聞いて、実に非常な感動を受けたものである。(略)

 某先生の蔵書*1からいただいた『近代窯業の父ゴットフリート・ワグネルと万国博覧会』(愛知県陶磁資料館、平成16年3月)の年譜によれば、ワグネルは明治5年大学南校から大学東校(のち東京医学校)に転じ物理学と化学を教えた。また、来日の経緯は、アメリカ人トーマス・ウォルシュ、ジョン・ウォルシュの求めに応じ、石鹸製造所設立のため、明治元年5月に長崎に来たものである。その後、3年に佐賀藩の委嘱で有田で技術指導を行い、同年10月から大学南校予科教師になっている。随分誉の回想と異なっている。なお、前記写真のキャプションに「送別会」「明治九年」とあるのは、年譜によれば、明治9年4月フィラデルフィア万国博覧会事務嘱託として渡航したものである。
 その他事実確認はしていないが、興味深い記述としては、次のようなものがある。
・祖先の地は静岡県富士郡猫澤村で、誉の父が自らの将来について相談した相手は、遠縁に当たる隣村の清野一角(正しくは一學)で、清野謙二(正しくは謙次)の曾祖父(正しくは祖父)に当たる。
・予備門(東京医学校予科)に入るにはドイツ語が必要だったので司馬凌海の塾に入り、後藤新平と親しくなった。勉強が終わると、毎日後藤と角力をとって遊んだ。
・予備門時代には森鴎外と同級で、殊に仲がよかった。2人とも体操嫌いで体操の時間になると2人で戸棚の中に隠れ、いつの間にかグウグウ寝てしまい、夕食の拍子木がなる音で目を覚まし、ゴソゴソ這い出して食堂へ行った。
明治14年の結婚後、東京外国語学校校長の今村有隣宅に世話になったが、今村新吉の父である。

 ネットで読める「佐野病院125周年記念号」によると、佐野病院は4代目院長により続いており、誉の略歴も掲載されている。本回想録の目次を挙げておく。装幀の鈴木清一は戦後公職追放となった洋画家で、10年前に回顧展が開催された。→「戦争責任を負い美術画壇から去った 洋画家・鈴木清一の回顧展 | 神戸っ子

*1:令和2年6月におさそいいただいて、蔵書を数冊いただいた。近所の吉永さんも来られていた。吉永さんは、Zoomの会議があるとのことで、一旦顔を出した後家に戻り会議後に再び来たらしいが、私は帰った後であった_

『神ながらの道』をパクって筧克彦に怒られた⁉『神ながらの道研究』の近藤定ーー西田彰一『躍動する「国体」筧克彦の思想と活動』(ミネルヴァ書房)への補足ーー


 西田彰一『躍動する「国体」筧克彦の思想と活動』(ミネルヴァ書房、令和2年2月)が昨年第15回日本思想史学会奨励賞を受賞した。おめでとうございます。記念に同書の補足(というほどのものではないが)をしてみよう。9頁に次のようにある。

 学問の世界において評価されることはほとんどなかったものの、一九二三年に秩父宮に御進講をし、翌年一九二四年に大正天皇妃である貞明皇后にも御進講をしてその信頼を獲得し、一九二五年と一九二六年には、その内容を一冊の本にまとめた『神ながらの道』を、皇后宮職内務省神社局からそれぞれ刊行している。

 『神ながらの道』は好評だったようで、パクリ本が出ていた。神ながらの道研究会『神ながらの道研究』(須原屋書店、昭和4年9月)である。国会図書館デジコレで読めるので見ていただきたいが、278頁の内180頁ほどが参照抄録として『神ながらの道』からの引用である。
 これを見て怒ったと思われる筧の様子が、専修大学編『阪谷芳郎関係書簡集』(芙蓉書房出版、平成25年11月)所収の昭和4年9月19日付け阪谷宛筧書簡に出ていた。

(略)御深切なる御紹介給はり有り難く存じ奉り候、近藤定と申す人は私も未だ会ひたる事無き人にて、此の頃「神ながらの道研究」を著はし、皇太后職蔵版神ながらの道の大部分を其のまゝ取り用ひ居候ものにて、右は御蔵版元の御許しを得たるものにも非ず、降つて私の承諾仕候ものにもこれ無く、目下其の善後策を講じ居候所に御座候、つきては先生の御題字は何卒御許し下されざる様願奉候、
(略)なほ御懇なる御注意給はり候段は呉ぐれも御厚礼申上奉候(略)

 阪谷は、大蔵大臣、東京市長を経て、当時は貴族院議員、専修大学総長であった。近藤は、『神ながらの道研究』の奥付によれば、神ながらの道研究会代表である。文面から判断すると、近藤が筧がらみの本の題字を阪谷に頼み、不審に思った阪谷が筧に問い合わせたということだろうか。近藤の著作は『神ながらの道研究』の他には確認できないので、阪谷に題字を頼んだ本は出なかったのだろう。
 近藤の経歴は不詳で、怪しい人物である。「怪しい」というのは、オカルティックな意味で怪しいのである。近藤は同書で「霊的国防」とか「霊性修養」という言葉を使っていて、非常に気になる人物である。

追記:肝心な事を忘れていた。この記事は、御恵投いただいた小田光雄近代出版史探索Ⅵ』(論創社、令和4年4月)に「1020 筧克彦『神ながらの道』」が載っていたことが切っ掛けでした。小田先生、いつもお気遣いありがとうございます。

『教界時言』を発行した清沢満之ら白川党の身近にいたか『乙未日録』の筆者ーー大谷大学博物館で「清沢満之と真宗大学」展開催中ーー


 大谷大学博物館で「大谷大学のあゆみ 清沢満之真宗大学」を観てきた。5月14日まで。展示品の中に「真宗大学東京移転記念集合写真」(明治34年)があり、一部の人には氏名が記されていた。清沢のほか、南条文雄、関根仁応、曽我量深、金子大栄、朝永三十郎らと共に赤松大励の名があって驚いた。というのも、「明治28年稲葉昌丸や今川覚神の周辺にいた真宗大谷派某氏の日記 - 神保町系オタオタ日記」で言及した日記『乙未日録』に赤松の名前が出ていたからである。赤松の経歴は『明治過去帳』(東京美術、昭和46年11月新訂)により、兵庫県出身、「西楽寺住職陸軍歩兵中尉」で、明治38年3月に日露戦争で戦死したことが分かるだけであった。意外と大物であったのかもしれない。
 さて、明治29年10月京都府愛宕郡白川村の清沢満之が住む離れに置かれた教界時言社から、『教界時言』が創刊された。発行人は井上豊忠、編輯人は月見覚了であった。この時の様子は、森岡清美『真宗大谷派の革新運動ーー白川党・井上豊忠のライフヒストリーーー』(吉川弘文館平成28年10月)182頁に詳しい。

 発刊日の三〇日、井上は五条郵便局で切手を一二〇〇枚買い、清川*1の寓居に届けた。清川と月見が、永井*2・東谷*3・興地観円・杉田賢恵・岩崎護・木村ら本科第二部生の手伝いを得て忙しく働いていたし、研究科の草間*4出雲路*5、本科の南浮*6・東谷らも白川有志と連絡をとりながら働いたようである。

 岩崎や興地も、『乙未日録』に出てくる名前である。これによって、岩崎護と興地観円と推定できた。日記の筆者も岩崎や興地らと共に清沢、井上、月見、今川覚神、稲葉昌丸、清川らの白川党の身近にいた人物かもしれない。筆者の特定は難しそうだが、大谷大学の福島栄寿先生あたりなら解明できるだろうか。
 なお、日録には「岩崎」を線で消して「幽香」と書き直してある箇所がある。岩崎幽香江見水蔭『自己中心明治文壇史』(博文館、昭和2年10月)320頁で、『太平洋』8号(博文館、明治33年2月19日)の「文士内閣大見立」*7中の衆議院議員の一人として名前が挙がる人物である。同一人物だとすると、非常に面白い。

*1:清川円誠

*2:永井濤江

*3:東谷智源

*4:草間仁応。後の関根仁応

*5:出雲路善祐

*6:南浮智成

*7:柳田國男と浅野和三郎 - 神保町系オタオタ日記」参照