神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

澤田四郎作旧蔵の柳田國男『一目小僧その他』(小山書店、昭和9年)ーー大津市比叡平に移転した書砦・梁山泊で発見ーー

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 京都市寺町から大津市比叡平に移転した書砦・梁山泊に行ってきた。新たに外の壁に500円均一台ができていた。そこに1冊欲しいものがあったのだが、買うのを忘れて帰ってしまった。次に行く時まで残ってるだろうか。店内では、民俗学の棚に柳田國男『一目小僧その他』(小山書店、昭和9年6月)があった。買うつもりはなかったが、パラパラ見てたらビックリ。扉に「澤田四郎作蔵書之印」が押されていた。慌てて購入。1,000円。
 本書の「目一つ五郎考」中に澤田の『民族』1巻1116頁掲載の報告が引用されている。また、澤田と柳田とは以前から面識がある上に、柳田の年譜*1によると本書発行の翌月には、澤田から柳田に『五倍子雑筆』1号が送られている。そうなると、本書が柳田から澤田に献呈された本であってもおかしくはない。しかし、入手した本には特に書き込みはなかった。なお、澤田の昭和9年1月から8月までの『日誌』は、磯部敦氏・三浦実加氏により『なら学研究報告』3号で翻刻されているが、本書に関する記述はなかった。
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*1:柳田國男全集別巻1』(筑摩書房平成31年3月)

昭和11年芦屋仏教会館創立10周年記念講演会で撮影された写真ーー梅原真隆顕真学苑主幹・花田凌雲龍谷大学長・谷本富元京大教授・伊藤長兵衛丸紅商店社長らーー


 先日の平安蚤の市で「pieinthesky」氏から、写真を購入。昭和11年6月7日に開催された芦屋仏教会館創立10周年記念講演会の日に丸紅商店社長で会館の創立者である伊藤長兵衛宅で撮影されたものである。台紙には、芦屋駅前の村田写真館のラベルが貼られている。キャプションによると、前列左から谷本博士*1、伊藤、花田凌雲龍谷大学長、後列左から3人目が梅原真隆顕真学苑主幹、伊藤の真後ろが一柳知成東本願寺前参務、花田の真後ろが緇川先生*2である。
 知恩寺の古本まつりで入手した梅原発行の『道』を調べたら、133号(昭和11年6月)に梅原の講演要旨が「聖扉は開かれてあり」と題して、掲載されていた。仏教会館の本尊は聖徳太子とし、会館正面の額と左右の聯に提示されている十七条憲法の文章から国体へと話を展開したことが分かる。
 芦屋仏教会館については、「下鴨神社納涼古本まつりで見つけた『崇信会と芦屋仏教会館のえにし』(昭和5年) - 神保町系オタオタ日記」参照。写真の背景の伊藤邸は芦屋にあったが、誰の設計だろうか。

*1:谷本富元京都帝国大学文科大学教授だろう。昭和2年6月芦屋仏教会館開館記念大講演会でも講演をしている。

*2:緇川涀城(くろかわ・けんじょう)か。

花園大学図書館で発見された東本願寺南方美術調査隊によるアンコールワット写真の撮影者野村直太郎の経歴ーー萩原朔太郎や恩地孝四郎を撮影していた写真師野村直太郎とはーー

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 7月に『中外日報』に花園大学図書館で「東本願寺南方美術調査隊」によるアンコールワット撮影の写真が発見されたとの記事が出た。その撮影をしたのが、野村直太郎である。野村については、一昨年5月に岡崎の風工房で野村が所蔵していたアンコールワットの拓本コレクションが展示され、私も見に行ったところである。京都新聞同月23日朝刊には太田敦子記者による記事が掲載された。野村の生没年などの詳しい経歴は不詳である。チェコスロバキア生まれで、北原白秋らと詩作をしたり、インドではタゴール邸に滞在していたこと、戦後は同志社大学の講師を務めたこと、奈良に国際美術学校を創設したことなどしか判明していないという。
 そこで自称人間グーグルのオタどんが調べてみると、幾つかの新知見を発見したので紹介しておこう。先ずは『秋田雨雀日記』3巻(未来社、昭和41年2月)の記述である。

(昭和十二年)
六月二十一日
(略)きょう午後五時、吉祥寺修養社へゆく。トルストイヤンの写真師野村直太郎君が自動車をよんでぼくを自分の家へ案内してくれた。町有志の寄附による立派な撮影室で写真をとってくれた。妻君、植田という青年なぞにあった。七時ごろから修養社の有志の人たちに演劇について談話(略)
八月三十一日
(略)印度へゆく野村直太郎君が色紙をもってきたので四枚だけ徒ら書きをした。
(略)
十二月二十日
(略)午後六時から新宿明治製菓で橋浦君の五十年記念会があった。
(略)橋浦君は(略)現在は柳田国男系統の土俗学者としてもまじめに働いている。(略)
(橋浦泰雄君五十年記念祭、出席者、山崎今朝弥、細田民樹、佐々木孝丸、野尻医師、和田軌一郎、望月源三、野村直節、野村愛生)

 写真師でインドへ渡航するというので、「野村直太郎君」は東本願寺南方美術調査隊の野村と同定してよいだろう。昭和12年12月20日の条の「野村直節」も、野村直太郎の誤植の可能がある。というのも、鶴見太郎柳田国男とその弟子たち:民俗学を学ぶマルクス主義者』(人文書院、平成10年12月)で鶴見氏がまとめた「橋浦泰雄画伯五十年記念会」の出席者名簿の中に野村直太郎の名があるからである。なお、『秋田雨雀日記』4巻(昭和41年9月)の昭和24年8月30日の条には、「野村直太郎君(インドへ行った写真師)が娘さんと来られた」とある。
 野村の写真師としての仕事を「国会図書館サーチ」と「ざっさくプラス」を使ってまとめると、次のとおりである。

大正11年1月 『写真芸術』2巻1号に「(挿絵)霧の霽間」
昭和10年6月 『書窓』1巻3号に「文人映像(秋田雨雀細田民樹、新居格武者小路実篤)」
同年9月 『書窓』1巻6号に「文人映像2(詩歌人貌)(河井酔茗、野口米次郎、萩原朔太郎三木露風川路柳虹斎藤茂吉前田夕暮与謝野晶子)」
同年10月 『書窓』2巻1号に「画人映像」(織田一磨石井柏亭、津田青楓、杉浦非水)
同年12月 恩地孝四郎『季節標』(アオイ書房)に恩地の写真(同年5月撮影)←冒頭の写真
昭和12年10月 『書窓』5巻1号に「文人映像(三)(春山行夫北園克衛山中散生、村野四郎)」
昭和14年3月 『新女苑』3巻3号に「グラビアーー印度を見る」
同年8月 『カメラ』20巻8号に「印度の昼寝百態」
同年9月 『新女苑』3巻9号に「印度を語る」

 これによって大正11年には写真雑誌で活動していたことや、秋田とは昭和10年には知り合っていたことや『書窓』の企画・編集を担当した恩地と特に親しかったであろうことが分かる。上記のほかに、「日本の古本屋」への出品情報で、『随筆四季』第2輯(ウスヰ書房、昭和16年8月)に野村の口絵が載っていることも分かった。野村は臼井喜之介とも関係があったことになる。
 ある分野では謎の人物とされている人が別の分野では経歴が明らかな人物だったということはしばしばある。謎の野村直太郎も恩地や朔太郎の研究者には、よく知られた人物かもしれない。『萩原朔太郎全集』13巻付録『研究ノート』掲載の島本久恵「まぼろしの横顔」は、上記『書窓』に掲載された野村による朔太郎の写真に触れ、「当時としては異質の写真家、芸術的気魄の獰猛とさえ受け取られた、それで一般には敬遠され不人気だったあの野村直太郎さん」と書いている。異質の写真家野村直太郎については、引き続き調査したい。

読書好きの西川一草亭の日記から見る明治30年代の京都における読書環境

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 西川一草亭の日記「花うり日記」の翻刻は、『花道去風流七世西川一草亭:風流一生涯』(淡交社、平成5年3月)に収録されている。明治36年から39年までの日記で、1冊目の日記に「読書日記」との記載があるように、読書に関する記載が多い。翻刻者籠谷真智子氏の「概説」によれば、当時の西川家はかなりの借財をかかえ、一草亭は生花の師匠として活躍する傍ら、家業の花売りに勤しんでいた。裕福ではなく、様々な手段で読書用の本を入手していて参考になる。日記から、様々な読書環境を分類してみた。
・図書館の本を読む

(明治三十八年八月)
二日(水曜日) 晴
(略)
夜久シ振ニテ図書館ヲノゾク、眼指ス梁川文集モ病間録モナシ、子規随筆、樗牛全集ヲ二三枚操[ママ]返シタルノミ(略)
(明治三十九年三月)
七日(水曜日)
(略)帰リニ図書館ノ掲示版ニ「花伝書」トアルヲ見、早速ニ飛込ンデ同書ヲカル、案外謡曲花伝書ニテ失望シタルモ、序ニ村上博士ノ仏教統一論ヲ読ミテ大イニ得ル所アリ、(略)
(同年六月)
二十日(水曜日) 半晴半陰
(略)図書館ヘ出掛タ、最初ハ村上博士ノ仏教統一論ヲカリタガ、睡気ガサシテタマラナク成タノデ、ソコ/\ニ返シテ国華ト樗牛全集トヲカリタ、樗牛全集ニハ何ダカ引付ケラレル様ナ処ガアツテ、四時過ギ迄読ミツヽケテ、市行キノ時間ヲヲクラシテ仕舞タ、
  仏教統一論第一編
  国華 百九十三号
  樗牛全集 第五巻
(略)

 「図書館」は、京都府立図書館と思われる。『花伝書』は現在京都府立京都学・歴彩館が所蔵する大和田建樹『花伝書』(江島伊兵衛、明治35年)だろうか。発行から4年も経つ本だが、新しく所蔵した本として掲示板に記載したのかもしれない。村上博士の「仏教統一論」は、村上専精『仏教統一論』(金港堂書籍)と思われる。現在も京都府立図書館が第3編(明治38年1月)を所蔵している。同図書館は、当時京都御苑内にあって、閲覧は有料だった。「明治34年1月京都府立図書館へ通う山本宣治 - 神保町系オタオタ日記」参照。 
・古本屋や露天で買う

(明治三十八年五月)
十一日(木曜日) 晴
(略)帰リニ三条ノ聖書房ヲ猟リテ安物ノ舶来画ノ葉書一枚ヲ買フ値[ママ]格五銭ナリ、(略)
(同年七月)
二十一日(金曜日) 晴
(略)聖書房ニテ雑誌新人ヲ買フ、十二銭ナリ、
(略)
(同年十一月)
十八日(土曜日) 晴
(略)
夜六角堂ノ露天ヲ見ニ行ク、古キ古雑誌ヲ売リ居タルヲヤジヲ見ズ、先月モ見受ケザリシニ今月モ来ラズ、死ニタルカ病気ニカヽリタルカ、兎ニ角此老命ヲ見カケザル為メ露天頬ニ寂寥ヲ感ズ、
(略)

 「聖書房」は、正しくは「聖華房」か。今ではすっかり忘れられているが、『京都書肆変遷史』によると、遅くとも嘉永6年創業である。「昭和三年全国古本屋・見立番付 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した「昭和三年全国古本屋・見立番付」では、丸善などと共に年寄に選ばれている。←追記:三条寺町に聖書房があったようだ。
・友人から借りる  

(明治三十六年十一月)
十一日
○培屋氏ヲ訪問シテ都ノ花ヲ返ス、(略)
(明治三十七年十一月)
二十五日
(略)帰路培屋子ヲ訪フテ精神界ヲ借リ(略)
(明治三十八年五月)
十日(水曜日) 雨
(略)換読会ヨリ七人回ル、
(略)
十二日(金曜日) 晴
(略)藤井氏ヘ換読会ノ雑誌こゝろの花[ママ]ト他ニ二冊ヲ返ス、
(略)藤井氏ヨリ、精神界二冊、ホトヽギス、宝船、懸葵、新小説来ル、
(略)
(同年七月)
二十一日(金曜日) 晴
(略)
今日換読会ノ雑誌、明星、新声、白百合、ハガキ文学、歌舞伎ナド回ル、
(略)
(同年十一月)
二十六日(日曜日) 晴
(略)浅野君ヘ清光ト月刊スケツチヲ回シ、銭二十銭借リテ(略)
二十七日(月曜日) 晴
(略)藤井氏ヨリ交[ママ]読会ノ雑誌来ル、明星、学燈、白百合、葉書文学等ナリ、(略)
二十八日(火曜日) 晴
(略)
北村鈴菜氏来リテ、氏ノ手ヲ経テ居タルホトヽキス数冊ヲ、単行本「吾輩ハ猫デアル」ト交換スル事ヲ承諾セラル、数ヶ月振リニテ初テ藤井氏ノ借用雑誌ヲ返済スル事ヲ得(略)

 一草亭は、上記以外にもしばしば友人の藤井培屋から雑誌を借りている。「換読会」というのは、藤井だけではなく、グループによる本の廻し読みだろうか。
・古書交換会に参加する

(明治三十八年五月)
二十日(土曜日) 快晴、午後雨
(略)
藤井培屋氏来ラル、古書交換会ノ行キシナリ、(略)

 一草亭が古書交換会に参加したかは不明である。この古書交換会は誰でも参加できる現在のような古書即売会ではなく、業者と得意客だけが参加できる入札会か、古本好きの者だけの集まりだったと思われる*1

*1:東京における即売会の歴史については、「東京初(?)の古書即売展 - 神保町系オタオタ日記」参照

明治40年城崎郡役所前にあった豊岡印刷所ーー『兵庫県の印刷史』を読むーー

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 寸葉さん(シルヴァン書房の矢原さん)から500円で買った絵葉書がある。兵庫県城崎郡豊岡町の郡役所前にあった豊岡印刷所から国府村の古田医院宛に送った明治40年の年賀状である。だいぶ前に買ったもので、なぜ買ったのかも覚えていない。書砦・梁山泊京都店で買った『兵庫県の印刷史』(兵庫県印刷紙工品工業協同組合・兵庫県印刷工業組合、昭和36年6月)を見たが、神戸市中心の記述で、城崎郡の印刷所についての記述はほとんど無かった。
 同書63頁には、明治30年に発足した城崎郡日高町の福富印刷所について言及がある。また、大正期については、74頁に

 但馬地方は、明治のころ印刷の起った出石、村岡、浜坂、江原、生野のほか、豊岡、朝来郡和田山、竹田、城崎郡城崎、香住、養父郡八鹿、美方郡湯村などにあいついで印刷を業とする者を輩出したが、その消長を明らかにする資料に乏しい。

とあるだけである。なお、巻末に組合の加入者名簿があって、豊岡市の豊岡印刷株式会社(代表者・橋本芳春)が出ていた。ホームページ「豊岡印刷株式会社 | toyoin 豊印商事 豊岡印刷」を見ると、国会図書館所蔵の『豊岡案内』(但馬新聞社編輯部、大正元年10月)にリンクされていて、豊岡町にあった橋本印刷所が前身で、絵葉書の豊岡印刷所とは無関係であった。
 『兵庫県の印刷史』126頁にマッチラベル収集に関する面白い記述があったので、引用しておこう。

 燐票の収集は、明治三十五年に全国的な流行をみた。燐枝錦集会という組織は、三十六年に東京で、福山碧水、早川中康などが主唱してつくられたもので、各地に支部ができた。そのメンバーには、新聞関係では報知の水谷、日本の近藤、都の富田、毎夕の村田など、また芸能人としては柳川一蝶斎、桂文楽、柳川貞一、市川庄喜之助、新橋清川家のすみれなど、さらに民俗研究家の柳田国男や酒井伯爵なども加わっており、あらゆる階層の人が趣味を通じて結ばれたものであった。
 一方関西には、大阪の五四会、神戸の互楽会などが有名で、互楽会は、神港倶楽部や金比羅倶楽部で展示交換会を開いていたという。

昭和16年の「大津市内古本屋分布図」ーー金元書店の古書目録『湖』5号からーー

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 大津市古書店というと古書クロックワークなどだが、今年書砦・梁山泊京都店が大津市比叡平に移転したところである。「日本の古本屋」で検索すると、9軒ヒットする。戦前の昭和16年には、少なくとも12軒(1軒は店名不明)はあったようなので、それより少なくなっている。紫陽書院から買ったと思われる古書目録群の中に、大津市膳所にあった金元書店の目録『湖』5号(昭和16年6月)があって、その裏表紙に「大津市内古本屋分布図」が載っていたのである。冒頭に挙げておいた。上が南、下が北である。
 辻井甲三郎の『全国主要都市古本店分布図集成 昭和十四年版』(雑誌愛好会、昭和14年5月)に大津市内の地図は含まれていないので、貴重である。地図に○で表示された12軒のうち、『地域古書店年表:昭和戦前戦後期の古本屋ダイレクトリー』(金沢文圃閣平成27年5月)に記載があるのは、川瀬書店、中井書店、金元書店、平瀬書店だけである。忘れられた地方の古書店はまだまだありそうだ。
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明治40年における京都第五高等小学校の伊勢修学旅行ーー山本志乃『団体旅行の文化史』(創元社)を読んでーー

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 山本志乃『団体旅行の文化史:旅の大衆化とその系譜』(創元社、令和3年9月)は、「はじめに」によると、次の三つの切り口からアプローチを試みたものである。
・「I お参りの旅」は、伊勢参宮や富士登拝など、古来連綿と続けられてきた神仏にいざなわれる旅の系譜
・「Ⅱ 学びの旅」は、人間の成長段階に応じて課されてきた通過儀礼としての旅から、国民的行事とよべるほど定着した修学旅行へと至る系譜
・「Ⅲ 親睦の旅」は、地方を基盤に展開した、身近な仲間との旅を、とくに仲介者である旅行業の視点から追う
 「Ⅱ 学びの旅」には、内国勧業博覧会を見学する修学旅行や伊勢への修学旅行が出てくる。そう言えば、「明治40年8月夷谷座で活動写真「祇園祭」を観る少年の日記 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した少年の日記に、明治40年5月京都の第五高等小学校の生徒が伊勢へ修学旅行に行く様子が記載されていた。冒頭に写真であげたものである。3時半起きで、4時10分に学校を出発して七条駅へ、伏見から木幡へ行く途中でようやく日の出である。津で見学や食事をした「共進会」は、グーグルブックスによると、『三重県教育史』第1巻(三重県教育委員会、昭和55年)に明治40年三重県で全国教育品共進会開催とあるので、それだろうか。泊まった「市はん学校」(師範学校だろう)は、よほどぎゅうぎゅう詰めだったようで絵に描かれている。
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 修学旅行といえば旅館に泊まるものと思ってしまうが、そうでもなかったようだ。翌日は伊勢神宮に参宮したと思われる。しかし、記載はなく、6月29日へ飛び、「今日学校退校セリ」とある。家庭の事情で、退学したのだろう。
 少年は、明治28年生まれで成徳尋常小学校、立誠尋常小学校を経て、第五高等小学校に入学し、3年目で退学している。その後の「奉公記」には、明治43年6月に初奉公し、その夜ハレー彗星が現れたと書いている。よほど印象的だったのだろう。
 「学校友人乃名」として、31人の名前が書かれていた。このうち田辺主計は、琵琶湖疎水の工事を担当し、明治40年当時は京都帝国大学理工科大学教授だった田辺朔郎の次男である。主計は後に田辺太一の養子となり、同志社大学へ進学することとなる。第五高等小学校を中退した日記の少年と友情は続いただろうか。
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