神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

明治24年京都婦人協会における島地黙雷の演説ーー村上護『島地黙雷伝』(ミネルヴァ書房)への補足ーー

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 村上護『島地黙雷伝:剣を帯した異端の聖(ミネルヴァ書房平成23年4月)の年表明治24年9月の条に「近畿各地を巡る」とある。しかし、『東洋新報附録』200号(東洋新報社、明治24年8月11日)の「宗教彙報」欄に次のようにある。

島地黙雷師の演説 東京聯合京都婦人教[ママ]会*1は其事務所を下京区不明門通中珠数屋町上る所に置き五条通西洞院西へ入る長覚寺を以て其会場に充て毎月七日午後第一時より相集まりて弁士又は教師を聘し婦人の智育教育徳育に関する演説を聞くを以て此上もなき楽みとせしが今回も同じく去る七日垂誡師島地黙雷を聘して一場の演説会を開けり当日会する者婦人方会員六十有余名にして其他傍聴者無慮三百有余名(略)

 これによると8月から巡講は始まっていたと思われる。また、
・222号(明治24年9月5日)に「本月一日京都出発播州須磨に赴かれしが(略)本月中旬頃迄滞在の都合なりと因みに記す京都西六条に其名ある松田甚左衛門を随行せし由」
・242号(同月30日)に「過日来讃州地方を巡回の処二十七日京都へ帰錫されたるよし」
・246号(同年10月4日)に「本月一日京都を出発せられて大津へ到り同地の婦人慈善会にて法話を開筵され夫より越前地方へ赴かれ」
とあり、10月も続いていたことがわかる。
 京都における演説の内容は、204号(明治24年8月15日)から226号(同年9月10日)まで断続的に連載されている。最後の分の一部を挙げておこう。なお、村上著によると、翌明治25年2月鹿鳴館における大日本婦人教育会での講演で「家事、経済、衛生、育児学等の如きは、御婦人方第一必要なことなれば、是等のことを能く学ばなければなりませぬ。(略)時の流行に流れませぬ様、実用の事を主に御勉めなされんことを偏にお願い致します」と語ったとあるが、家蔵分の京都での講演では同内容の発言はなかった。
参考:「『東洋新報附録』(菅了法社主)の「宗教彙報」欄でオルコット再来日に注目ーー佐藤哲朗『大アジア思想活劇』(サンガ)への補足ーー - 神保町系オタオタ日記
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*1:京都婦人協会は、『京都府百年の年表』6宗教編(京都府、昭和45年3月)によると、明治23年2月に僧侶と信徒が婦人に仏教主義を教化する目的で設立された。

荻須高徳の挿絵が入った木村捨録『壮年的』(あかね書房)のサイン本


 今年も天神さんの古本まつり(10月15日~19日)が近づいてきました。ということで、何年か前に100円均一台に歌集がまとまって出た時に買った木村捨録『壮年的:歌集』(あかね書房、昭和27年7月)を紹介。石原深予先生から御恵投いただいた『論潮』14号(論潮の会、令和3年8月)の石原「尾崎翠全集未収録作品および同時代評等の紹介」に木村が出てきたので、積ん読本から掘り出したものである。同資料紹介は、木村が大正5年6月に創刊した『少年詩歌』(少年詩歌社)に尾崎が「尾崎みどり」名で投稿した短歌を紹介している関係で、木村が出てくる。その一部を引用しておこう。

 なお、第二号「編輯室より」には、「毎月種々とご尽力に預かり私を御励まし下さる」諸氏に「尾崎」の名前も挙がっている。創刊号と第二号どちらにも「尾崎みどり」の他に「尾崎」名の著者が目次に見当たらないことから、これは尾崎翠を指すと思われる。あるいは地方在住の投書家同士で、『少年詩歌』創刊以前の木村と尾崎との間に交流があった可能性もある。

 実は、歌集そのものにはほとんど興味はない。買ったのは「小歴」に挙がる木村の経歴が面白いのと、挿絵に荻須高徳の<<ノルマンデイー海岸>>が載っているためだったと思う。小歴から経歴の一部を要約すると、

明治30年11月2日 福井市
? 順化尋常小学校の頃から『少年世界』や地方新聞に文章や歌を投稿し始める。
? 福井市立商業学校に入り、同級の馬場汐人等と同人雑誌をやり、『文章世界』『秀才文壇』へ詩歌を投書する。
大正5年 丸の内の籾山書店編輯部に就職し、『俳諧雑誌』を担当
? 1年余り勤めて文学的才能の乏しいことが分かり、まもなく同書店が解散することもあり、実業界を志し中央大学商科に入学
大正7[ママ]年 『覇王樹』社友となり橋田東聲を知り、更に依田秋圃、花田比露思とも交わる。
大正9年 中央大学を卒業
? 長瀬商店染料部在勤中に假屋安吉が入社してきて、同人雑誌『雑音の中』を出す。
大正12年の震災の頃 京山商会を興し独立自営

 地方の投書家で同人雑誌を出していた青年が上京して出版社に勤めるというパターンですね。木村は創業した関東大震災の頃は歌から離れたが、事業が安定した昭和6年頃から『覇王樹』に盛んに投稿、昭和7年10月には『日本短歌』を創刊することになる。
 入手した『壮年的』をパラパラすると、135~138頁が破り取られていることが発覚。均一本なので、函・カバー欠、書き込み、破れ、落丁等はあって当たり前である。奥付の有無には気を付けて見ることにしているが、途中の頁の欠は気づかないですね。その代わりにというわけではないだろうが、サインがあった。
 荻須の挿絵については、「自序」によると、

 挿絵とした荻須画伯(滞仏中)のスケッチは戦前に頂いたもので、相当以前の制作品であるが、僕はこの絵が好きで今でも書斎に掲げてゐるやうな理由から、御留守宅へ願つて掲げた。(略)

 「滞仏中」とあるのは、荻須が昭和23年に日本人画家としては戦後初めてフランス入国を許され渡仏していたためである。木村と荻須は戦前から知り合いだったようだが、どういう関係かは不明。現在美術館「えき」KYOTOで「生誕120年記念荻須高徳ーー私のパリ、パリの私ーー」が開催中(10月17日まで)である。見に行こうかなあ。
 最後に昭和14年から20年までの間に詠んだ短歌から1首引用しておこう。

「覇王樹」の二十年記念*1思ほへばわれに空白のながき過去(すぎさり)

*1:『覇王樹』は大正8年5月創刊なので、昭和14年か。

昭和4年来日した大英博物館のローレンス・ビニヨンの英国水彩画展ーー高橋箒庵『萬象録』巻9(思文閣出版)と展覧会目録から見るーー

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 昭和4年に来日した大英博物館東洋版画・線画支部長ローレンス・ビニヨンについては、「昭和4年名古屋の富田重慶邸を訪問していた大英博物館のローレンス・ビニヨン - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。5月にめでたく完結した高橋箒庵『萬象録』巻9(思文閣出版、令和3年)を読んでいたら、そのビニヨンが出てきた。

(昭和四年十月)
十一日
[英人ビニョン氏]
 午后一時、上野黒田記念館に於ける英人ビニョン氏携帯水彩画五十四点展覧会及ひ黒田清輝氏遺作を見物す。水彩画はターナア始め名作多く、何れも小品ながら其筆致の宋元画風に似たる者あるに驚きたり。
 午后五時、慶応義塾評議員会ニ出席。同七時半、三井八郎右衛門男のビニョン氏招待会ニ出席、団琢磨男の紹介にてビニョン氏と握手、当夜の光景はビニョン歓迎と題する茶道記ニ詳記すべし。

 このビニヨンが英国から運んできた水彩画の展覧会目録は、昨年知恩寺の古本まつりで玉城文庫から入手している。3冊500円のうちの1冊である。展覧会の主催は、「ビニョン氏招聘委員会」で、団琢磨大倉喜七郎、正木直彦、滝精一、姉崎正治、久米桂一郎、市川三喜、斎藤勇、矢代幸雄、団伊能などであった。上野の黒田記念館美術研究所で昭和4年10月12日から24日まで開催された。ターナーの作品は5点で、写真のとおりである。
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 そのほか、ウィリアム・ブレイクの作品が2点ある。何でも買っておくと、後から読んだ日記に関連する記述があった時に役に立ちますね。入手した目録は一枚物で画家と作品名しか書かれていないが、岩波書店から図版付きの目録が発行されている。それによると、ビニヨンが東京帝国大学での講演「英国詩歌と美術に於ける風景」の参考資料として持参した絵画を展示したものだという。
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大正10年画家今関啓司が観た山本鼎の第2回農民美術品即売会とロシア未来派展

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 『画家今関啓司の日記:1918~1946』(求龍堂、平成3年10月)は1度読んでいるが、所要で再度読んだら色々発見があった。まずは、星製薬で開催された戦争ポスター展である。

(大正十年)
六月二十二日
(略)星製薬七階に戦争ポスター見に行く。後藤市長講演真[ママ]中、きく気にもなれず、ポスターには感激する。結晶したる人間同盟の愛、如何にドイツが戦争中の緊張さを保ってゐたかを、一寸恐ろしい気がした。過激主義の写真はすごいもの。
(略)

 星製薬で開催された展覧会については、「大正期における展覧会場としての星製薬ーー分離派建築会第3回作品展も星製薬だったーー - 神保町系オタオタ日記」などで紹介してきたところである。今回新たな事例を発見できた。
 次は、山本鼎の農民美術品即売会である。第1回は大正9年5月日本橋三越で開催された。第2回が今関の日記に出てくる。

(大正十年)
○六月ヨリ二十二日迄日誌
 このころ本郷駒込千駄木町二、二葉屋二階に在
六月一日 雨、気色すぐれず床上にある。
(略)三越内農民美術の招待にのぞむ(註10)。山本氏、杉村、山崎、村山氏に会う。混雑さに耐へられず、しばしして去る。白石君にも会う。

註10 山本鼎が主宰する信州の農民美術運動の成果を展示したもの。山本(鼎)氏と美術院以来の仲間の他、〈村山氏〉とは、遺友・村山槐多の弟、村山桂次。村山桂次は木彫家を目指し、農民美術運動の講習会では木彫の手ほどきをしていた。

 今関は、翌11年山本、足立源一郎、長谷川昇小杉未醒、倉田白羊、森田恒友梅原龍三郎らが結成する春陽会に客員として参加することになる。
 同じ日に出てくる次のロシア人の未来派展覧会には驚いた。

(略)玉木にあるロシア人の展覧会のぞく。未来派芸術始祖と名うてる肖像葉書貰う。幼稚なる作品にてつまらなし。旅人の彼等想ふて気の毒になる。(註11)
 場内にて石井政二君に会う。(略)

註11 「未来派美術協会第一回展」(九月十六日~二十五日 銀座・玉木屋額縁店)と、「日本に於ける最初のロシア画展」(ブルリュック、パリモフ約五百点展示 十月十四日~三十日 京橋・星製薬株式会社)の二つの展覧会が後日混同して記されたのではないか。

 註で挙げている2つの展覧会は、大正10年ではなく、大正9年の開催である。また、確かに日記の冒頭にあるように6月22日までの分を後日まとめて記載したようではある。しかし、同月20日の条に「日光旅誌書終る」とあり、6月4日の日光旅行分の日記を書いていて、それほど日を置かずに日記を書いていたことがうかがえる。前年に開催された2つの展覧会を混同して記載したとは考えにくい。大正10年6月*1玉木屋額縁店で、ブルリュークらの未来派美術展が開催されたのであろう。これは、五十殿利治ほか『大正期新興美術資料集成』(国書刊行会、平成18年12月)に記載されていない展覧会である。他に史料が残っていないだろうか。

*1:追記:大正10年5月31日と6月1日の日記を混在して書いていて、展覧会に行ったのは5月31日の可能性が高い。

夏目漱石夫人鏡子が通った峰岸米造邸における静坐会のその後

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 「平安神宮の古本まつりで東寺済世病院長小林参三郎夫人の小林信子宛絵葉書を掘り出すーー『静坐』(静坐社)の総目次を期待ーー - 神保町系オタオタ日記」などで言及した『静坐』(静坐社)の裏表紙には、日本各地(台湾・朝鮮を含む)・満洲で開催された静坐会が掲載されている。写真は、17巻2号、昭和18年8月からである。これで驚いたのは、峰岸米造の名前が載っていることである。峰岸の静坐会については、『定本漱石全集』20巻(岩波書店)注解への若干の補足ーー漱石夫人夏目鏡子と岡田式静坐法ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがある。夏目漱石の夫人である夏目鏡子が通っていた静坐会である。峰岸は、明治3年生まれ、27年高等師範学校卒業後、前橋中学校教諭、高等師範学校教諭を経て、34年同教授となり、昭和12年に退職している。
 峰岸と岡田虎二郎の静坐との出会いは、「名士の見たる静座[ママ](一)」『日本経済新誌』18巻7号(日本経済新誌社、大正5年1月)に記載されている。それによると、最初に岡田式静坐を実行したのは、喘息持ちの妻であった。妻は、知り合いの美術家の妻も同病で岡田の静坐会で完治したと聞き参加した結果、完治して熱心な信仰家となった。次いで、明治45年6月峰岸も実行し始め、今では70人も参坐者がいるという。この70人の中に鏡子夫人がいたことになる。峰岸は大正9年の岡田の死後も、戦時中まで静坐会を開催していたのだ。
 漱石明治26年10月から28年3月まで高等師範学校の英語嘱託だったので、峰岸は漱石から英語を教わっていた可能性がある。また、妻の知り合いの女性の夫である美術家が橋口五葉か津田青楓だったら面白いが、それはないか。鏡子が峰岸の静坐会に参加するようになった経緯を知りたいものである。
 ところで、『石川三四郎著作集』7巻(青土社、昭和54年7月)を見ていたら、昭和25年11月24日付け島田宗三宛葉書に次のような記載があった。

(略)一昨日新宿中村屋に岡田虎二郎氏記念会が催され二十人ばかり集まりました。木下の正造君*1も見え、御噂さいたしました。(略)

 『相馬愛蔵・黒光のあゆみ』(中村屋、昭和43年9月)35頁には、「虎二郎が大正9年に急逝したので夫妻は静坐会から遠のいていった」とあるが、関係者との交流は続いていたようだ。この時期に『静坐』が発行されていれば、「二十人ばかり」の参加者が分かったかもしれない。しかし、発行はされていない。相馬黒光の日記が存在するはずなので、公開してほしいものである。峰岸は、昭和22年没。生きていれば、おそらくこの記念会に参加していただろう。

*1:木下尚江の息子

『東洋新報附録』(菅了法社主)の「宗教彙報」欄でオルコット再来日に注目ーー佐藤哲朗『大アジア思想活劇』(サンガ)への補足ーー


 緊急事態宣言下ではあるが、大阪古書会館のたにまち月いち古書即売会へ。ホールには新たに検温器が設置されていた。あまり買えなかったが、唯書房に見慣れぬ新聞があった。東洋新報社の『東洋新報附録』192号、明治24年8月1日~252号、明治24年10月11日のうち24号で2,000円。仏教関係の記事が載っているも、どうせ国会図書館等にあるだろうと思って検索したら、どこの図書館にも無いので慌てて購入。
 「社告」(東洋新報社主菅了法)によると、両本山(大谷派・本派)の録事と宗教記事を附録として隔日に掲載していた。社主の菅は坊さんらしい名前だが、実際僧侶でもあった。『日本近代文学大事典』第2巻から要約すると、

菅了法(すが・りょうほう) 評論家、僧侶 号桐南
安政4年2月 島根県
? 慶應義塾に学び、交詢社員でもあり『交詢雑誌』編集人も務めた。
? 京都で本願寺の学校に学ぶ。選ばれてオックスフォード大学に留学した。
? 帰国後、本願寺で教育に従事
明治21年6月 後藤象二郎創刊の『政論』記者となる。筆禍により入獄
明治22年 憲法発布により特赦
明治23年7月 第1回衆議院議員総選挙島根県から出馬し、当選
同年12月 『東洋新報』(日刊)創刊。国家主義を唱えたが成功しなかった。
? 鹿児島県川内町に本願寺別院を建立し、明治末まで布教に尽力
? 築地本願寺出張所長
? 本願寺内局執行
昭和11年7月 逝去

 衆議院議員だったということで、きしもとげん『宗教と国会議員』(サークル「ガラス動物園」、平成30年8月)にも掲載。日本最初のグリム童話集の翻訳『西洋古事神仙叢話』を出版したという。より詳しい経歴は、Wikipediaを参照されたい。『東洋新報』は、明治23年12月創刊だった。入手した号は、まだ創刊してから1年も経っていない時期である。成功しなかったというので、その後長くは続かなかったようだ。「宗教彙報」欄が面白く、従来の近代仏教に関する著書や論文と食い違う記載があった。コロナ禍がなければ、吉永さんとの古本バトルで披露したいところだ。今回は、神智学協会会長のオルコット大佐再来日に関する記載をブログで紹介しよう。
 明治22年のオルコット来日及び24年の再来日については、佐藤哲朗『大アジア思想活劇:仏教が結んだ、もうひとつの近代史』(サンガ、平成20年9月)に詳しい。同書によると、オルコットは明治24年10月28日にアメリカから横浜に到着。セイロンの仏教関係者はオルコットの訪日について日本仏教界に連絡するのを忘れていて、突然の来日だったという。しかし、『東洋新報附録』の「宗教彙報」欄には次のような記事がある。

232号、明治24年9月17日
●オルゴ[ママ。以下同じ]ツト氏再び来る 先に我邦に来遊せし米国の霊智教会オルゴツト大佐は爾来印度地方を漫遊し本年七月上旬に至つて仏国巴里に至りしが同九月十七日米国紐育へ向け出発する予定にて米国へ帰たる上桑港を経て再び日本に遊び各地に於て僧侶の為に霊智教会の趣旨を演説する筈なるが其節は曩に入寂せし霊智教会長ブラヴアツサキ夫人の遺訓を語る都合なりと云ふ
246号、明治24年10月4日
●オルゴツト氏発桯の日定まる (略)本月八日桑港出帆の郵船に乗じ横浜へ着港の趣きなるが然る上は東西両京孰れの地にか我邦の高僧を招集して世界各国に於ける仏教の有様を報道して何か計画せらるゝ為なりと

 これによると東洋新報社はオルコットの再来日及び時期を掴んでいたことが分かる。突然の来訪ではなく、少なくとも本紙を読んだであろう東西両本願寺の仏教関係者も知っていたことになる。

高橋箒庵『萬象録』(思文閣出版)の完結を祝してーー巻9の解題(政治・社会・思想)に中野目徹先生ーー

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 今年5月に高橋箒庵(高橋義雄)の『萬象録』巻9(思文閣出版)が刊行され、完結した。関係者の皆様、お疲れ様でした。拙ブログ
高橋箒庵が見た閨秀画家野口小蘋と小蘋挿画『画法自在』(博文館) - 神保町系オタオタ日記」で「巻8刊行後20年以上経つが巻9が未だ刊行されていない」と書いたのが、昨年1月である。多少は拙ブログが後押しになったのかもしれない。もっとも、6月26日の京都新聞に今年は高橋がまとめた茶道具の大名物図鑑『大正名器鑑』の刊行100周年に当たると出ていた。それを記念して根津美術館で企画展「茶入と茶碗ーー『大正名器鑑』の世界ーー」(7月11日まで)が開催とある。『大正名器鑑』刊行100周年に合わせて、『萬象録』の刊行を再開したのかもしれない。また、昨年9月に斎藤康彦『高橋箒庵:近代数寄者の語り部』(宮帯出版社)が刊行された影響も大きいのだろう。
 残念なのは、当初予定されていた索引が作成されなかったことである。熊倉功夫「後記にかえてーー新出『還暦後記』の紹介」によると、「当初予定していた索引は、量がぼうだいになることと、小見出しが目次中にあることを考え、その総目録を巻末に付すことで、省略した」という。刊行の遅れにも幸いなことがあって、『萬象録』の続篇に当たる「還暦後記」(大正10年7月~昭和4年12月)が新たに発見され、収録されている。
 政治社会関係の校訂を担当し、解題を予定されていた大濱徹也先生が平成31年2月に亡くなられ、代わりに中野目徹筑波大学教授が政治社会方面の解題を書いておられる。中野目先生の解題は、「成功」した実業家の「現役時代も含めた明治・大正期の政界と財界の写し鏡でもある『萬象録』を読み解いていく場合の視点のいくつかを提示」したものである。井上馨山県有朋ら元老との交際、三井系・慶應義塾系財界人や旧水戸藩士との関係、政治家・財界人との会談で聞き取った回想談の価値、更には「成功」した実業家には見えなかったものにまで言及している。バランスの良く取れた解題である。
 私は、『萬象録』では特に美術・宗教・建築・文学関係者に関する記述に注目してきた。9巻はまだ読み始めたばかりだが、「河口慧海のパトロンとしての高橋箒庵と『印度歌劇シャクンタラー姫』(世界文庫刊行会) - 神保町系オタオタ日記」で言及した河口慧海が早速出てきた。

(大正十年)
一月七日 (略)
 午後一時半、駒込勝林寺に赴き、交詢社幹事高橋正信氏夫人告別式に参列す。棺側に河口慧海師が経机を控へて一人にて読経し居りしが、西蔵語の読誦と見え曽て聞き及びたる事なき語呂にてありき。告別式一時間読み続くるならん、此一事従来の告別式に見受けざる所なり。

 平成10年に黄檗萬福寺文華殿で開催された「河口慧海ネパール・チベット入国百周年記念 その初公開資料と黄檗山の名宝」展の図録の年表によれば、河口は翌月黄檗宗の僧籍を返上している。還俗するのは大正15年1月なので最後の読経ではないだろうが、貴重な記録だろう。やはり、『萬象録』は茶人に関心のある人だけではなく、幅広く多くの人々に読んでほしい貴重な日記である。
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