神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

著書を理由として公職追放になった稀有な女性鳥井敦子ーー『皇道精神の真髄』(惟神皇道同志会)の著者鳥井敦子とは?ーー

 戦後公職追放になった数少ない女性のうち「著書」を理由した者は、2名である*1。1人は石原莞爾の研究者なら御存知の『東亜聯盟と昭和の民』(東亜聯盟協会、昭和15年8月)の著者小泉菊枝(のち白土菊枝)である。もう1人が、鳥井敦子という謎の女性である。『公職追放に関する覚書該当者名簿』には該当事項として「著書」とだけ記載され、どの本が問題になったかは不明である*2。ただ、占領史研究会編著『GHQに没収された本:総目録』(サワズ&出版、平成17年9月)*3によって問題とされた著書を推測することができる*4。鳥井の場合は、『皇道精神の真髄』(惟神皇道同志会、昭和15年2月)が挙がっている。
 この本は、国会図書館だけが所蔵しているようだ。「日本の古本屋」では、井筒屋古書部天導書房が出品している。鳥井は、同書で次のように書いているので確かに女性で、しかも惟神皇道同志会を創立したことが確認できる。

私は一介の無能な女性に過ぎませぬが皇国の前途を考へます時、深き寒心を禁じ得ず、止むにやまれぬ気持から微力を省みず本会を設立し、日本人全部に皇民として神国日本と不二一体の力強い自覚心を涵養致し、内部国難の克服に全身全霊を捧げんとして居るもので御座います。

 惟神皇道同志会の詳細は不明である。『昭和十六年十月現在 全国国家主義団体一覧』には出てこない。『皇道精神の真髄』にも、

本会は先ず個々の家庭、学校、陸海軍軍人、在郷軍人、男女両青年会、工場、会社、役所等より始めて皇国臣民たるの確固たる信念の涵養に努め、以て全国臣民の覚醒を促し度いと存じます。

とあるものの、詳細は分からない。
 鳥井自身の正体も不明である。「はしがき」には、平凡社社長下中彌三郎篤志により公刊できたと謝辞が述べられている。しかし、どういう関係かは分からない。奥付で鳥井の住所は、東京市牛込区白金町14である。同書には、「神宮並に神社参拝の心得」や天照皇大御神の神勅、歴代天皇勅語・御製を記載しているので、神社の関係者の可能性がある。国会図書館オンラインから目次の一部を下に挙げておく。惟神皇道同志会は治安警察法で女性には禁止された政治結社ではないだろうが、皇道主義団体を女性が結成したのは珍しいだろう。なお、グーグルブックスで検索すると、八幡書店から復刻された神乃日本社(中里義美)の『神日本』がヒットする。竹内文献の周辺にいた人物かもしれない。
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参考:「公職追放に関する研究の進展を期待してーー公職追放になった女性の数すら不明な現状ーー - 神保町系オタオタ日記

*1:トム・リバーフィールド「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」『二級河川』17号(金腐川宴游会、平成29年4月)による。

*2:公職追放に関する覚書該当者名簿』の該当事項として「著書アメリカはどう出るか」と記載される望月肇のような稀な例はある。

*3:文部省社会教育局文化課編『連合国総司令部から没収を命ぜられた宣伝用刊行物総目録(五十音順)』(文部省社会教育局、昭和24年)を大改訂したもの

*4:ただし、 『GHQに没収された本』に著書が挙がっていても著者が公職追放になっているとは限らない。たとえば柳田國男神道民族学』(明世堂書店、昭和18年4月)が挙がっているが、勿論柳田は公職追放になっていない。

二人の「問題の女」、本荘幽蘭と下山京子に関する本ーー平山亜佐子『問題の女:本荘幽蘭伝』(平凡社)と松尾理也『大阪時事新報の研究』(創元社)ーー

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 松尾理也『大阪時事新報の研究:「関西ジャーナリズム」と福澤精神』(創元社、令和3年7月)が、刊行された。同書第2章「夕刊発行と時間軸の拡大ーー化け込み記者・下山京子」は、初期の婦人記者で明治39年大阪時事新報社に入社し、身分を隠した潜入ルポで評判になった下山に注目している。下山と言えば、亡くなって10年を超える黒岩比佐子さんが晩年調査していた婦人記者である。調査の切っ掛けは、「古書の森日記 by Hisako:『婦人世界』(明治43年12月号) - livedoor Blog(ブログ)」へ寄せられた下山の曾孫という人からのコメントだったと思う。松尾著は大正5年頃を境に下山の消息は途絶えたとしているが、黒岩さんはその後の消息を解明していたかもしれない。
 松尾著によると、大正4年の『大阪時事新報』は、女優として大阪に戻ってきた下山について、「問題の女」と書いているという。実は、婦人記者でより「問題の女」だった人物がいて、近くその伝記が刊行される。平山亜佐子『問題の女:本荘幽蘭伝』(平凡社、令和3年10月)である。幽蘭女史については、拙ブログも次のような記事を書いたことがある。

教育講談師本荘幽蘭と妹尾義郎 - 神保町系オタオタ日記
肉食系女子本荘幽蘭に食われた堀岡良吉 - 神保町系オタオタ日記
本荘幽蘭と白百合カフェー - 神保町系オタオタ日記
安藤礼二から見た本荘幽蘭 - 神保町系オタオタ日記
出久根達郎が出席した手書き古書目録に関する座談会 - 神保町系オタオタ日記

 肉食系女子として、「120人以上の交際相手」(平山著の帯)を食べちゃったらしい幽蘭。江刺昭子『女のくせに:草分けの女性新聞記者たち』(インパクト出版会、平成9年1月)は、戦後の消息について『講談研究』昭和28年9月号への投稿を記載するだけである。平山著は従来不明だった戦後の消息についても解明されているようなので、大いに期待している。平山氏が純粋個人雑誌『趣味と實益』の「ゆらゆら幽蘭記」で幽蘭を追いかけ始めてから10年になるだろうか。今年の推しの1冊になるのは必至だろう。安藤礼二さんの書評もさることながら、黒岩さんの書評が読みたかった本である。

公職追放に関する研究の進展を期待してーー公職追放になった女性の数すら不明な現状ーー

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 あらためてトム・リバーフィールド「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」『二級河川』17号(金腐川宴游会、平成29年4月)を読んでみた。女性としては、市川房枝が「言論報国会理事」、吉岡彌生が「大日本青少年団大日本婦人会顧問」を理由として公職追放になっている。その他、女性としては小泉菊枝(著書)や竹内富子(三笠書房店主)などが挙がっている。小泉は、『満洲人の少女』(月刊満洲社、昭和13年12月)、『東亜聯盟と昭和の民』(東亜聯盟協会、昭和15年8月)や『日蓮上人の教義とはどんなものか』(精華会、昭和16年2月)の著者である。
 書名を忘れたが最近読んだ満洲文学関係の本には、市川と白土菊枝(旧姓小泉)の2人だけが公職追放になった女性とあった。誤りである。上記のメディア関係者の他にも、例えば山内禎子(大日本婦人会会長)や竹内茂代(大日本婦人会理事)が公職追放である。グーグルブックスで検索すると、「歴史評論」編集部編『近代日本女性史への証言:山川菊栄市川房枝丸岡秀子・帯刀貞代』(ドメス出版、昭和54年10月)に公職追放になった婦人は4、5人しかなかったとあるようだ。これも誤っている。
 おそらくあの大部な『公職追放に関する覚書該当者名簿』のすべてを読んだ人はいないのだろう。各種全集別巻の人名索引を手当たり次第に読んじゃうわしでも、リバーフィールド氏と同様に名簿の該当事項に限り2回目を通しただけである。いつかは人名の部分を全部読まねばとは思っているが、中々大変である。研究者の皆様には是非データベース化して、女性の該当者数を含め、様々な分析をしていただきたいものである。
 余談だが、下鴨納涼古本まつりの目録に玉城文庫出品で『大日本婦人会南桑田郡支部資料一括』が出ていた。研究者の手に渡っただろうか。
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参考:「あらためて、その凄さを知ったトム・リバーフィールド編「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」ーー大日本言論報国会・国際政経学会幹部の公職追放者ーー - 神保町系オタオタ日記

荷風を盗んだ猪場毅が編集発行した『南紀藝術』(南紀藝術社)と無名の画家太田良平

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 8月12日下鴨納涼古本まつり2日目、雨の中シルヴァン書房のテントへ。絵葉書の箱は並べられずに積まれた状態だったので、最近チェックしてなかったビニール袋に入った紙ものを見る。そうすると、南紀藝術社が「無名の青年画家太田良平」の「プロ風俗画展」を開催する旨の案内葉書を発見。800円。
 和歌山市にあった南紀藝術社が発行した『南紀藝術』は、拙ブログを見る近代文学研究者なら御存知だろう。昭和6年9月創刊され、9年1月10号で終刊した。編集発行は猪場毅という問題多き人物で、昨年善渡爾宗衛・杉山淳編『荷風を盗んだ男:「猪場毅」という波紋』(幻戯書房)が出たところである。平井呈一とともに永井荷風の色紙、短冊の偽筆を製作・販売したり、『四畳半襖の下張』を無断で販売したとされる。
 後にそんな事件を起こす猪場ではあるが、『南紀藝術』は素晴らしい雑誌だったようだ。マイクロフィッシュによる復刻版も刊行されている。紅野敏郎「逍遥・文学誌(20):春夫・潤一郎・加藤一夫・竹内勝太郎・阪中正夫・沖野岩三郎ら(上)」『國文學:解釈と教材』38巻2号(学燈社、平成5年2月)によると、「やや横長の変形版だが、直接間接紀州にかかわりのある人びとを軸とした、ゆったりとした文芸随想誌で、考証、美術の要素をも存分に含んでいる」という。9号、10号の表紙・本文用紙は紀州の和紙が用いられ、10号には壽岳文章の次のような絶賛の言葉が載っているともある。壽岳の心をしっかり捉えたようだ。

 紀州の紙を、それもたゞ『国のもの』と言ふだけの理由でなく、『美しさ』といふことを念頭においてお用ゐになり印刷のはし/\”にまでよく注意がゆきとゞいてゐるのは感心いたしました。私が今までに見た雑誌の中で最も感心したものゝ一つです。(略)

 入手したのは、前記3月21日付け葉書のほか、昭和7年3月19日付け海草郡雑賀崎村の谷井済一宛の封筒と、「南紀藝術社規」*1や保田龍門・藤田進一郎の祝辞、喜多村進・加藤一夫坪内士行・阪中正夫・高谷伸・三上秀吉・玉置照信・楳垣實の「反響」、1号~4号の総目次などが載ったリーフレットである。谷井は明治40年東京帝国大学文科大学史学科卒業後、京都帝国大学大学院で日本古代史を研究した人物である。朝鮮総督府古蹟調査委員などを務めた後、和歌山に帰郷していた。無名の画家太田の経歴は、調べていない。同名の彫刻家がいるので、紛らわしい。『南紀藝術』では4号、昭和7年3月に阪中正夫「村の日記」のカットや裏絵を描いている。案内葉書には、「貧乏人の風俗三十態」とあり、面白そうな展覧会である。
 色々問題を起こした猪場だが、紀田順一郎監修・荒俣宏編『平井呈一:生涯とその作品』(松籟社、令和3年5月)160頁には、驚くべき記述がある。

一九四八年(昭和二三)
 九月一三日、猪場毅、岩波書店が改修を決定した『辞苑』のために編集部を設置したので、部員として雇われる。編集長は新村出で、昭和三〇年五月に『広辞苑』として初版発売した。その編集後記に猪場毅の名前がある。

 『広辞苑』の編集部に潜り込んでいたらしい。『南紀藝術』10号には新村の「南海風景」が載っているので、その時の伝手が生かされたのかもしれない。

*1:荷風を盗んだ男』に収録されている。

第一高等学校教授の職を女で棒に振った内藤丈吉と中山岩太の妻中山正子ーー辻直人『近代日本海外留学の目的変容』(東信堂)への補足ーー

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 辻直人『近代日本海外留学の目的変容:文部省留学生の派遣実態について』(東信堂、平成22年11月)を読んでみた。本書は、明治8年から昭和15年までの文部省留学生3,180人のデータベースを作成し、更に大学史史料や外交文書等を駆使して、戦前期の文部省留学生派遣の量的、質的変化を丹念に解明したものである。公職追放者についても、データベースを作成して研究していただきたいものである。もっとも、公職追放者の方は20万人を超えるので、1人で作成するのは困難かもしれない。共同研究が期待されるところである。
 さて、本書101頁で懐かしい名前に出会った。明治28年から大正8年までの間に文部省直轄の高等学校から派遣された12人を表にしていて、このうち10人が帰国後他校へ異動した。「異動しなかった二人のうち一人は、留学途中何らかの理由で留学を免除されており、本来なら帰国後他校へ赴任していた可能性はある」としていて、この人物が内藤丈吉であった。
 内藤は、「岡本太郎を小僧呼ばわりした元第一高等学校教授の内藤丈吉 - 神保町系オタオタ日記」や「与謝野寛の親友だったパリ在住の変人内藤丈吉 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したようにフランス留学中に女にうつつを抜かすという羨ましい、じゃなかった、困った先生で結局日本には戻ってこなかったらしい。『第一高等学校一覧』では、大正3年までは外国留学中の教授として名前があるが、4年以降名前はない*1。内藤は、明治39年7月東京帝国大学理科大学数学科卒。当時数学第2講座の教授は、藤澤親雄の父藤澤利喜太郎であった。内藤の親友与謝野寛が内藤を「藤澤博士の高弟」と呼んだのは、事実だったと思われる。また、辻著によると、内藤と同じ明治43年に英仏独に派遣された七高教授菱田唯蔵は帰国後九州帝国大学工科大学教授になっているので、内藤も帝大教授の席が用意されていたかもしれない。何とももったいないことであった。
 以前「グーグルブックス」で「内藤丈吉」を検索したときは、拙ブログしかヒットしなかったが、今検索すると多数の文献がヒットする。これによると、『方忌みと方違え:平安時代の方角禁忌に関する研究』(岩波書店、平成元年1月)の著者ベルナール・フランクは、来日前に内藤から日本語を学んでいたことがわかる。更に、中山正子『ハイカラに、九十二歳:写真家中山岩太と生きて』(河出書房新社、昭和62年9月)にも登場する。

 うちの庭の一角に二間の西洋館を建てて、明治女学校の数学の先生の内藤丈吉という人が住んでいて、大姉さんはよく数学を習いにきた。(略)
 この内藤さんがフランスへ行くことになって、この西洋館も調度品も「まあちゃんにあげる」と言って、ほんの身のまわりのものだけを持って渡仏してしまわれた。

 正子は、義姉が明治女学校の数学の先生だった関係で、義母と共に同校の所有地に立つ家に住んでいた。内藤は、明治女学校の先生でもあったことがわかる。正子は岩太と結婚後の大正15年に渡仏しているが、前記自伝にはフランスで内藤と再会したとは書かれていない。出会う機会がなかったのか、気になるところである。このようにとてもユニークな人生を送った内藤なので、誰かにフランス側の史料を調べてもらい、内藤のその後をまとめてほしいものである。
追記:中山著151頁に記載があった。

 まずボナパルトに「宝の山」という日本食料品を売っている店の内藤丈吉さんを尋ねた。かつて私の家の庭に西洋館を建てて住んでいたが、フランスへ行くためにその部屋を私にくださった人。十何年ぶりかの再会だ。少しも変わっておられなかった。この人はすごい潔癖屋さんで病的な人だったが、フランスで日本語学校の教師となり、そこの生徒のフランス人と結婚して二人の子供がある。(略)

*1:追記:大正4年8月10日付け官報の「叙任及辞令」欄に「依願免本官(八月九日内閣)」とある。

南洋協会が夢見た帝国日本の南洋博物館及び南洋図書館

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 中島俊郎「表象としてのジェームズ・ブルック」の抜刷を御恵投いただきました。ありがとうございます。「土俗研究者にして日本学術探検協会理事長の三吉朋十もチャーチワードのムー大陸に騙された。そして、三島由紀夫も?ーー森谷裕美子「三吉朋十と土俗学」への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」で南洋協会に言及したので、参考に送っていただいたようだ。本稿は、「南洋協会の知のシステムがどのように作動していたのか、そして、ジェームズ・ブルック(James Brooke,1803-68)という大英帝国帝国主義的表象がこの協会のなかでいかに連動しているかを検討」したものである。
 南洋協会については、私も「『団体総覧』に見る戦前のおもしろ特種団体 - 神保町系オタオタ日記」で言及したように関心はあったが、詳しく調べていなかった。今回本稿を読んでみると、やはり面白そうな団体である。南洋協会は、大正4年に「南洋ニ於ケル諸般ノ事項ヲ講究シテ相互ノ事情ヲ疎通シ共同ノ福利ヲ増進シ以テ平和文明ニ貢献スルヲ目的」として創立された。本稿に挙がっている規約第3条の事業を見ると、「南洋ニ於ケル産業、制度、社会其他各般ノ事情ヲ調査スルコト」や「南洋ノ事情ヲ本邦ニ紹介スルコト」の他に、注目すべき「南洋博物館及図書館ヲ設クルコト」が規定されている。しかし、この南洋博物館や南洋図書館は、設立されなかったようだ。ネットで読める加藤一夫「日本の旧海外植民地と図書館:東南アジアの図書館接収問題を中心に(未定稿)」『参考書誌研究』49号(国立国会図書館、平成10年3月)は、「この協会が図書館や博物館を設置して運営したという証拠はない」としている。設置されなかったにしても、設置場所や館長、スタッフなどある程度の計画はあったかもしれない。気になるところである*1

*1:『斯文』2巻1号(斯文会、大正9年2月)の彙報欄に南京に設立された南洋図書館に関する記事があるが、無関係だろう。

九鬼周造「最後の歌」の初出誌としての『静坐』(静坐社)

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 小林参三郎の妻小林信子が昭和2年に創立した静坐社の機関誌『静坐』については、「新村出・成瀬無極の脚本朗読会カメレオンの会と小林参三郎・信子夫妻ーーそして谷村文庫の谷村一太郎もまたーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。成瀬無極の「文藝坐談」が載っているというので、家蔵の同誌14冊を確認してみた。8巻7号、昭和9年7月には86回の「『嵯峨野の秋』について」が、17巻1号、昭和18年1月には146回の「職域奉公」が掲載されていて、家蔵の中ではこれが最後である。『無極集』(成瀬先生記念刊行会、昭和34年11月)の年譜昭和2年の条に「この年から小林静[ママ]子主宰の雑誌「静坐」に文藝坐談と題する随筆を寄稿し、昭和十七年まで約百五十回に及ぶ」とあるが、昭和18年1月号までは続いたことが確認できる。
 今回は、15巻6号、昭和16年6月の140回の「九鬼博士を弔ふの文」を紹介しよう。5月6日に亡くなった九鬼周造の追悼文である。4月24日に府立病院入院中の九鬼に躑躅の鉢植を贈ると、29日に詠んだ歌2首が届いたという。この歌は九鬼の死後に天野貞祐編集で刊行された『巴里心景』(甲鳥書林昭和17年11月)に「最後の歌」として収録されている。この歌に感動した成瀬は4月30日に返歌を送ると病床の九鬼から礼状が届いたという。5月6日に九鬼は亡くなっているので、絶筆に近いものだろう。『静坐』には、この礼状の文章と成瀬が葬儀で読んだ弔辞も掲載されている。
 私が買った『静坐』は、14冊で1,000円だった。1冊当たり100円にもならない。投げ売りと言ってよいだろう。しかし、この号などは目録に「九鬼周造の「最後の歌」の初出誌」と注記してあげれば、九鬼の研究者が数千円でも買っただろう。
 信子夫人は「新村先生は時々」『静坐』に寄稿してくれたと書いていたが、確かに新村出の「となり」が15巻1号、昭和16年1月に、「此春と耐乏」が17巻1号、18年1月に掲載されていた。どちらも『新村出全集索引』(新村出記念財団、昭和58年3月)の「書誌」に挙がっていた。
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