神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

荷風を盗んだ猪場毅が編集発行した『南紀藝術』(南紀藝術社)と無名の画家太田良平

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 8月12日下鴨納涼古本まつり2日目、雨の中シルヴァン書房のテントへ。絵葉書の箱は並べられずに積まれた状態だったので、最近チェックしてなかったビニール袋に入った紙ものを見る。そうすると、南紀藝術社が「無名の青年画家太田良平」の「プロ風俗画展」を開催する旨の案内葉書を発見。800円。
 和歌山市にあった南紀藝術社が発行した『南紀藝術』は、拙ブログを見る近代文学研究者なら御存知だろう。昭和6年9月創刊され、9年1月10号で終刊した。編集発行は猪場毅という問題多き人物で、昨年善渡爾宗衛・杉山淳編『荷風を盗んだ男:「猪場毅」という波紋』(幻戯書房)が出たところである。平井呈一とともに永井荷風の色紙、短冊の偽筆を製作・販売したり、『四畳半襖の下張』を無断で販売したとされる。
 後にそんな事件を起こす猪場ではあるが、『南紀藝術』は素晴らしい雑誌だったようだ。マイクロフィッシュによる復刻版も刊行されている。紅野敏郎「逍遥・文学誌(20):春夫・潤一郎・加藤一夫・竹内勝太郎・阪中正夫・沖野岩三郎ら(上)」『國文學:解釈と教材』38巻2号(学燈社、平成5年2月)によると、「やや横長の変形版だが、直接間接紀州にかかわりのある人びとを軸とした、ゆったりとした文芸随想誌で、考証、美術の要素をも存分に含んでいる」という。9号、10号の表紙・本文用紙は紀州の和紙が用いられ、10号には壽岳文章の次のような絶賛の言葉が載っているともある。壽岳の心をしっかり捉えたようだ。

 紀州の紙を、それもたゞ『国のもの』と言ふだけの理由でなく、『美しさ』といふことを念頭においてお用ゐになり印刷のはし/\”にまでよく注意がゆきとゞいてゐるのは感心いたしました。私が今までに見た雑誌の中で最も感心したものゝ一つです。(略)

 入手したのは、前記3月21日付け葉書のほか、昭和7年3月19日付け海草郡雑賀崎村の谷井済一宛の封筒と、「南紀藝術社規」*1や保田龍門・藤田進一郎の祝辞、喜多村進・加藤一夫坪内士行・阪中正夫・高谷伸・三上秀吉・玉置照信・楳垣實の「反響」、1号~4号の総目次などが載ったリーフレットである。谷井は明治40年東京帝国大学文科大学史学科卒業後、京都帝国大学大学院で日本古代史を研究した人物である。朝鮮総督府古蹟調査委員などを務めた後、和歌山に帰郷していた。無名の画家太田の経歴は、調べていない。同名の彫刻家がいるので、紛らわしい。『南紀藝術』では4号、昭和7年3月に阪中正夫「村の日記」のカットや裏絵を描いている。案内葉書には、「貧乏人の風俗三十態」とあり、面白そうな展覧会である。
 色々問題を起こした猪場だが、紀田順一郎監修・荒俣宏編『平井呈一:生涯とその作品』(松籟社、令和3年5月)160頁には、驚くべき記述がある。

一九四八年(昭和二三)
 九月一三日、猪場毅、岩波書店が改修を決定した『辞苑』のために編集部を設置したので、部員として雇われる。編集長は新村出で、昭和三〇年五月に『広辞苑』として初版発売した。その編集後記に猪場毅の名前がある。

 『広辞苑』の編集部に潜り込んでいたらしい。『南紀藝術』10号には新村の「南海風景」が載っているので、その時の伝手が生かされたのかもしれない。

*1:荷風を盗んだ男』に収録されている。

第一高等学校教授の職を女で棒に振った内藤丈吉と中山岩太の妻中山正子ーー辻直人『近代日本海外留学の目的変容』(東信堂)への補足ーー

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 辻直人『近代日本海外留学の目的変容:文部省留学生の派遣実態について』(東信堂、平成22年11月)を読んでみた。本書は、明治8年から昭和15年までの文部省留学生3,180人のデータベースを作成し、更に大学史史料や外交文書等を駆使して、戦前期の文部省留学生派遣の量的、質的変化を丹念に解明したものである。公職追放者についても、データベースを作成して研究していただきたいものである。もっとも、公職追放者の方は20万人を超えるので、1人で作成するのは困難かもしれない。共同研究が期待されるところである。
 さて、本書101頁で懐かしい名前に出会った。明治28年から大正8年までの間に文部省直轄の高等学校から派遣された12人を表にしていて、このうち10人が帰国後他校へ異動した。「異動しなかった二人のうち一人は、留学途中何らかの理由で留学を免除されており、本来なら帰国後他校へ赴任していた可能性はある」としていて、この人物が内藤丈吉であった。
 内藤は、「岡本太郎を小僧呼ばわりした元第一高等学校教授の内藤丈吉 - 神保町系オタオタ日記」や「与謝野寛の親友だったパリ在住の変人内藤丈吉 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したようにフランス留学中に女にうつつを抜かすという羨ましい、じゃなかった、困った先生で結局日本には戻ってこなかったらしい。『第一高等学校一覧』では、大正3年までは外国留学中の教授として名前があるが、4年以降名前はない*1。内藤は、明治39年7月東京帝国大学理科大学数学科卒。当時数学第2講座の教授は、藤澤親雄の父藤澤利喜太郎であった。内藤の親友与謝野寛が内藤を「藤澤博士の高弟」と呼んだのは、事実だったと思われる。また、辻著によると、内藤と同じ明治43年に英仏独に派遣された七高教授菱田唯蔵は帰国後九州帝国大学工科大学教授になっているので、内藤も帝大教授の席が用意されていたかもしれない。何とももったいないことであった。
 以前「グーグルブックス」で「内藤丈吉」を検索したときは、拙ブログしかヒットしなかったが、今検索すると多数の文献がヒットする。これによると、『方忌みと方違え:平安時代の方角禁忌に関する研究』(岩波書店、平成元年1月)の著者ベルナール・フランクは、来日前に内藤から日本語を学んでいたことがわかる。更に、中山正子『ハイカラに、九十二歳:写真家中山岩太と生きて』(河出書房新社、昭和62年9月)にも登場する。

 うちの庭の一角に二間の西洋館を建てて、明治女学校の数学の先生の内藤丈吉という人が住んでいて、大姉さんはよく数学を習いにきた。(略)
 この内藤さんがフランスへ行くことになって、この西洋館も調度品も「まあちゃんにあげる」と言って、ほんの身のまわりのものだけを持って渡仏してしまわれた。

 正子は、義姉が明治女学校の数学の先生だった関係で、義母と共に同校の所有地に立つ家に住んでいた。内藤は、明治女学校の先生でもあったことがわかる。正子は岩太と結婚後の大正15年に渡仏しているが、前記自伝にはフランスで内藤と再会したとは書かれていない。出会う機会がなかったのか、気になるところである。このようにとてもユニークな人生を送った内藤なので、誰かにフランス側の史料を調べてもらい、内藤のその後をまとめてほしいものである。
追記:中山著151頁に記載があった。

 まずボナパルトに「宝の山」という日本食料品を売っている店の内藤丈吉さんを尋ねた。かつて私の家の庭に西洋館を建てて住んでいたが、フランスへ行くためにその部屋を私にくださった人。十何年ぶりかの再会だ。少しも変わっておられなかった。この人はすごい潔癖屋さんで病的な人だったが、フランスで日本語学校の教師となり、そこの生徒のフランス人と結婚して二人の子供がある。(略)

*1:追記:大正4年8月10日付け官報の「叙任及辞令」欄に「依願免本官(八月九日内閣)」とある。

南洋協会が夢見た帝国日本の南洋博物館及び南洋図書館

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 中島俊郎「表象としてのジェームズ・ブルック」の抜刷を御恵投いただきました。ありがとうございます。「土俗研究者にして日本学術探検協会理事長の三吉朋十もチャーチワードのムー大陸に騙された。そして、三島由紀夫も?ーー森谷裕美子「三吉朋十と土俗学」への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」で南洋協会に言及したので、参考に送っていただいたようだ。本稿は、「南洋協会の知のシステムがどのように作動していたのか、そして、ジェームズ・ブルック(James Brooke,1803-68)という大英帝国帝国主義的表象がこの協会のなかでいかに連動しているかを検討」したものである。
 南洋協会については、私も「『団体総覧』に見る戦前のおもしろ特種団体 - 神保町系オタオタ日記」で言及したように関心はあったが、詳しく調べていなかった。今回本稿を読んでみると、やはり面白そうな団体である。南洋協会は、大正4年に「南洋ニ於ケル諸般ノ事項ヲ講究シテ相互ノ事情ヲ疎通シ共同ノ福利ヲ増進シ以テ平和文明ニ貢献スルヲ目的」として創立された。本稿に挙がっている規約第3条の事業を見ると、「南洋ニ於ケル産業、制度、社会其他各般ノ事情ヲ調査スルコト」や「南洋ノ事情ヲ本邦ニ紹介スルコト」の他に、注目すべき「南洋博物館及図書館ヲ設クルコト」が規定されている。しかし、この南洋博物館や南洋図書館は、設立されなかったようだ。ネットで読める加藤一夫「日本の旧海外植民地と図書館:東南アジアの図書館接収問題を中心に(未定稿)」『参考書誌研究』49号(国立国会図書館、平成10年3月)は、「この協会が図書館や博物館を設置して運営したという証拠はない」としている。設置されなかったにしても、設置場所や館長、スタッフなどある程度の計画はあったかもしれない。気になるところである*1

*1:『斯文』2巻1号(斯文会、大正9年2月)の彙報欄に南京に設立された南洋図書館に関する記事があるが、無関係だろう。

九鬼周造「最後の歌」の初出誌としての『静坐』(静坐社)

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 小林参三郎の妻小林信子が昭和2年に創立した静坐社の機関誌『静坐』については、「新村出・成瀬無極の脚本朗読会カメレオンの会と小林参三郎・信子夫妻ーーそして谷村文庫の谷村一太郎もまたーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。成瀬無極の「文藝坐談」が載っているというので、家蔵の同誌14冊を確認してみた。8巻7号、昭和9年7月には86回の「『嵯峨野の秋』について」が、17巻1号、昭和18年1月には146回の「職域奉公」が掲載されていて、家蔵の中ではこれが最後である。『無極集』(成瀬先生記念刊行会、昭和34年11月)の年譜昭和2年の条に「この年から小林静[ママ]子主宰の雑誌「静坐」に文藝坐談と題する随筆を寄稿し、昭和十七年まで約百五十回に及ぶ」とあるが、昭和18年1月号までは続いたことが確認できる。
 今回は、15巻6号、昭和16年6月の140回の「九鬼博士を弔ふの文」を紹介しよう。5月6日に亡くなった九鬼周造の追悼文である。4月24日に府立病院入院中の九鬼に躑躅の鉢植を贈ると、29日に詠んだ歌2首が届いたという。この歌は九鬼の死後に天野貞祐編集で刊行された『巴里心景』(甲鳥書林昭和17年11月)に「最後の歌」として収録されている。この歌に感動した成瀬は4月30日に返歌を送ると病床の九鬼から礼状が届いたという。5月6日に九鬼は亡くなっているので、絶筆に近いものだろう。『静坐』には、この礼状の文章と成瀬が葬儀で読んだ弔辞も掲載されている。
 私が買った『静坐』は、14冊で1,000円だった。1冊当たり100円にもならない。投げ売りと言ってよいだろう。しかし、この号などは目録に「九鬼周造の「最後の歌」の初出誌」と注記してあげれば、九鬼の研究者が数千円でも買っただろう。
 信子夫人は「新村先生は時々」『静坐』に寄稿してくれたと書いていたが、確かに新村出の「となり」が15巻1号、昭和16年1月に、「此春と耐乏」が17巻1号、18年1月に掲載されていた。どちらも『新村出全集索引』(新村出記念財団、昭和58年3月)の「書誌」に挙がっていた。
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鹿子木孟郎の妻鹿子木春子の日記(未公刊)に注目

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 存在が判明しているものの未公刊の日記については、「オタどんが死ぬまでに読みたい未公刊の日記群ーー堀一郎の日記はどうなった?ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがある。関西美術院第3代院長だった鹿子木孟郎の妻鹿子木春子の日記も、未公刊で気になるものである。この日記は、京都大学総合博物館で発見されたスウェン・ヘディンがチベットで描いた原画を関西美術院の画学生が模写した絵画の経緯を調べるために資料を管理している鹿子木良子氏から閲覧させてもらったものだという。
 ヘディンは明治41年来日した際に京大で講演し、チベットで画いたスケッチや水彩画の展示も行われた。日記によると鹿子木の自宅で模写作業が行われた旨の記述があるという。夫人の日記というのが面白い。画家本人は日記をつけていなかったのだろうか。いずれにしても未公刊の日記は検証もできないし、他の部分の記述も気になるので、翻刻・公刊していただきたいものである。
 なお、この模写は平成29年12月に京大百周年時計台記念館で展示され、講演会も開催された。研究の成果は、田中和子編・佐藤兼永撮影『探検家ヘディンと京都大学』(京都大学学術出版会、平成30年3月)として刊行されている。

土俗研究者にして日本学術探検協会理事長の三吉朋十もチャーチワードのムー大陸に騙された。そして、三島由紀夫も?ーー森谷裕美子「三吉朋十と土俗学」への補足ーー

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 平成8年6月『歴史を変えた偽書:大事件影響与えた裏文書たち』(ジャパン・ミックス)が刊行された。ここに掲載された藤野七穂偽史と野望の陥没大陸“ムー大陸”の伝播と日本的受容」には戦前ムー大陸に言及した未知の文献が多く引用されていて、感心したものであった。その後私も藤野著に記載されていない文献をかなり見つけている。詳しくは、「日本におけるムー大陸受容史ーー「日本オカルティズム史講座」第4回への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」参照。今回新たに海軍有終会編『太平洋二千六百年史』(海防義会、昭和15年9月)の第2第4章第5節「熱帯太平洋諸群島」中に発見した。

 地理学者の説によると、太古熱帯太平洋上に、世界の半分を支配したのであらうと思はれるやうな文化を持つた大帝国があつたが、海底の大噴火に伴ふ陸地陥没のために此の大陸は忽然と滅裂して、其所に住んで居た幾千万の人々は悉く滅亡してしまつたが、唯だ当時文化があつたことを想像し得らるべき巨石文化がポナペ、パラオ、マルデン、イースター島などに、今尚ほ存在して居て其の当時の関係を知り得るのみである。この大陸をゼームス・チヤーチワードはMU大陸と名づけて居る。

 この部分の執筆を担当したのは、南洋経済研究所嘱託の三吉朋十であった。三吉については、ネットで読める森谷裕美子「三吉朋十と土俗学」『九州産業大学国際文化学部紀要』70号、平成30年に経歴・著作一覧が出ているので、詳しくはそれをみられたい。なお、上記著作は一覧に挙がっていない。三吉は、明治15年生まれで、札幌農学校中退後、南洋協会嘱託、台湾総督府嘱託等を務め、南洋の土俗等に関する著作が多い。
 森谷論文に補足すれば、三吉香馬名義でも著作がある。「国会図書館サーチ」で3件ヒットするほか、「ざっさくプラス」によると『南洋』に「南洋奇聞」を連載している。「香馬」が別名であることは、『現代出版文化人総覧昭和十八年版』(協同出版社、昭和18年2月)の「現代執筆家一覧」に出ていた。この一覧によれば、日印協会、比律賓協会、インドネシア協会、東京人類学会、南洋協会、東洋協会に所属し、日本学術探検協会理事長*1であった。研究者の諸君は、昭和戦前期の著述家で経歴不詳の人物がいた場合、本書を見た方がよいだろう。
 三吉の文中の「地理学者」は不明だが、「セルパン・皇国地政学・ムー大陸 - 神保町系オタオタ日記」で言及したように京都帝国大学文学部史学科教授で地理学者の小牧実繁が『セルパン』昭和18年2月号でムー大陸に言及している。ムー大陸に騙された地理学者がいるように、土俗研究者三吉もムー大陸を信じてしまったようだ。
 そして、最近「日本の古本屋」に三島由紀夫旧蔵のムー大陸本(大陸書房)が出品されていることが判明した*2。三島もまた騙されたのだろうか?
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*1:原文は「日本探検協会理事長」

*2:2冊出ていたが、売り切れている。

東北帝国大学工学部の山内清彦と禊の科学者成瀬政男ーー寸葉会で見つけた『学士試験成績簿』からーー

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 何年か前に寸葉会という絵葉書などの紙ものの即売会で、戦前の『学士試験成績簿』を購入した。東北帝国大学工学部電気学科の学生の成績簿である。東大や京大の文学部で更にある程度知名度のある人のものだったら、速攻で買いだ。しかし、これは東北帝大工学部に昭和5年に入学した山内清彦という未知の人物の成績簿である。迷ったが、1,000円だし『学士試験成績簿』の実物は初めて見たので購入。
 中には入学試験時の受験票や大学からの送付文、封筒も入っていてややお得であった。山内はグーグルブックスで検索すると、昭和8年東北帝大を卒業後同大の副手、助手を経て11年山梨高等工業学校教授となり、戦後は福井大学教授だったようだ。まったく無名の人ではなかった。
 タイトルから「学士試験」というペーパー試験が実施されたように思ってしまうが、そうではない。昭和6年度から7年度までの科目試験と論文試験(卒論だろう)の記録である。成績簿と言っても、優良可等の成績の記載はなく、授業教官・試験科目毎に、合格年月日と認印の欄があるだけである。科目は、数学、力学、機械工学通論のほかは、すべて電気関係の科目である。語学や教養の文系科目は、学士試験とは無関係のようだ。
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 教官名で知っているのは、八木アンテナで知られる八木秀次だけだった。機械工学通論の成瀬政男助教授は、吉葉恭行・加藤諭・本村昌文編『帝国大学における研究者の知的基盤:東北帝国大学を中心として』(こぶし書房、令和2年3月)の吉葉「第七章 成瀬政男の科学技術思想とその知的基盤」に出てきて面白い記述があるので、紹介しておこう。
 吉葉論文によると、戦時下の成瀬の科学技術に関わる著述活動で注目すべきキーワードの一つが「禊」であった。成瀬は、昭和18年の『科学朝日』に掲載された横光利一との対談によると、禊を10年もやっていたという。そして、

 また成瀬は、「対症療法なくして」科学技術を発展させると、「人類は滅亡の方向にゆく」と述べ、「科学技術は劇薬」であり「劇薬」を「良薬」にするための「心構へ」が「禊の精神の中に存在する」から科学者や技術者が「禊」を行ったほうが良いという考えも示している。

 更に一戸富士雄論文*1に言及していて、同論文によると、成瀬の『日本技術の母胎』(改訂普及版)は戦後の昭和20年10月発行であるにもかかわらず、「必勝」の信念を平然と吐露している本で狂信的であったこと、科学者としての技術論の根底にあるのは、技術は神の御稜威の一つの現われという「神道的技術論」だったとされている。何とも、注目すべき科学者だった。
追記:紀田順一郎監修・荒俣宏編『平井呈一:生涯とその作品』(松籟社、令和3年5月)146頁に成瀬が出てくる。

成瀬は千葉の出身であり、この年(昭和29年ーー
引用者注)スイスに歯車研究に行く前の休養を兼ねて、程一の家の家主でもある医院に通ってきていたが、たまたま小泉八雲の平井訳本を読んで感動し、訳者への面会を求めてきた。この博士は、八雲が興味を持った古き日本の良さこそが「日本を立て直す力になる」と語ったという。

*1:一戸富士雄「一五年戦争と東北帝国大学」『一五年戦争と日本の医学医療研究会会誌』第3巻第1号、平成14年