神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『滋賀公論』創刊号(明治23年)に本願寺大学林文学寮教頭中西牛郎

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 10日無事に開催された平安蚤の市へ。『滋賀公論』創刊号(滋賀公論社、明治23年11月)を購入。24頁、1,000円。国会図書館サーチや滋賀県内図書館横断検索でヒットしないので、貴重な雑誌だろう。目次を挙げておく。
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 井上円了と中西牛郎の名前があるので、買ってみた。もっとも、円了のは執筆者ではなく、円了が講演を行ったという記事であった。内容は、「館主巡回日記」と一致する。
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 『滋賀公論』発刊の祝文の筆頭が、中西である。ネットで読める星野靖二「「新仏教」のゆくえーー中西牛郎を焦点としてーー」によれば、中西は、西本願寺教団の資金で明治22年6月から渡米し、帰国後の23年10月に本願寺大学林文学寮教頭兼教授に就任している。就任したばかりの中西であった。
 中西以外の祝文の寄稿者は、谷沢龍蔵、芦津実全、田中孝永、斎芸[ママ]運三(大阪日々新聞社)、内山柳雨(筆一本舎主兼大阪日々新聞社員)、宮原澹処、西村文四郎、近藤照、麭堂居士(在京都)、小川忠之輔、村田六之助、晴月女史。知らない人ばかりである。
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 「告条」によると、12月5日発行の第2号に中西の「宗教に関する卓論」を掲載するとある。別途、同月15日発行の3号を入手したので、2号が発行されたことは確実である。中西を祝文の筆頭にしたり、2号に論考を書かせたり、随分中西を登用する雑誌である。滋賀県知名度が高かったのだろうか。
 裏表紙には、中西が創刊したばかりの『経世博議』の広告が載っている。前記星野論文によれば、24号(明治25年12月)まで発行されたという。
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『荷風全集』別巻(岩波書店)の「書簡宛名解説索引」(中村良衛作製)への補足ーートム・リバーフィールド「出版人の饅頭本」『二級河川』に期待ーー

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 平成23年から25年にかけて親族の不幸があり、この間に出た本や論文に見落としが多い。『荷風全集』別巻(岩波書店平成23年11月)も未読であったので、読んでみた。頼まれたわけでもないのに、同書の「書簡宛名解説索引」(中村良衛作製)に補足してみよう。といっても、網羅的ではなく、生年又は没年が不詳とされていて、かつ、私があの参考図書に出ているだろうと予測できた人名だけ調べてみた。結果は、ほとんど判明できなかった。判明したのは、

稲葉熊野 明治35年生(『新聞人名辞典』3巻)
木村荘五 明治23年生、昭和48年没(「日記人名注・索引」『志賀直哉全集』16巻。国会図書館オンライン著者標目にも記載有)
菅竹浦 明治13年生(トム・リバーフィルード「雑誌『伝記』と「伝記研究家一覧」」『二級河川』15号。出典は、『伝記』(南光社)昭和11年4月号~9月号連載の「伝記研究家一覧」)。
杉野正甫 明治34年生(人事興信録データベースの8版(昭和3年7月))
中川泰蔵 明治3年生、昭和39年没(ネット上の「近代日本版画家名覧(1900-1945)」)
和田顕太郎 明治36年生(『出版文化人名辞典』1巻)

 このほか、中村は沢田卓爾を「1894-1956」としているが、生年については「英文学者澤田卓爾の経歴 - 神保町系オタオタ日記」、没年については「澤田卓爾の没年 - 神保町系オタオタ日記」を参照されたい。以上、若干の補足を書いてみた。荷風に関心のある皆様に届きますように。
 解明できなかったのは、

板倉勝麿 生没年未詳
鹿塩光貞 生没年未詳
川島益太郎 生没年未詳
木村嘉次 1900-?
酒井大助 生没年未詳
佐藤績 生没年未詳
田中秀吉 生没年未詳
中村孤村 生没年未詳
西村誠三郎 生没年未詳
練木準 1906?-1983
林保広 生没年未詳
平山清郎 生没年未詳
宮田新八郎 1904?-1970
宮田直太郎 生没年未詳
藪内清三 生没年未詳
湯浅光雄 1903?-1989

 このうち出版・新聞関係者は、鹿塩、木村、酒井、佐藤、田中、林、平山、宮田(新)である。
 ちょうど、トム・リバーフィールド「出版人の饅頭本(第2回)」*1が載った『二級河川』(金腐川宴游会、令和3年5月)が届いた。ありがとうございます。坂本金太郎(冨山房創業者坂本嘉次馬の長男)、斎藤雄吉(日栄社創業者)、桜井均(桜井書店創業者)、磯貝憲佑(煥乎堂代表取締役専務)、関戸恵美子(岩波書店編集者)、宮内久男(岩波書店編集者)、大西和男(社会思想社詩学社編集者)、能登恵美子(皓星社編集者)などの饅頭本の紹介である。リバーフィールド氏は、「約10年前に国立国会図書館/東京都立中央図書館/神奈川県立川崎図書館などに通って出版人の饅頭本を“総ざらい”して、そのほとんどに目を通した経験を持つ」という。私が解明できなかった出版人の饅頭本を発見してくれるかもしれない。

*1:貰ってないのか、第1回掲載の14号が見当たらない。

白川書院の臼井喜之介宛中村直勝の『中村直勝日本史』に関する書簡

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 3年前に文庫櫂から白川書院の臼井喜之介宛中村直勝書簡を購入。1通500円。「臼井書房の臼井喜之介と野薔薇詩社の稗田菫平 - 神保町系オタオタ日記」等で紹介した富山の詩人稗田菫平宛書簡群の中になぜか紛れていた。4通あって、内容は
・昭和38年2月10日付け 『京の仏さん』の型を四六版にしてほしいことや中村直勝日本史の連載について
・昭和41年11月8日付け 12月号の原稿で日本史第3冊は打ち切り、続く中世の部の原稿について
・昭和42年2月20日付け 日本史第4冊の原稿と第3冊の加筆について
・昭和44年4月2日付け 手紙と金1万円送付への礼
 『京の仏さん』は昭和38年5月白川書院から刊行された『京の仏たち』と思われる。『中村直勝日本史』は、第1冊が40年1月、第2冊が同年11月、第3冊が42年10月、第4冊が46年7月刊行。『中村直勝著作集』12巻(淡交社、昭和54年1月)の「中村直勝著書及論文目録」では連載の確認ができないが、文面から白川書院の雑誌『東京と京都』(44年6月から『京都』に改題)に連載されたのだろう。前2者の便箋には「雙柏園用箋」*1と後2者には「禾カ(?)軒箋」「小足軒箋」と印刷されている。
 全集12巻の座談会で、林屋辰三郎は「先生は、非常に丹念な日記をつけている」と発言している。この日記は、今どうなっているのだろうか。

*1:国文学研究資料館の蔵書印データベースに中村の「蔵書印DB双柏文庫

柳田國男が貴族院書記官長を辞めた本当の理由?

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 財界人の日記は、作家や学者等の日記に比べて面白くない。渋沢栄一*1小林一三*2の日記でも面白い記述は、極一部である。そのため、『平生釟三郎日記』(甲南学園)は手付かずであった。しかし、人名索引を読んでみたら絶句するような名前が幾つか出てくる。今井ツンドク(今井貫一)、岡田虎二郎、田中守平辻潤西田天香、波多野春房、福来友吉など。もちろん本文を見てどういう文脈で出てくるのか確認する必要があるものの、普通の日記には出てこない人名である。
 今回紹介するのは、同日記3巻(平成23年6月)の柳田國男と推定される「樺田國男」に関する記述である。

(大正八年)
七月九日 (略)
 本日末永一三氏来訪シ、憂国的対話ヲ交換ス。氏ノ言二、本年ノ収穫時二至ル迄在米ガ果シテ需要ヲ満タス否ヤハ甚ダ掛念サルヽトコロニシテ、政府ハラングーン二残留セル米ノ量ガ約百五拾万屯ニ及ベバ必ズ自然ノ成行二任スモ日本二輸入サルヽナラント楽観シツヽアリシニ、英国ハ残留米ノ潤沢ナルニモ拘ラズ解禁ヲ為スノ模様ナキヲ以テ、我外務当局ハ英国政府二向ツテ其一部ノ解禁ヲ求メタルモ承諾ノ色ナク、政府ハ今ヤ策ノ出ヅルトコロナキノ現況ニシテ山本農相独リ懊悩シツヽアルモ、妥協主義ノ原首相ハ楽観論者タル大蔵大臣、中橋文相等ノ楽観説ヲ聞キテ悲観説二耳ヲ傾ケザルガ如ク、末永氏ハ幣原氏二会見シテラングーン米輸入二関シテ其説ヲ聞キタルモ、最早英国二向ツテ外交的手段ヲ以テ之ヲ要求スルノ道ナキモノノ如シト。若シ如此クシテ何等積極的ノ策ヲ用ヒズシテ九月二至ランカ、加之天候ノ不良等収穫二関シテ少シニテモ懸念ヲ抱カシムルノ兆候アランカ、昨年二於ル米騒動ヲ再演セシメザルヲ保セズ。樺田國男氏ノ如キハ、現政府ノ如キ不徹底的ナル政策ヲ以テコノ難局二処セントシテ恬然タル政府二在ルハ潔シトセザルトコロナレバ、桂冠以テ自ラ清クセント語リツヽアリト。(略)

 「樺田」は原文のママである。日記補巻の人名索引はこれを「樺田國男341.→柳田國男」としている。確かにこれは柳田の可能性はある。柳田と末永には面識があった。「大正七年日記」に記載がある。

(大正七年)
十月十四日(月) (略)
△「日華」といふ支那料理にて支那関係のクラブを作る相談、小村俊三郎水野五百木末永の諸君、耳あたらしい議論を多くきく、末永君これから神戸へ行き莫大の金をこしらへてくるといふうまい話なり
(略)
十一月二十二日(金)
(略)
△四時過より華族会館に昨日の寄合のつゞき末永五百木水野の三氏も来る 一同意見よく一致す、
(略)
十二月二十三日(月)
(略)
末永一三君鹿田銀次郎君を伴ひ来る

 岡谷公二貴族院書記官長柳田国男』(筑摩書房、昭和60年7月)によると、日華クラブは大正8年1月7日発会で、会長は近衞文麿、発起人は五百木良三、水野梅暁、白岩龍平、小村俊三郎、小村欣一、末永一三、上西某、柳田の8人であった。また、柳田は明治33年7月から35年2月まで農商務省に勤めていた。これらのことから、「樺田」は「柳田」の誤記である可能性は高い。しかし、同定する決め手はない。日記の編集委員会は何を根拠に柳田としたのだろうか。
 柳田に詳しい人は、貴族院書記官長だった柳田がこの年12月に辞職することを知っているだろう。政府の農政への不満ではなく、貴族院議長の徳川家達との確執であったという。岡谷著以降、倉富勇三郎日記や河井弥八日記を使った研究が進んだところである。平生釟三郎日記に思わぬ記述があるとは、誰か気付いただろうか。

新村出・成瀬無極の脚本朗読会カメレオンの会と小林参三郎・信子夫妻ーーそして谷村文庫の谷村一太郎もまたーー

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 『秋田雨雀日記』1巻(未来社、昭和40年3月)に新村出の脚本朗読会カメレオンの会と野淵昶のエラン・ヴィタール小劇場が出てくる。

(大正九年)
 五月十六日★
 午後一時三十分の汽車で神戸を出発、京都へきた。四時前についた。林久男君がきていた。三人で、谷村という人の家を訪う。「仏陀と幼児の死」を買いそろえていた。新村博士および夫人はじつに感じのいい人だ。「土の子供」(園池、西、新村夫人、関嬢、折口教授、成瀬教授)「二十一房」(有島、殺人)故買(原)、新聞記者(野村)、教師(関)、重役(ぼく)看視(新村博士)、その他チエホフの「犬」を林君、野村君、新村夫人がやった。非常に感銘の深い会であった。
 (京都へきた。脚本朗読会へ出席。)
★編者註 この京都旅行は「カメレオンの会」のためのものであった。

 十月二十一日
 (略)すぐその足で公会堂へいった。野淵君がいっしょうけんめいに働いていた。野淵君の態度に感激した。「検察官」と「三つの魂」とをやった。(略)西田氏の家に世話になることにした。夫人は小川澄子というエランヴィタール社の人だ。いつか、赤帽の会であった人。
 (略)

 十月二十二日
 (略)十二時ごろに、西田夫人と丸山公園の朗読会に出席の目的で、成瀬君の家を訪うた。三人であけぼのへゆく。(略)新村博士夫人と小林夫人なぞがきた。「ノラ」と「国境の夜」を朗読した。万養軒で、林、板倉、西田、園池の諸君と会食した。六時から、公会堂で「三つの魂」、「検察官」をやった。(略)

 秋田の年譜によれば、大正9年5月16日演劇朗読会「カメリ[ママ]オンの会」に有島武郎と2人で臨み、「土の子供」「二十一房」(秋田)と「犬」(チェホフ)を朗読。有島は「二十一房」の殺人犯の役を、新村は看守の役を務めた。
 「西田」と「折口教授」が出てくると、天王寺中学同窓で親しかった西田直二郎折口信夫が浮かぶが、無関係だろう。西田の妻は、大西祝の長女道子である。折口信夫は、当時まだ國學院大學の臨時代理講師でこの年の9月に講師(専任)になっている。また、エラン・ヴィタール小劇場は大正8年11月一燈園の後援で「出家とその弟子」を公演しているが、「西田」は西田天香でもないだろう*1
 『美意延年:新村出追悼文集』(新村出遺著刊行会、昭和56年7月)を見たら、秋田が苗字しか書いていないカメレオンの会のメンバーが分かった。阪倉篤太郎「重山先生の追憶」によると、

(略)思ひ出の深いのは、故成瀬無極の発企にかかるカメレオン会と称する脚本朗読の集まりのことで、先生御夫妻をはじめ、福田夫人・小林夫人・林久男・奥田賢・野村梅吉・武田鉄五郎・園池公功・森安正等の諸氏を同人とし、わたくしもこれに加はつて、毎月一回日を定めて小林ドクトルのお宅で開かれた。(略)昭和十五年頃まで継続された(略)

 これで、「園池」は園池公功、「成瀬」は成瀬無極(本名・清)、「板倉」はおそらく「阪倉」の誤植と分かる。また、メンバーに第三高等学校の教授・講師が多い*2ので、「折口」は正しくは折竹錫教授(仏語)かと推測できる。秋田の日記は、誤植(又は誤刻)が多いので要注意である。
 そして、京都で小林ドクトルとか小林夫人とか言ったら、あの人ですね。済世会病院長小林参三郎と夫の死後静坐社を興す小林信子夫人である。前記追悼文集の小林信子「思い出」に次のようにある。

(略)大正十年ころに阪倉篤太郎先生と成瀬無極先生が二ノ宮町の家へご来訪にて、こんど脚本朗読会をはじめたいと思うということにてお話はすぐまとまり、大学、三高の先生方、実業家とご婦人達は新村とよ子夫人、福田信子夫人、関口くのさん、小林信子のメンバーで、カメレオン朗読会と名のって(略)ご常連の御客様の筆頭は神戸正雄博士ご夫妻でした。いつの会でしたか新村先生がご出席、お役はたしか法然上人か日蓮上人でした。(略)
 昭和二年、静坐社が創立され、私は静坐誌の編輯のご用をいただき、創立委員の先生方はじめ新村先生は時々、成瀬先生は毎号、文芸座談に御執筆いただき(略)

 拙ブログで言及する人は、みんな繋がってきますね。いや、もう一人いる。家を提供した「谷村」である。これは、「谷村文庫の谷村一太郎は本当に東京専門学校卒か - 神保町系オタオタ日記」で言及した谷村一太郎だろう。谷村の長男順蔵と新村の長女幸子が大正13年9月に結婚するほど、2人は親しかった。また、谷村は京都市上京区に住み、藤本ビルブローカー銀行取締役(のち会長)等を務める実業家であった。信子が「実業家」を挙げたのは、谷村のことだろう。残された未解明のメンバーは、新村の日記を見れば解明できるかもしれない。
 エラン・ヴィタール小劇場についても、まとめておこう。松本克平『日本新劇史:新劇貧乏物語』(筑摩書房、昭和41年11月)によれば、大正7年に創設され、途中で生命座(大正10年)、美術座(12年)、京都芸術座(13年)と三度改称後、昭和2年に再びエラン・ヴィタール小劇場に戻り、昭和13年まで存続した。同志社大学神学部の野淵昶*3大島豊や英文科卒の行方薫雄(ステージでは、行方薫)らが創設した。劇団名は、ベルグソン『創造的進化』の中の「エラン・ヴィタール」(生命の躍動)から取った*4。文字通り大正生命主義の時代の申し子である。
 大正7年11月大丸呉服店楼上で開催された公開試演は、相談役に新村、成瀬、有島を、顧問に秋田、長田秀雄を迎えた。背景製作は船川未乾、中堀愛作。稽古は、行方が止宿していた椹町堀川東入佐野篤*5方を事務所にして、2階で稽古を行った。1階がカフェーだったかどうか*6
追記:ネットで読める「新村出宛書簡発信者一覧」に「カメレオン」がある。

*1:宮田昌明『西田天香:この心この身このくらし』(ミネルヴァ書房、平成20年4月)によると、天香は大正2年4月最初の妻西田のぶと離婚し、10年9月に奥田勝と入籍。

*2:成瀬は元教授(独語)、阪倉は教授(国語)、林は教授(独語)、奥田は教授(数学)、野村は講師(独語)。

*3:松本著によると、野淵は堺の医師の息子で神学部に在籍しながら谷崎潤一郎張りの唯美主義的な肉感的描写の小説を校内誌に発表したため、無期停学となった。憤慨した野淵は、退学届を叩きつけて京都帝国大学英文科選科に転じたという。『京都帝国大学一覧』等を見ると、大正5年選科入学、8年卒である。

*4:ベルグソンの思想を彼らに啓蒙したのは、同志社大学講師(のち教授)の園頼三であった。

*5:佐野は、京都の素人芝居の通人で南座で松王丸をやったこともあり、自分も学生に混じり出演したという。

*6:中原中也が通った京都のカフェーとエラン・ヴィタール小劇場 - 神保町系オタオタ日記」参照

南洋旅行中の児童文学者久保喬から長谷川鉱平宛パラオの絵葉書

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 川村湊編『中島敦 父から子への南洋だより』(集英社、平成14年11月)の「解説 トンちゃん、南の島をゆく」は、サイパン公学校の教育に対する視点について、中島と『南洋旅行』(金の星社昭和16年12月)の久保喬(本名・隆一郎)を比較している。公学校は、島民(現地人)の子供に対する教育機関である。サイパン公学校について、中島は島民の子を人間の子として扱っているとは思えないと書いている。一方、久保は同校校長小山田庄平の教育方針に、格別の違和感も、反発も持っていなかったとする。
 この児童文学者久保が長谷川鉱平に宛てた絵葉書については、「長谷川鉱平宛久保隆一郎(久保喬の本名)葉書 - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがある。実は、久保が南洋旅行中にサイパンパラオから長谷川に宛てた絵葉書も持っている。1枚は、昭和16年2月12日付けで、サイパンから出されている。文面は、10日にサイパンに着いたこと、前日小学校の紀元節の式を見学に行ったこと、翌日は公学校の学芸会を見に行くことなどが書かれている。
 もう1枚は、同年3月5日付けで、パラオコロール島から出されている。文面は、前日パラオへ着いたこと、途中ヤップに寄って石の貨幣を見たこと、金寿司へ早速行ったことなどが書かれている。金寿司は、坂野徹『〈島〉の科学者:パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』(勁草書房、令和元年6月)にも開戦前日パラオ放送局から「パラオ熱帯生物研究所を語る」を放送した*1研究員達が局の招待を受けた寿司屋として登場している。有名な店だったようだ。しかし、我ながら色々持ってるなあ。
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*1:昭和16年11月9日付け中島たか(妻)宛中島敦書簡によれば、受信器は10ぐらいで、南洋長官や内務部長のような人の家にしかなかったという。

中原中也が通った京都のカフェーとエラン・ヴィタール小劇場

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 木股知史先生の「瞬間と全体ーー晶子・啄木と生命主義的発想ーー」が載った『国文学解釈と鑑賞』別冊の『「生命」で読む20世紀日本文芸』(至文堂、平成8年2月)に、鼎談「日本の近・現代文学と生命観」も掲載されている。出席者は、平岡敏夫(城西国際大学)・吉田凞生(群馬県立女子大学)・鈴木貞美(国際日本文化研究センター)である。この中に吉田の気になる発言がある。

吉田 そう言えば大正十二年に京都に「エラン・ヴィタール」という小劇団がありました。中原中也が通ったカフェーの二階を稽古場にしていました。(略)

 別件で京都にあったエラン・ヴィタール小劇場を調べているので驚いた。ただし、この内容が確認できない。カフェーのことならこの本ということで、林哲夫『喫茶店の時代:あのとき こんな店があった』(ちくま文庫、令和2年4月)299頁*1を見ると、「大正十二年(一九二三)末頃、長谷川泰子中原中也の朗読を褒めたのは河原町通りの喫茶店だった」とある*2。このカフェーの可能性があるが、店名やエラン・ヴィタール小劇場との関係は分からない。
 長谷川泰子述・村上護編『ゆきてかへらぬ:中原中也との愛』(講談社、昭和49年10月)にエラン・ヴィタール小劇場は出てこない。しかし、泰子が中也に初めて会ったのは大正12年末、京都の表現座という劇団の稽古場だったという。泰子は劇団員で「有島武郎、死とその前後」という芝居の台本を読んでいて、そこに中也が現れた。

 表現座というのは、京大の教授だった成瀬無極が主宰した新劇でした。おそらく成瀬主宰は名ばかりで、会ったことはありません。座の中心は倉田啓明さんだったようで、彼が住んでいた家が表現座の稽古場でした。私もそこに住み込んで、お芝居の練習していました。
 表現座の稽古場というのは、二階屋の一階で、昔はみなそうだったけど、表に源氏格子があって薄暗いんです。一部土間になっており、稽古場に使っていたところはあまり広くなかったと思います。
 二階は全部畳の間で、往来に面して部屋があり、それから奥にわりに広い感じの部屋がふた部屋ほどありました。そこにわれわれが寝泊まりしておりました。

 吉田は、表現座とエラン・ヴィタール小劇場を混同した可能性はある。成瀬は、新村出と共にエラン・ヴィタール小劇場の後援者でもあったのである。ただし、表現座の稽古場の建物は1階も2階もカフェーではなかったようだ。
 中也が通ったと思われるカフェーとしては、カフェー・フクヤがある。大岡昇平富永太郎:書簡を通して見た生涯と作品』(中央公論社、昭和49年9月)によると、大正13年9月1日に中也、富永太郎、冨倉徳次郎、正岡忠三郎で出町のカフェー・フクヤにおいて飲んだと正岡の日記にあるらしい。カフェー・フクヤは、林著や斎藤光『幻の「カフェー」時代:夜の京都のモダニズム』(淡交社、令和2年9月)にも出てこない。京都のカフェーには、まだまだ分からないことが多い。
 

*1:「人名索引」では、290頁になっている。

*2:出典は、大岡昇平富永太郎中原中也』(レグルス文庫,昭和50年12月)