神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

昭和16年11月8日付け田中緑紅宛佐藤忠太郎の葉書ーー宮城県白石市の紙衣研究家佐藤忠太郎ーー

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 田中緑紅宛の年賀状は比較的入手しやすく、今でも寸葉さんのところに何枚も残っていると思う。今回は緑紅宛でも、年賀状でないものを紹介。昭和16年11月8日付けで宮城県白石町の佐藤忠太郎からである。先般の列席・種々の世話への礼で、20日夜「あの品々全部大□様の台覧を賜はり感激」し、「今後共東□の工芸の為め御援助賜はり度く」云々とあるようだ。同年10月何かの展覧会があって、緑紅が協力したのだろうか。
 佐藤は、おそらく週刊時事編集部編『この人・その事業』第8(時事通信社、昭和43年7月)の「白石市佐藤忠太郎氏 白石紙布つくり」で紹介された人物と思われる。これによると、明治34年白石市呉服商の家に生まれた。中学卒業後、家業の手伝いの傍ら郷土史を研究。古文書の中に天保飢饉の際に先祖が製紙業者の肝入りをしたとの記録があった。以後、県内はもとより、奈良や京都にまで足を伸ばして、和紙や紙子の研究に身を入れるようになったのが、24歳の頃だという。また、グーグルブックスで検索すると、『白石市史』がヒットし、昭和43年没と分かる。
 佐藤は、フランク・ホーレーとも交流があった。横山學『書物に魅せられた英国人:フランク・ホーレーと日本文化』(吉川弘文館、平成15年10月)によれば、

 自分の著書には最高品質の手漉和紙を使用したいと願っていたホーレーは、東京の装丁専門家池上幸二郎を通じて、宮城県白石の佐藤忠太郎と遠藤忠雄に紹介された。(略)佐藤は、片倉信光・遠藤忠雄・菅野新一らと共に、「奥州白石郷土工芸研究所」を昭和十五年十月十四日に設立し、白石に伝わる紙布織の製法の復元を目指す一方、農林省の指示で全日本の楮調査を行なった。戦後には、「白石紙子」の復活と普及を目指して各地を調査しながら「国土緑化楮増産」の講演・講習を行なっている。(略)

 佐藤は、昭和31年ホーレーに寿岳文章『紙漉旅日記』同様に白石の紙布を使用してはどうかと提案しているので、寿岳とも関係しているかもしれない。
参考:「昭和2年復刊が予定されていた田中緑紅の『郷土趣味』(郷土趣味社) - 神保町系オタオタ日記

城市郎の唯一の盟友にして稀有の発禁本コレクター藤本済造ーー『水の都の古本展目録』に出現した発禁詩集、児玉花外『社会主義詩集』の写本ーー

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 比叡平への移転へ向けて作業中の書砦・梁山泊京都店で、『季刊「銀花」』7号(文化出版局、昭和46年9月)をゲット。300円。「永田耕衣の句と書と絵」特集だが、それで買ったのではなく、「城市郎旧蔵の『発禁書と言論・出版の自由』(大阪人権歴史資料館) - 神保町系オタオタ日記」で言及した藤本済造と思われる人の投書が載っているので購入。「読者三十言集」に掲載されたもので、挟み込みの「愛読者カード」に書いて送ったもののようだ。問題の投書は、大阪市藤本済造(39歳)によるもので、「書狂にとっても嬉しく楽しくなる雑誌である」とあった。発禁本コレクターだった藤本だろう。
 城市郎が藤本に贈った『悪書のすすめ』(山王書房、昭和43年5月)が手元にある。ここには、「わが唯一の盟友」と書かれている。城は蔵書をネタに発禁本に関する著作を多数残し、蔵書の一部を明治大学に寄贈し、『明治大学図書館所蔵城市郎文庫目録』(明治大学図書館、平成29年3月)が刊行されている。一方、盟友の藤本には著作は見当たらない。ただ、実は藤本は某古書店の御尊父で、蔵書目録は残っていると聞いている。いつか見せてもらいたいものである。ところで、梁山泊で『季刊「銀花」』を買った時に「藤本済造が書いているので、買いました」と言うと、店主の島元さんから驚く話があった。島元さんが岡山から大阪のかっぱ横丁に移転した時に、藤本は浪速書林で働いていたので知っていますよとのことであった。藤本が古書目録「発禁本とその周辺探索」を刊行したこともある浪速書林で働いていたとは、知らなかった。
 中止になってしまった『水の都の古本展』の目録が届いた。モズブックスが発禁詩集である児玉花外『社会主義詩集』(金尾文淵堂、明治36年8月)の写本を出品していた。250万円。金尾文淵堂の店主金尾種次郎が発禁直後に筆写したものと推定されている。さすがの城や藤本も『社会主義詩集』の原本や写本は持っていなかっただろう。金尾の遺族からか、知られざるコレクターから出たのか不明だが、世の中には藤本のようにまだまだ知られていない恐るべきコレクターがいるだろう。モズブックスの解説によれば、今回の写本は、岡野他家夫が昭和24年日本評論社から刊行した復刻版と「字句の異同はかなりの数にのぼる」という。「もっとも原形に近い姿をとどめている写本であろう」ともある。研究機関に納まればいいが、うかうかしてたら在野の蒐集家の手に渡るかもしれない。
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昭和2年復刊が予定されていた田中緑紅の『郷土趣味』(郷土趣味社)

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 久し振りに寸葉会をのぞいてきた。何枚か良さげな絵葉書を入手。今回は、田中緑紅関係の絵葉書は入手しなかった。しかし、この際未紹介の緑紅の絵葉書を公開しておこう。昭和2年の年賀状で、宝塚の村松常房宛。800円。
 文面は、『小絵馬集』や『人魚の家』と「久しく休んでいた『郷土趣味』も発行」するというものである。『小絵馬集』は、実際昭和2年7月に第1集が発行された。『人魚の家』は大正15年9月創刊なので、2号か3号だろうか。少なくとも3号(昭和2年4月)まで発行されている(追記:『人魚の家』2号は大正15年12月発行なので、3号の発行を指していたことになる)。『郷土趣味』は、大正7年1月創刊で14年4月56号で休刊となったが、再開する予定があったことになる。だが、結局復刊はされていない。「緑紅叢書の田中緑紅が遺した約70冊の日記 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した京都新聞報道の緑紅の日記に、このあたりの経緯が書かれているだろうか。
参考:「キクオ書店で田中俊次編『思ひで』(来蘇館、昭和5年5月) - 神保町系オタオタ日記」「郷土玩具収集家としての宮脇楳僊こと宮脇賣扇庵4代目宮脇新兵衛 - 神保町系オタオタ日記」「今、田中緑紅が熱い⁉ 『信仰と迷信』創刊号(郷土趣味社、大正15年)と『ちどり』4号(ちどりや、同年) - 神保町系オタオタ日記

賀川豊彦の同窓岡本利吉による神都教学館ーー愛鷹山から横浜の純真学園を経て宇治山田へーー

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 平安蚤の市で@pieinthesky氏(「パイ・イン・ザ・スカイ」と読む)から、『神都教学館と皇民道場』を入手。奥付はないが、神都教学館から昭和18年*1に発行されたと思われる。所蔵する図書館は、皆無か。神都教学館は、財団法人純真学園創立者である岡本利吉が昭和14年三重県宇治山田市に創設した学校である。岡本は、知らない人物であった。一応、Wikipediaにも立項されている。
 『日本アナキズム運動人名事典』から岡本の経歴を要約すると、明治18年高知市生まれ、別名普意識。企業立憲協会(大正8年)、有限責任購買組合共働社(10年12月)、有限責任信用組合労働金庫(11年3月)、連合機関消費組合連盟(同年5月)の創設を経て、昭和2年裾野市に農村青年共働学校を設立。9年現横浜市に移転し、美愛郷共働農場と純真学園を開設するが、12年閉鎖。軍の協力のもと宇治山田市に神都教学館を設立し、占領地の現地工作に当たる指導者を養成。戦後、民生館と改称。33年には世界語ボアー・ボム語を完成、38年没。
 社会運動家としては、賀川豊彦と類似した活動を行っている。それだけではなく、角石寿一『先駆者普意識:岡本利吉の生涯』(民生館、昭和52年7月)の唐沢憲一郎「岡本先生に関する断章」によると、岡本は、賀川や新居格と徳島中学で同じ頃学んだ学友だったという。しかし、共通点は多いが、岡本の方は賀川と違ってすっかり忘れられた存在だろう。
 神都教学館は、関西急行鉄道終点の宇治山田駅から徒歩10分。5万坪の敷地に建坪6百、3階建て、別館に建坪530の皇民道場もあった。原武史『「線」の思考:鉄道と宗教と天皇と』(新潮社、令和2年10月)の世界ですね。
 経営主体の純真学園の役員名簿を挙げておく。
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 確かに「軍の協力」があったようで、教学館館長や参与に軍人が就任している。後援世話人の一人片岡安とは親しかったらしい。理事長大蔵公望の日記は刊行されていて、「戦時下の心霊実験と小田秀人 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介したところである。日記の中に岡本が出てきたはずだが、記憶にはない。その他、前記岡本の伝記には、関係者として注目すべき人物が色々出てくるので紹介しておこう。
昭和2年7月4日駿河台カフエー・ブラジルで開かれた農村青年共働学校創立相談会の出席者は、下中弥三郎、新居、岡本など。愛鷹山の中腹に開設された学校の講師に、土田杏村、村松正俊、権藤成卿木村毅奥むめおなど。
・岡本に「貴方の教学は、日本の古神道の精神と一致する」と推奨したのは、室井常盤。室井は南会津の田出宇賀神社の社司で、国学院大学の田中義能により神道を専攻し、長く台湾神社に奉仕した神官だという。
・横浜本牧に大黒灸の看板を掲げ、観相学による相談にも応じる大田脩方は、彫刻の余技を持ち、岡本が昭和12年創設した天祖神道奉体会のために御神板を彫った。
・神都教学館の講師に安岡正篤(儒教一般)、桜沢如一(食養法)の名がある。ここで、桜沢と出会うとは、思わなかった。
 岡本は、戦後「極端な国家主義を鼓吹」として公職追放。下中*2や桜沢*3など関係者の多くも、該当事項は様々だが、公職追放となっている。しかし、世界語ボアー・ボムの発表会の発起人代表は下中で、大蔵も発起人の一人なので戦前の人脈は戦後も続いていたことになる。
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*1:純真学園の機関誌『人間完成』(昭和10年5月創刊)は14年8月号で終刊。神都教学館から『神道教学』が創刊され、その後昭和18年1月号から『皇民の友』に改題するも、同年12月号で廃刊。同誌の広告が『神都教学館と皇民道場』の裏表紙に出ている。また、皇民道場の落成が同年6月である。

*2:オカルティストとしての下中彌三郎 - 神保町系オタオタ日記」参照

*3:情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎 - 神保町系オタオタ日記」参照

東京から程良い距離の市川と本山桂川ーー本山桂川の『史談と民俗』(日本民俗研究会)ーー

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 和歌山県田辺市南方熊楠顕彰館で「第58回月例展 熊楠とゆかりの人びと 第40回「本山桂川」 – 南方熊楠顕彰館(南方熊楠邸)– Minakata Kumagusu Archives」開催中。日帰りで行けないこともないが、ちょっと遠いかなあ。桂川昭和9年10月に創刊した『史談と民俗』は、第2冊,同年11月だけ持っている。値札や値段の表記がない。南部古書会館の2階で月の輪書林が民俗雑誌を放出した時に値段が付いてなくてその場で値付けしてもらったことがあるので、その時か。数百円だったと思う。目次と奥付を挙げておく。発行所は千葉県市川市の日本民俗研究会、編集・発行兼印刷人は本山豊治(桂川の本名)である。
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 「閑談」は、会員の投書欄で、「東洋民俗博物館の九十九豊勝と足立史談会の福島憲太郎 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した福島憲太郎(氏子の禁忌)のほか、竹重虚心(エゴといふ言葉)、桜田勝徳(ミトのアンバ)、尾崎清次(動物心理)の名が見える。福島は、東京千住河原町の鎮守稲荷神社の氏子に、「幼児に麻の葉の模様ある[ものを]着せてはならぬ」などという禁忌があるが、他の地域にもあれば一報をと呼びかけている。
 市川と文化人というと、私には永井荷風しか浮かんでこない。しかし、「市川の文化人 | 市川市公式Webサイト」によると、井上ひさしなど多数存在している。東京から適度に離れているところが良いのだろうか。最近では、星海社の元編集者平林緑萌氏が市川市志学社を興している。
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玉城文庫で買った松旭斎天勝の南座公演のチラシーー「見世物興行年表」で昭和8年3月と確認ーー

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 下鴨神社知恩寺の古本まつりで玉城文庫の3冊500円から買ったチラシが出てきた。松旭斎天勝が京都の南座で公演した時のチラシである。19日から29日までの11日間開催されたことは分かるが、年月が不明である。河合勝・長野栄俊・森下洋平『近代日本奇術文化史』(東京堂出版、令和2年10月)を見ると、590頁に昭和7年6月足利座で開催された天勝一座のチラシが載っていて、天勝の写真が類似しているので、南座のも昭和初期の開催と推測できた。後は、『近代歌舞伎年表』京都篇に当たるかと思った。
 ところが、「見世物興行年表」(蹉跎庵主人)の存在を思い出し、検索すると「見世物興行年表:松旭斎天勝興行年表 昭和8年(1933年)1月~6月」がヒット。昭和8年3月開催と判明。当時の新聞記事も転載されていて、非常にありがたい。皆様も、しょうも無いTwitterとかYouTubeとかやってないで、こういう役に立つことに時間を使いましょう。「見世物興行年表」は今年で開設10年ということで、ブログを始めた経緯が載っている。是非、お読みいただきたい。凄い人がいるものだ→「見世物興行年表:更新履歴(令和3年)

東亜連盟期の石原莞爾と霊術家石川清浦ーークリントン・ゴダール「日蓮主義と日本主義との衝突」『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館)を読んでーー

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 『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館)中のクリントンゴダール日蓮主義と日本主義との衝突ーー日中戦争期における東亜連盟運動ーー」を読んでみた。石原莞爾について、「石原という人物のネットワークと、その昭和初期における思想的研究はあまりなされていない」という。そういえば、私も
大川周明明治36年前後の催眠術ブーム(その3) - 神保町系オタオタ日記
北一輝『生長の家』を購読する北一輝 - 神保町系オタオタ日記
満川亀太郎柳田國男と満川亀太郎 - 神保町系オタオタ日記
・真崎甚三郎「蓑田胸喜『原理日本』への陸軍の関与 - 神保町系オタオタ日記
・宇都宮太郎「柳田國男もお仕事、お仕事 - 神保町系オタオタ日記
といった国家主義者や軍人の日記はわりと読んだが、石原の日記は読んだ覚えがない。そこで、ゴダール氏が挙げている野村乙二朗編『東亜聯盟期の石原莞爾資料』(同成社、平成19年3月)や玉井礼一郎編『石原莞爾選集』(たまいらぼ、昭和61年11月)を読んでみた。日記には、神田孝一など注目すべき人物が登場していた。しかし、今回は書簡に出てきた霊術家を紹介しておこう。昭和17年12月26日付け石原宛高木清寿*1書簡である。

合掌、今般(十二月廿一日)東亜聯盟雑誌用紙の配給が従来の半分に減らされました。
(略)
(二) 金井一郎君は二十三日迄、石川先生のところで治療を受けて帰国しましたが、相当神経質になってゐます。万難を排して健康確立のために、再度、石川先生のところへ来る様に申上ました。石川先生のお話では「十二月だけの治療で大体霊動をやれるまでに成れる。霊動をやりたかったら 又 一月に出て来る事がよろしい」と云ふ事でした。
(略)
(七) 石川先生に富山の森丘氏宅の霊動講習会に御出願ひました。石川先生の説教をうかがひましたが、大したものでした。先生の修行のはげしかった事等もうかがひました。今度から小生を「霊動の講習会の指導が出来るまでにして下さる」と申されましたので、去る十一月から必至で霊動をはげんでゐます。目下 朝夕 気合の修行をしてゐますが、明年の寒稽古には石川先生のところで修行させていただく事にしてゐます。(略)
(八) 樋口義重君は石川先生から「万難を排して霊動をやる様にすすめます。然らざれば、余命いくばくもあるまい」云はれましたので、今度は真剣になってはじめ、毎日やってゐるとの事です。(略)

 「石川先生」の霊動が、大繁盛だったようだ。この石川先生、野村編の「人名索引」によると、石川清浦である。石川清浦であれば、ヨコジュンさんの『明治バンカラ快人伝』(ちくま文庫、平成8年2月)に登場する自転車世界無銭旅行者で霊動法の開祖となった中村春吉の弟子である。また、中村の冒険談を小説にした『完全版幻綺行』(竹書房文庫)は、日下三蔵編で昨年6月に刊行されたばかりだ。ヨコジュンさんの前掲書によると、石川の米寿記念に刊行された『霊動の道』(霊動会、昭和43年6月)に、中村が大正14年四谷に「中村霊動治療所」を開き、翌年石川が門人となったことが書かれているようだ。ググったら、シンクロニシティ(?)で『霊動の道』がヤフオクに出ていた……1,000部発行されているので、いつか均一台で出会えるか*2
 戦時下の霊術家で石川というと、「戦時下の霊術家 - 神保町系オタオタ日記」で言及した森田草平の日記に登場する霊術家がいて、これも石川清浦だったかもしれない。こちらの方は、既に横山さんに御教示いただいたような気がする。
 石原は、戦後正規陸軍将校(中将)及び一般該当事項として「東亜聯盟顧問」により、公職追放となり、昭和24年8月15日60歳で没。一方の石川は、米寿記念に本を出してもらえるほど繁盛(?)したようだ。
 

*1:野村氏の解題によると、高木清寿(1903-1996)は、早稲田を出て報知新聞に入り、仙台記者時代に名連隊長としての石原を知り、爾来、石原に傾倒して国防研究会を創った。石原の参謀本部時代に誘われて満州国協和会東京事務所指導部長となる。

*2:昭和女子大学図書館と東大の奈良毅文庫が所蔵