神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

三密堂書店で槙村正直『私用文』(書籍会社、明治7年)を発見ーー「夢見る京都集書院」の世界ーー

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 三密堂書店で槙村正直『私用文』(書籍会社、明治7年4月)を購入。昨年から店内にあった。しかし、表紙の「槙村正直 私用文初編」だけを見て、京都府知事を務めた槙村個人の著作ではなく、京都府が作成した教科書で名義だけ槙村にしたのだろう、教科書なら幾つかの図書館に残っているだろうと思ってしまい、買わなかった。
 その後、まだ残っていたのでよく見たら、京都集書院ゆかりの書籍会社(大黒屋太郎右衛門)の発行で、珍しそうな「書籍会社」印も押されているので、慌てて購入。35丁、200円。併せて、内容は同じだが羽仁謙吉版(明治9年1月)もあったので、購入。国会図書館サーチによると、羽仁版の第2編(明治10年8月)だけ横浜国立大学附属図書館が所蔵している。意外と珍しいもののようだ。『京都出版史第一次資料(明治元年~昭和20年)』(日本書籍出版協会京都支部、昭和56年12月)には、明治7年大黒屋太郎右衛門発行の「初篇」のみ記載されていた。
 無き駸々堂で買ったことを覚えている多田建次『京都集書院福沢諭吉と京都人脈』(玉川大学出版部、平成10年9月)を引っ張り出してきた。日本初の公立図書館である集書院は、明治6年5月開館。管理運営は、大黒屋や御用書林村上勘兵衛*1らが明治5年5月創設した集書会社が行った。この集書会社の前身が大黒屋の書籍会社(明治4年創立)である。ただし、同社の貸本・販売部門は廃止されたが、出版事業は続けられた。刊行書で最も著名なものは、福沢の『京都学校の記』である。『私用文』も含めて、刊行物は数点しか確認できない。
 『京都府誌』上巻(京都府大正4年10月)によると、「本府は作文の成績不良にして上級に至るも私用文の活用に乏しく、甚だしきは首尾齟齬更に体裁をなさゞるものあるを認め、私用文語(槙村正直著平井義直書)を習学せしめ、私用文活用の基礎を作り」とある。『私用文』については言及されていないが、これも槙村著*2の教科書だったのだろう。明田鉄男『維新京都を救った豪腕知事:槙村正直と町衆たち』(小学館、平成16年1月)の年表にも『私用文語』(明治10年5月)はあがっているが、『私用文』の記載はない。今回見つけた『私用文』は、京都の教育史・図書館史を考える上で忘れられた重要な史料のようだ。
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*1:トンデモハンドで御用御書物所の村上勘兵衛が発行した『議案録』(明治2年)を掘り出す - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:『私用文』初編の末尾に「龍山述」とあるが、「龍山」は槙村の号である。

昭和3年9月、野上弥生子は分離派建築会第7回作品展を見たか?

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 京都国立近代美術館で「分離派建築会100年展 建築は芸術か?」、好評開催中。展示物や映像には、何度か驚かされた。その1つが、大正9年7月白木屋で開催された第1回作品展の芳名帳に芥川龍之介の名前があったことである。
 展覧会の研究は、とかく史料が残る「見せる」側に偏りがちである。しかし、
天狗倶楽部のバンカラ画伯小杉未醒が描いた明治期銀座のショーウィンドー ーー人文研における竹内幸絵先生の報告を聴いてーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したシンポジウム「みることの広がり~1910-20年代の展覧体験記~」であったように「見る」側の視点も重要である。ただ、院展文展のように著名な展覧会であれば、観覧に行った文学者等の日記から比較的容易に見つけられるものの、一般的には見つかりにくいだろう。それでも、「浪江虔の弟板谷敞もアジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会を見ていた - 神保町系オタオタ日記」で紹介した「アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展」(昭和17年)のように多数の日記中から発見できる例もあるので、調べてみる甲斐はあるだろう。
 さて、分離派建築会の作品展の場合はどうか。結論から言うと、まだ見つけてはいない。開催場所が白木屋三越など普通の人が行く場所が多かったので、見つけられそうではあるが、中々見つからないものである。取りあえず、昭和3年9月16日から20日まで三越で開催された最後の作品展、第7回作品展を見た可能性がなくもない人物はいた。野上弥生子である。日記*1昭和3年9月17日の条によると、

(昭和三年九月)
十七日(略)
雨がふるけれども母上の土産ものを買ふために車にて外出。三越に行くまでに宮城のまはりを一と廻りさせる。(略)
三越にては田舎への土産もの、なりたけ金がかゝらなくてみんなのよろこびさうなものをと探すのだから骨折りである。三十余円を費す。(略)

 野上と母親が、会期中に三越へ買い物に行っている。しかし、作品展を見たという記述はない。見た可能性はゼロではないが、おそらくは見てないのだろう。残念。このほか、喜多村緑郎も同月三越に2回行っている*2が、どちらも会期中ではなく、これも残念。引き続き探索してみたい。
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*1:野上弥生子全集』第Ⅱ期第2巻(岩波書店、昭和61年12月)

*2:喜多村緑郎日記』(演劇新報社、昭和37年5月)

大正期における展覧会場としての星製薬ーー分離派建築会第3回作品展も星製薬だったーー

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 今日から京都国立近代美術館で始まった「分離派建築会100年 建築は芸術か?」展を見てきました。聖橋、楽友会館、旧多摩聖蹟記念館、林芙美子記念館など行ったことがある建築物が分離派建築会つながりとは知らなかったので、驚いた。映像もじっくり見てたら、2時間ほどかかった。それでもまだ見たくなる展覧会なので、機会があればもう一度行きたい。
 大正9(1920)年堀口捨己石本喜久治、山田守、瀧澤眞弓、森田慶一、矢田茂が分離派建築会を結成。白木屋で第1回作品展が開催された。それから昨年で100年である。第3回作品展は、なんと星製薬楼上で開催されている。拙ブログでは、これまで展覧会場としての星製薬に注目して何度か紹介してきた。この際、開催順に並べておこう。

大正9年10月14日~30日 日本における最初のロシア画展覧会 「展覧会場としての星製薬 - 神保町系オタオタ日記
大正9年11月23日~28日 黒曜会第2回作品展覧会「星製薬と黒曜会第二回展覧会 - 神保町系オタオタ日記
大正10年3月5日~13日 白樺美術館第1回展覧会 「井上円了に美人の娘あり - 神保町系オタオタ日記
大正11年10月1日~10日 第一作家同盟展 「志賀直哉と里見とんが和解するきっかけとなった第一作家同盟展 - 神保町系オタオタ日記
大正12年6月1日~10日 第1回円鳥会展 「萬鐵五郎の第一回円鳥会展と星製薬 - 神保町系オタオタ日記
大正12年6月30日~7月5日 分離派建築会第3回作品展

 今回6個目の展覧会を見つけることができた。第3回作品展に限らず、分離派建築会作品展を観覧したという当時の日記を見つけてみたい。期待して待っててね。展覧会では、平日限定配布(2千部)のY田Y子(山田守の孫)『マンガで見る!分離派建築会実録エピソード』も確保できた。

帝国図書館御用書肆としての青木嵩山堂ーー荘門熈編『新選詩学自由自在』の発行年を探るーー

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 新年早々、三密堂書店から荘門熈編『新選詩学自由自在』(青木嵩山堂)を購入。巻之一の序文(越橋逸人)に明治14年5月、巻之四の奥付に発行年月日の記載はないが「東京帝国大学 京都帝国大学 高等師範学校 第一高等学校 学習院 帝国図書館 御用書肆」とあるので購入。明治11年創業、13年から出版社として活動するとされる青木嵩山堂の初期の刊行物と思ってしまったが、今考えると明治14年には存在しない学校・図書館ばかりですね。同様の奥付を持つ『俳諧明治新五百題』について、「近代書誌・近代画像データベース俳諧/明治新五百題」の補記には、「この内容から見て、明治三十年代の発行と思われる」としている。
 青木育志・青木俊造『青木嵩山堂:明治期の総合出版社』(アジア・ユーラシア総合研究所、平成29年9月)を見ると、より深く解明していた。奥付に同様の御用書肆の文言があって年月日の記載がない『王注楚辞』など9冊*1について最も遅い帝国図書館開設の明治30年以降として、更に『古典聚目第二集』(明治31年4月)の奥付に御用書肆として「陸軍幼年学校」も追加されていることから、「明治30年から31年3月の間ということになる。おそらく明治30年の出版ではあるまいか」と推測している。
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 本書の奥付は、御用書肆の記載のほか、発行印刷者、製本発売所、売捌所の記載も興味深い。青木兄弟著によれば、奥付の青木恒三郎の住所(東区博労町)は明治16年8月~明治18年5月、製本発売所である東京店(東京市日本橋通一丁目)は明治17年5月~同年12月、売捌所の四日市支店は明治17年~とされている。これから、本書の初版は明治17年の発行だったのではないかと推測される。気になるのは、国文研所蔵分で「近代書誌・近代画像データベース新選/詩学自由自在」の補記には、「(発兌)嵩山堂本店・嵩山堂支店・嵩山堂分店」とある。青木兄弟著では、四日市の支店が「嵩山堂分店」と記載されるのは、明治20年からとされている。ただし、あくまで青木兄弟が奥付を確認した出版物によればという前提なので、実際の発行時期はもう少し遡るのかもしれない。いずれにしても、私が入手した本書の奥付と記載が異なるので謎は深まる。
追記:「四天王寺の古本まつりでみゆきから「青木嵩山堂製本之記」印のある『近世詩文幼学便覧』を発見 - 神保町系オタオタ日記」で言及した『近世詩文幼学便覧』(明治28年6月再版)の奥付も類似の住所・所在地なので、初版を明治17年とするのは誤りか。
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*1:『新選詩学自由自在』は含まれていない。青木兄弟著の「年次別出版物一覧」にも記載なし。

竹内瑞穂『「変態」という文化』(ひつじ書房)に『風俗史研究指針』の森徳太郎

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 竹内瑞穂『「変態」という文化:近代日本の〈小さな革命〉』(ひつじ書房平成26年3月)に、『風俗史研究指針』(中外出版、大正12年9月)の森徳太郎が出てきた。『変態心理』大正10年10月号(又は11月号)掲載の「変態心理の研究に興味を持つた動機」への投稿から「学生?・國學院国文科」とし、動機は妖怪への興味だったという。また、同誌への寄稿は4回で、『風俗史研究指針』出版以後はなく、江馬務主宰の『風俗研究』への投稿が中心になっていったらしい。
 『風俗史研究指針』の江馬「序」には、次のようにある。

 著者森君は大阪の素封家に生れながら、家職を放擲して拮据独学、これを唯一の娯楽とせられてゐる。(略)自ら雞徳書院を起して来学の士を指導し、自らは特に風俗史に趣味を有せられて其研究の結果は、屢私の主宰してゐる風俗研究会の機関雑誌の風俗研究の誌上に発表せられ、今や斯学界に重きをなして居られる。(略)

 また、森の「はしがき」には「私が斯学に特殊な興味を持つようになつてから一旬を越した」とある。論文一覧と続刊予定も掲載されているので、写真を挙げておく。どれも面白そうな続刊のタイトルだが、刊行されていないようだ。亡くなったのだろうか。
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 なお、竹内著153頁の注31に小山内薫の大正5年頃の信仰に関して、「巣鴨の至極殿」とあるが、正しくは「至誠殿」。3回「至極殿」としているから、誤植ではなく記憶違いか。

九十九黄人の東洋民俗博物館でエログロ絵画・写真を見る大場磐雄先生ーー九十九黄人の伝記を期待ーー

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 大場磐雄『楽石雑筆』の読書も下巻*1に突入。大場は、正倉院の御物を見た後、九十九黄人(豊勝)の東洋民俗博物館へ寄っていた。

(昭和十四年)
◎十一月十一日(土)(略)それより大軌にてあやめ池下車、東洋民俗博物館へゆく、始[ママ]めてなり。九谷[ママ]豊勝氏に面会、先ず普通の部より見る。各地の土俗品多数陳列しあり、中に大隅方面の神像おもしろし。それより特別室に入る、聞きしに勝る陳列品にて所狭き迄並べたる。エログロの絵画、写真、実物等、眼を奪うばかりなり、やがて各種の写真、絵画等を見せる、特に珍品はなけれどよく集めたるものなり、阿部定の調書の如きもあり、同好の士二名来る。それより六時過ぎまで語りて余も会員に加わり(会費二円)今後を依頼して去る、再び大軌にて鶴橋下車、乗替えて大阪に来り、阪急ホテルに入る(略)

 大場先生は、東洋民俗博物館の特別室で色々見せてもらったようだ。「大軌」は大阪電気軌道(現近鉄)で、東洋民俗博物館はあやめ池駅のそばにあった。冒頭の写真は、ひげ美術から入手した大軌発行のリーフレット。同じ物2枚で500円。九十九の経歴は、ネット上の「九十九豊勝 | Kokeshi Wiki」である程度分かる。しかし、本格的な伝記が期待されるところである。
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 九十九は、年賀状等で日々の出来事を知人に送っていて、写真をあげた昭和54年の年賀状もその例である。シルヴァン書房から200円で入手。これが集まれば、詳細年譜とまでいかなくても、ある程度後半生の人生模様が判明しそうだ。
参考:「東洋民俗博物館の九十九豊勝と足立史談会の福島憲太郎 - 神保町系オタオタ日記」「九十九豊勝訳・発行のフレデリック・スタール『絵馬』(東洋民俗博物館、昭和5年) - 神保町系オタオタ日記
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*1:『大場磐雄著作集』第8巻(雄山閣出版、昭和52年1月)

大場磐雄『楽石雑筆』に酒井勝軍と上原清二ーー1月23日第4回「オカルティズム史講座」開催ーー

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 1月23日午後1時からZoomで第4回「オカルティズム史講座」が開催されるようだ。

吉永進一「日本のピラミッドと超古代の夢:1930年代」
ヤニス・ガイタニディス「出版スピリチュアリティ:精神世界の出版社と翻訳者」

 吉永さんの日本のピラミッド関係は、特に熱の入ったものになりそうだ。というのも、酒井勝軍『太古日本のピラミッド』(国教宣明団、昭和9年7月)→武内裕『日本のピラミッド』(大陸書房、昭和50年12月)→横山茂雄吉永進一らの『ピラミッドの友』(近代ピラミッド協会、昭和52年11月創刊)という系譜があるからだ。講座で取り上げられるはずの酒井がいなければ、近代ピラミッド協会は存在しなかった、ひいては宗教学者としての吉永さんも存在しなかったのである。
 ところで、大場磐雄『楽石雑筆』*1を読んでいたら、酒井やそのエピゴーネン上原清二が出てきて驚いた。

(昭和十二年)
◎六月七日(略)八軒町に角竹喜登氏*2を訪う。同氏は県の史蹟調査員たるのみならず、水無神社史料調査を嘱託せらる。(略)
 抑々位山の巨石群を注意するに至りしは、昭和十年八月下旬にして、河崎宮司(水無神宮司河崎正直ーー引用者注)の注意あり、角竹氏を始め一行十数人にて八月二十四日第一回の登山を行いしが各所に巨石群の存在を知り、大いに興味を喚起せられ、再来十数回の登山となり、地方における注目の的となれるなり。又高山市の上原清二氏の如きは、同山を調査せし酒井勝軍の奇説を信じて、これを高天原とし、巨石を太陽神の祭場又は神武天皇の御陵等と称し、発表せしことあり、河崎宮司はこの解決を神社領有地の拡張問題と結びつけてその神聖なる遺跡及び、位山と神社との関係、三代実録に見ゆる愛宝山を位山とする等、各種の方面より密接なる関係ありしを説かむとす。果して然るや否や大いに考究の問題たりと思考せらる。

 「酒井勝軍の奇説」と呼ばれてますね。上原の『日霊国:飛騨神代遺跡』(上原清二、昭和16年4月)の「はしがき」によれば、酒井と上原の出会いは、次のとおり。

 私が飛騨の調査に着手致しました事は、昭和九年九月酒井勝軍氏を当地へ迎へて其講演を聞きました所、我飛騨が神代の中心であつた事を知り、其上、上野平の平面ピラミツドの鑑定を聞きまして、茲に始[ママ]めて調査の端緒を得たのであります。

 酒井による葦嶽山ピラミッドの発見は昭和9年4月なので、飛騨上野平の平面ピラミッド(この形容矛盾……)はそれに続く発見となる。上原は、神宮奉斎会高山支部長・陸軍大佐。八幡書店による『神日本』復刻版第二期付録解説編の「神日本の人々」に詳しいようだが、未見。戦後も懲りずに(?)、『太古之日本』(飛騨神代遺跡研究会、昭和25年2月)や「飛騨神蹟について」『神霊文化』9巻6号,昭和32年6月を執筆している。

*1:『大場磐雄著作集』第7巻(雄山閣出版、昭和51年1月)

*2:角竹 喜登とは - コトバンク」参照/