神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

橘孝三郎の獄中読書本のリストーー近角常観と超国家主義者橘孝三郎ーー

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三井甲之『しきしまの道原理』
矢吹慶輝『日本精神と日本仏教』
『仏教統一論』
『日本宗教史』
金子『仏教概論』
『思想と信仰』
『仏教大綱』
民間信仰史』
久松『仏教概論』
世界宗教史』
境野黄洋『日本仏教史講話』
土屋詮教『日本仏教史講話』
姉崎正治根本仏教
木村泰賢『原始仏教思想論』
和辻哲郎原始仏教の実践哲学』
金子大栄『仏教概論』
高木**1掌『仏教概論』

 いきなり本のリストを挙げてしまった。これは、五・一五事件の首謀者橘孝三郎昭和10年4月以降に獄中で読んだり、借りたりした本のリストである。私が仏教関係書を中心に抜き出したもので、全体は、松沢哲成橘孝三郎:日本ファシズム原始回帰論派』(三一書房、昭和47年3月)に掲載されている。上記のほか、日本史、民俗学神道なども読んでいる。獄中の読書リストについては、好評発売中の南陀楼綾繁・書物蔵・鈴木潤林哲夫・正木香子『本のリストの本』(創元社、令和2年8月)で、林哲夫氏が堀江貴文氏の本から獄中にいたことのある堀江氏のおすすめ本を紹介している。
 ところで、超国家主義者橘が一高時代に岡田式静坐にはまっていたことは、栗田英彦先生の「国際日本文化研究センター所蔵静坐社資料ーー解説と目録ーー」でも紹介されている。しかし、橘が一高時代に別の人物とも接触していたことはあまり知られていないようだ*2。前記松沢著によると、

 「近角先生にも一、二回行ってみたが、やはり没頭できなかった」(昭和三九・一一・八橘氏談話)。いっぽう、当時一高生のあいだに、岡田虎次[ママ]郎の岡田式静坐法という一種の民間療法が、流行していた。そこで橘は「それに行ったんだ。座った」。(略)

 この「近角先生」は、近角常観ではなかろうか。岩田文昭『近代仏教と青年:近角常観とその時代』(岩波書店平成26年8月)によれば、近角は明治35年6月一高近くの本郷区森川町に求道学舎を開設し、日曜講話を開始していた。大正4年11月には、求道会館が完成し、以後日曜講話は同会館で行われた。橘の一高在学期間は、大正元年9月入学、4年2月中退である。近角については、近年研究が進み、「近角常観研究資料サイト」で資料が紹介されている。ただし、幾つかの資料を検索してみたが、橘はヒットしなかった。短期間の接触で終わったためだろうか。
 橘は獄中で読書ばかりしていたわけではなく、健康法も実践していた。愛郷塾編『橘孝三郎獄中通信』(建設社、昭和9年2月)から引用する。

昭和8年5月27日付け橘もん子(母)宛
(略)昨今は友人森田重次郎氏のすすめにより、座禅をいたしてをります。森田氏はわざわざその師の木澤興道といふ方をつれて来て、私に座禅の組み方を教へてくれました。座禅は私に特にいいやうです。これから大いに座禅の勉強をいたす考へでをります。(略)

昭和8年7月21日付け橘ふく子(妻)宛
(略)申すまでもなく健康第一主義で、色々の健康法を講じてをる。朝起きると直ちに西式強健法を実行。からだを左右に振りながら腹を出したりへこましたりすること五百回。それからラヂオ体操、両方で約三十五分か四十分位。午前中、多少読書。主として座禅。(略)就寝前、西式強健法五百回。(略)

 「木澤興道」は、正しくは「澤木興道」と思われる。獄中で澤木の曹洞禅や西式強健法を実践していたことがわかる。煩悶する青年時代に熱中した岡田式静坐のことは、すっかり忘れていたのだろうか。
 以上、最近書物蔵氏から御恵投いただいた『本のリストの本』や栗田先生から御恵投いただいたこれまた好評発売中の石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館、令和2年9月)と関連する話題にしてみました。
参考:「巣鴨プリズナーも最後は神頼み? - 神保町系オタオタ日記」、「350冊もあった小菅刑務所内の橘孝三郎文庫 - 神保町系オタオタ日記」、「西式強健術で健康維持に努めた獄中の蔵原惟人 - 神保町系オタオタ日記」、「村山知義の獄中読書ーー中山弘明『戦間期の『夜明け前』』(双文社出版)への補足ーー - 神保町系オタオタ日記

*1:手偏に正

*2:「近角常観の体験主義」や「橘孝三郎と電気」などを扱った中島岳志超国家主義:煩悶する青年とナショナリズム』(筑摩書房、平成30年3月)でも、言及されていない。

大正12年宮本常一が観た「大和少女歌劇」は日本少女歌劇座か?ーー京都文教大学の鵜飼正樹教授へーー

 奈良県立図書情報館で開催された日本少女歌劇座に関する展覧会は、見逃してしまった。「旅する歌劇団 日本少女歌劇座を追う(2018年9月22放送)|特集|U-doki|UMKテレビ宮崎」によると、京都文教大学鵜飼正樹教授が同歌劇座を研究する切っ掛けになったのは、11月に京都市内であった古本市で見つけた絵葉書だという。これは、おそらく百萬遍知恩寺の古本まつりでシルヴァン書房の寸葉さんこと矢原さんの所で見つけたのだろう。
 さて、宮本常一の日記*1を読んでいたら、面白い記述があった。

(大正12年)
10月21日(日)
(略)弟と天王寺へ行く。交通博覧会を見に。(略)余興場へ這入る。大和少女歌劇演舞の最中だ。何か知らんがむやみに亢奮した。俺見た様な男が歌劇を見るべきではない。・・・夕暮はせまつた。広い公園を抜けて恵美須町から電車へ乗る。(略)

 「大和少女歌劇」というのが出てくる。昨年DMG MORI やまと郡山城ホール展示室で開催された日本少女歌劇座展のパンフによると、同歌劇座は大正10年頃大阪の日下温泉で誕生。その後、温泉の営業不振により、大和郡山(当時は生駒郡郡山町)の島興行社が経営。大正12年1月の大津での公演が判明している最古の公演だという。当初大和少女歌劇座を名乗っていたという話はなさそうだ。そうすると、宮本が書き間違えたか、大和少女歌劇座(又は団)が別に存在したのだろうか。参考になればと、ブログに挙げておきます。鵜飼先生に到達するのに、何日かかるだろうか。

宮本常一日記 青春篇 (-)

宮本常一日記 青春篇 (-)

*1:宮本常一日記青春篇』(毎日新聞社平成24年6月)

西村貫一「蔵書標蔵書印の言葉」

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 9月25日の「蔵書印/出版広告」さんのTwitterは、
市島春城の蔵書印(子孫易酒亦可)「蔵書印DB子孫易酒亦可」「蔵書印DB子孫易酒亦可
川尻清潭の蔵書印(川尻清潭此書不換妓)「蔵書印DB川尻清潭蔵此書不換妓
を紹介している。見覚えがある語句と思っていたら、神戸にあった西村旅館の西村貫一が『金曜』4巻3号(へちま文庫、昭和27年3月)の「蔵書標蔵書印の言葉」で言及していた。
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 写真を挙げたように、西村は日本における蔵書印の言葉の例を挙げている。続いて、西洋の例として、「女より生れた人間は生命短く悩み多し」、「人生は短く芸術は長し」や口絵に使ったルドルフ・フィルヒョウ博士の「総ての細胞は細胞より生ず」などを挙げている。西村自身の蔵書印は、蔵書印データベースの「蔵書印DB西村蔵書」が知られるだけである。しかし、西村は他に何か洒落た語句を含む蔵書印を持っていたのかもしれない。
参考:「蒐集家西村貫一がへちま倶楽部に取り込もうとした岩本素白と伊藤正雄 - 神保町系オタオタ日記

大正13年蒙古から来日したラマ僧達ーーもう一人の釈、釈黙笑と日蒙仏教連合会ーー

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 「ジャワの仮面を集めた男達ーージャワの松原晩香と京都の山崎翠紅ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した『写真新聞』(写真新聞社、大正13年5月)に、蒙古から来日したラマ僧が出ていた。日比谷公園の花見堂で開催された釈迦生誕祭に参列したラマ僧達。蒙古から来日した一行で、長老格はサイバシヤル、コンドンの二人。3年間高野山の各寺に分宿して、日本の仏教を研究する予定だったようだ。
 日本と蒙古のラマ僧の交流には、前史がある。中濃教篤『近代日本の宗教と政治』(アポロン社、昭和43年9月)によると、

 (略)一九一八年(大正七年)には、満鉄の援助で釈黙笑なる僧侶が蒙古各地のラマ僧一〇余名を同伴して来日している。この歓迎会には寺内首相が祝辞を寄せ、田中舎身なども出席している。この年に日蒙仏教連合会なる組織が生れ、翌[ママ]一九二四年、河村満鉄総裁、児玉関東庁長官らの援助のもとで蒙古巴林廟地方からラマ僧一二名が来日するという具合に、ラマ教徒を懐柔して、日本の侵略政策へ組み込もうとする動きも活発化してきている。

 何やら満鉄を通して、国策としての日蒙仏教の交流があったようだ。文中の12名のラマ僧は、前記写真のラマ僧だろう。写真では、左端の下駄を履いた日本人っぽい人も含めると12名になる。
 グーグルブックスしか見てないが、日蒙仏教連合会の創設は大正4年とする文献も多い。この連合会について、詳しい研究はあるのかな。また、釈黙笑も各種文献に名前が出ていて、面白そうな人物だ。大谷栄一・吉永進一・近藤俊太郎編『近代仏教スタディーズ:仏教から見たもうひとつの近代』(法藏館平成28年4月)に、吉永さんが「二人の釈」として、釈興然と釈宗演を紹介している。この二人ほど大物ではないだろうが、黙笑にも今後注目してみよう。先日、石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館、令和2年9月)を御恵投いただいたが、「近代の仏教思想と大アジア主義」というテーマも立てられそうだ。
追記:ネットで読める槻木瑞生「『中外日報』紙のアジア関係記事目録」『同朋大学佛教文化研究所紀要』17号によると、『中外日報大正7年4月10日に「日蒙仏教連合会発会式」の記事が掲載されている。
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梅原真隆・顕真学苑旧蔵の関昌祐編著『死後はどうなる?:心霊学説』(霊光洞本部、大正15年)

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 尚学堂の古書目録『尚学堂我楽多』522号,令和2年9月に梅原真隆・顕真学苑の旧蔵書が千円均一で出ていた。せっかくなので、1冊買ってみた。関昌祐編著『死後はどうなる?:心霊学説』(霊光洞本部、大正15年8月)である。「梅原真隆蔵書」印や「顕真学苑図書館」印が押されている。
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目次を挙げておく。
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 梅原がこのような本を持っているのは、不思議だ。もっとも、地アンカットで読んだ形跡はない。嬉しいのは、『霊光』3年6号(通号15号)が、挟まっていたことである。「遠隔療法の便宜」の記載があり、関も遠隔療法を行っていたことがわかる。
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 古書目録には、他に『宗教法案合纂 明治三十年代施行の宗教法についての冊子』や「下鴨神社納涼古本まつりで見つけた『崇信会と芦屋仏教会館のえにし』(昭和5年) - 神保町系オタオタ日記」で紹介した『崇信会と芦屋仏教会館のえにし』なども出ていた。創設者である梅原からの寄贈書を処分した顕真学苑は、今どういう状態なのだろうか。北区まで見に行こうかと思っていたが、腰痛で当分無理そうである……
参考:「ウィリアム・ジェイムズの弟子小川忠蔵神戸高等商業学校教授 - 神保町系オタオタ日記」、「究極の精神療法ーー川上又次「日本心象学会」による遠隔施術ーー - 神保町系オタオタ日記

二科会会友海老名文雄とパトロン芝川照吉ーー久米正雄「モン・アミ」に出てくるN洋画会のパトロンMは誰だ?ーー

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 「久米正雄「モン・アミ」の画家相澤八郎のモデル - 神保町系オタオタ日記」で行った久米正雄の小説「モン・アミ」『改造』昭和4年10月に出てくる相澤八郎のモデル=海老名文雄説及び海老名の年譜は、小谷野敦氏や林哲夫氏に好評であった。ただし、相澤らN洋画会(二科会と思われる)のパトロンだったMのモデルは、判明しなかった。「モン・アミ」でのMに関する記述は、次のとおりである。

(略)私は日本を出る前に、実は、相澤の後援者で、ーー相澤のと云ふよりは、寧ろNーー洋画会の後援者で、鎌倉扇ケ谷奥に住んでゐるM氏から、巴里に於ける彼の近状を、詳しく探つて貰ひたいと云ふ依頼を受けて居たからだつた。

 Mというイニシャルを持つ二科会パトロンは、今もって見つかっていない。ただ、二科会パトロンとして芝川照吉という人物がいた。残念ながら、イニシャルが違うし、大正12年に亡くなっているので、パトロンMの候補にはなりえない。しかし、それらを除くと候補の資格は十分ある。
・平成25年に京都国立近代美術館で開催された「芝川照吉コレクション展 青木繁岸田劉生らを支えたコレクター」に出品されていたが、芝川は海老名の《水鳥》を所蔵していた。
・『幻想のコレクション芝川照吉 劉生、達吉、柏亭らを支えたもう一つの美術史』(渋谷区立松濤美術館、平成17年)*1所収の「照吉日記」によると、芝高輪北町に住んでいた芝川は、亡くなる直前の大正12年4月鎌倉に借家を探していた。
・年譜によると、大正4年芝川は夏目漱石に磯田多佳を紹介している。杉田博明『祇園の女:文芸芸妓磯田多佳』(新潮社、平成3年1月)に芝川を漱石の弟子とあるのは俄には信じがたいが、漱石と親しかったことがうかがわれる。久米と面識があってもおかしくないわけである。
 結局、私の能力ではMの正体は不明である。二科会パトロンでMのイニシャルを持つ人を御存知の方がおられたら、御教示いただきたい。
 私が海老名の年譜を作ったのは、もう9年も前である。もはや、増補版を作るつもりはない。だが、その後幾つか判明した事があるので、参考までに記録しておこう。
・『柏亭自伝』(中央公論美術出版、昭和46年7月)に中央新聞編輯室の給仕として、海老名が出てくる。大正3年二科会を創設する石井柏亭は、明治37年から38年まで中央新聞社に勤めていた。
島村利正『奈良飛鳥園』(新潮社、昭和55年3月)に、小川晴暘と太平洋画会研究所の同輩で後に二科の常連になった「海老原[ママ]文雄」が出てくる。おそらく、海老名のことだろう。
国会図書館雑誌記事索引」の遡及入力が進んだようで、海老名の「『仲間』ルイ・ジューヴェ」『文藝春秋』昭和26年10月がヒットする。海老名は、敗戦後も生存していたわけである。
 ところで、前記京都国立近代美術館の展覧会の図録中、「出品作家紹介」に海老名の経歴が出ている。大正10年渡仏とか、11年第9回二科展への出品を最後に画壇から離れたとあるが、どちらも間違いである。厳しいことを言えば、学芸員は美術人名辞典を単に引き写すだけでなく、『昭和期美術展覧会出品目録戦前篇』や当時の『日本美術年鑑』等により確認しなくてはいけない。

*1:冒頭の写真右端の図録。表紙は、岸田劉生『芝川照吉氏之像』大正8年

榎本法令館の榎本松之助が創刊した『新世界』(新世界社、明治42年)ーー宮本大人「湯浅春江堂と榎本法令館」への補足ーー

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 『文献継承』36号(金沢文圃閣、令和2年11[ママ]月)をいただきました。ありがとうございます。小林昌樹「『月遅れ雑誌』のはじめは明治30年ごろーー特価本の流通史」掲載。冒頭、拙ブログ「月遅れ雑誌を読んで育った高橋正治が通う館林の書店・図書館ーーヨドニカ文庫で見つけた『高橋正治先生遺稿集』からーー - 神保町系オタオタ日記」の引用から始まる。小林氏に引用していただいのは、初めてか。小林氏の論考は、「藪田嘉一郎の古書店文林堂書店が参加した書好会の『書好』ーー『書物関係リトルマガジン集ーー中京・京阪神古本屋編ーー』(金沢文圃閣)で復刻ーー - 神保町系オタオタ日記」で補足したことがある。今回の論考に補足するのは難しそうなので、文中で言及されている宮本大人「湯浅春江堂と榎本法令館ーー近代における東西「赤本」業者素描」『日本出版史料』5号(日本エディタースクール出版部、平成12年3月)への補足を書いてみよう。
 宮本論文では、榎本松之助は明治28年には大阪平民館の商号で絵草紙類を出版。同社は成功したと見え、29年2月『平民之友』を創刊した。同誌の21号,明治30年1月を持っているので、奥付、裏表紙の写真を挙げておく。
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 裏表紙に記載のある『むすめの友』、『少年の友』は、宮本論文によると、前者は明治29年7月創刊、5号で廃刊。後者は同年9月創刊、3号で廃刊。両者は『平民之友』に統合されたという。
 実は、榎本は別の雑誌も創刊している。4年前大阪古書会館の全大阪古書ブックフェアで古書鎌田から300円で入手した『新世界』1巻1号(新世界社、明治42年4月)である。榎本「発刊の辞」、編輯部員名、次号予告・奥付も挙げておく。
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 新世界社の所在地大阪市南区松屋町と編輯兼発行人の中村義也の住所同町39は、榎本松之助編『関東大震災と国民の覚悟』(榎本法令館、大正12年9月)における榎本の住所大阪市南区松屋町39番地と一致している。榎本法令館の榎本は、明治40年代に新世界社名義で雑誌を発行していたことが確認できた。国会図書館サーチによると、九州大学中央図書館が1巻8号を所蔵しているので、少なくとも8冊は刊行されている。表紙に「斯くの如く発行部数の大なる雑誌他にありや」とあるが、発行部数の記載はない。
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 口絵と見づらいが目次も挙げておこう。村上觚膓*1訳の「西蔵探険記」は原作者名の記載がない。少年時代から冒険譚が好きな主人公が、ある冬の夜に安楽椅子で空想に耽っていると、扉をたたく音がした。扉を開けると、絶世の美女がそこにいた。彼女は、ヨセド湖にいる怪獣の餌食になった両親の敵討ちに加勢してほしいと言う。彼女と共に窓から出ると、そこはヨセド湖であった。その後、怪獣との戦いがあるが、ラストは夢落ちになっている。次号予告では、続くようだ。この「西蔵探険記」はどこかで読んだ気がするが、誰の作品だろう。

*1:村上膓觚との記載もある。