神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

ジャワの仮面を集めた男達(その2)ーージャワ帰りの井岡大輔と原始芸術品蒐集家宮武辰夫

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 毎年腰痛に襲われるが、今年も再発。じっとしてれば痛くないので、スマホは使える。「ジャワの仮面を集めた男達ーージャワの松原晩香と京都の山崎翠紅ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した『鳩笛』6号(ちどりや、大正15年3月)が見つかったので、緑紅生「京都の趣味家(下)」から」山崎翠紅の紹介分を引用しておこう。

山崎翠紅氏 宝船狂と号されてゐる丈に、古版宝船を沢山に蒐められてゐる。そうして其相違や類似品等の調査には頗る熱心でもあり又詳しい。玩具もお好きだ。これから新規に蒐め直しと聞いてゐる。

 このほか、グーグルブックスによると、『近代歌舞伎年表京都篇』に京都日出新聞大正14年8月18日が出典で、翠紅が関西の講釈界の重鎮山崎琴書の「唯一の息」とあることがわかる。
 ジャワの仮面を蒐めた男として、ジャワ帰りの井岡大輔もいた。『南の話』(木瓜書房、昭和17年8月)の対談に出てくる。出席者は次のとおりで、井岡のほか、河合卯之助、その義兄でジャワ帰りの若林文次郎、星岡主人中村竹四郎らが出席している。
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 河合の「南の話の序」によると、井岡は、蔵前高校の出身で染色が専門。最初は、外務省の嘱託技術家として第1回日蘭会商で長岡大使に随行して、1年程ジヤバに滞留。その後、大阪府立貿易館最初のジヤバ分館長として駐在3年の後、カルカッタに1年、馬来にも支那にも居て、最近は天津分館長を経て帰朝した。染織、人形、仮面、その他多種多様の工芸品を沢山蒐集しているという。座談会での井岡の仮面に関する発言を引用しておこう。

井岡 斯う云ふ仮面は道楽に出来たのでない。一番最初移動して来て何か一つ新しいところに開墾しやうと思ふところへ家を拵へる。そうして先祖にお伺ひを立てるんです、その時にシヤマン・・・・・・巫覡、巫子です。向で一般にシヤマンと云ひます。此奴が出て来る。神と人間の中間のものです。シヤマンが祈りを捧げて神懸りになる訳です。かう云ふ面を被つて歌を唱ひ出します。そうすると、自分と云ふものがどつかへ飛んでしまつて、先祖の霊が入つて来て所謂お告げを説くと云ふのです。

 もう1人、「原始藝術品蒐集者にして幼年美術研究者だった宮武辰夫のもう一つの顔 - 神保町系オタオタ日記」や
京都外国語大学国際文化資料館で開催された宮武辰夫コレクション展 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介した世界の原始芸術品蒐集家宮武辰夫である。国会デジコレで見られる『世界原始民芸図集:宮武辰夫蒐集』8輯(世界原始民芸図集刊行会、昭和15年12月)に「ジヤヴア古代仮面」の写真を、同別冊『世界に原始芸術を探る』8巻*1に解説を載せている。解説文は、

(略)ジヤヴアには既に仮面らしい良さを持つたものは見られない。その散逸先は主として日本と云つてもいゝ程、我国には多数この種の仮面が流れ込んでは居るが、さてその内からも良きものは極めて稀である。然しこの仮面等は正に非の無い古代仮面として恥かしくない逸品である[。]ジヤヴア仮面の裏面には、踊り手が口に咥える様に木の突起をつくつてあるが、中には皮をつけてそれを咥えるものもある。

 多数日本に流れ込んだというジャワの仮面は、どのくらい保存されているだろうか。

*1:写真は、家蔵の第5巻,昭和15年7月

ジャワの仮面を集めた男達ーージャワの松原晩香と京都の山崎翠紅ーー

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 数年前、四天王寺の古本まつりで古書クロックワークから『写真新聞』2巻5号(写真新聞社、大正13年5月)を入手した。表紙は補修ありで、口絵の一部も欠けていたが、大阪で発行されたグラフ誌で記事も幾つか興味深いものがあって、しかも200円なので購入。奥付によると、編輯兼発行人は高島駒之助で、発行所の写真新聞社は「合資会社関西文芸社経営」とある。明治新聞雑誌文庫が数冊持っているが、本号は無いようだ。
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 幾つか写真を紹介しておこう。4月1日分は、「娼妓が朋輩の追悼会」。深川洲崎遊廓跡で開催された娼妓による関東大震災のため亡くなった同業者の追悼会。
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 4月9日は、「珍品ジヤバ仮面の陳列」。新浅草南洋館で開催された松原晩香所蔵の爪哇(ジャワ)の仮面等の展覧会。松原には、『南方の芝居と音楽』(誠美書閣、昭和18年3月)等の著作がある。「グーグルブックス」によると、大正9年創刊の『爪哇日報』の記者だったようだ。
 国内にもジャワの仮面を集めた人がいた。シルヴァン書房から400円で入手した昭和7年鳥居庫吉(京都市)宛山崎翠紅(京都市)の年賀状に、写真が出ている。山崎には、『南国操り人形と仮面』(山崎翠紅、昭和10年)という著作がある。「田中俊次編輯『鳩笛』6号(ちどりや、大正15年3月) - 神保町系オタオタ日記」で紹介した『鳩笛』6号の「京都の趣味家(下)」に紹介が出てるが、どこかに埋もれているため見られない(´・_・`)
 残念ながら、松原や山崎は『昭和前期蒐書家リスト』(トム・リバーフィールド、令和元年11月)に登場しない。「蒐集家」リストではなく、基本は書物を集めた「蒐書家」リストなので、仮面のような物の蒐集家は必ずしも収録されていない。同書は蒐集分野による検索ができないのが玉に瑕で、ざっと目を通すと、佐藤寿が「天神、こけし、首人形、鳩笛、面」を集めている。もっとも、この「面」は能面なのだろう。
 

与謝野鉄幹の兄大槻拙堂とは誰だ?ーー鉄幹の行方不明となった三兄巌のその後ーー

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 「カルピスを「初恋の味」にした驪城卓爾と三島海雲ーー厚生書店で見つけた『箕山遺稿』ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した驪城卓爾『箕山遺稿』(驪城芳子、昭和4年6月)の「柿三題」中「落柿舎」に面白い記述があった。

 数年前*1のある秋、其頃はまだ嵯峨の天龍寺前に、大槻拙堂さん(与謝野鉄幹氏令兄)が「花より団子の本家はこゝぢや。」とかいた大きな立看板を、店頭に出して居る時分であつた。私は此店でおいしい団子と渋茶とをよばれて(略)

 鉄幹にそんな兄がいたんだと思っていた。ところが、青井史『与謝野鉄幹:鬼に喰われた男』(深夜叢書社、平成7年10月)を見る限り、そのような名前の兄はいない。長兄和田大円(1859-1932)や赤松連城の長女安子と結婚した次兄赤松照幢(1862-1921)は、確実に別人である。問題は、三兄の巌である。慶応元年生で、明治18年に失踪届が出されているという。ただ、母や弟の修、妹の静子は所在を知っていたようで*2、青井氏は父との葛藤があったからだろうと推測している。
 この巌は、その後どのような生き方をしたのか不明とされている。卓爾の書いていることが正しければ、巌は大槻家へ養子に行き、法名(?)が拙堂であったのかもしれない。拙ブログの読者に鉄幹の研究者がおられるのか不明だが、おられたら調べてみてください。

*1:初出の記載がないので、時期は不明

*2:鉄幹は、明治17年6月大阪住吉の安藤秀乗の養子となっていた。

明治41年?京都日出新聞主催25美人コンテストで第2位となった祇園新地の鈴木三栄

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 閉店した三月書房で開催された萩書房Ⅱと古書ダンデライオンによる古本市の後に、尚学堂で見つけた『女学世界』8巻11号(博文館、明治41年9月)。1,000円、紙袋にはネットで話題になったアマビエのスタンプが押されていた。目次を挙げておく。
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 口絵には、源氏物語(一条成美)やバイオリン(川崎蘭香)*1
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 残念ながら、口絵の「乳母の家」(夢二)と絵葉書(宮崎与平)は見当たらない。短文の甲賞には、内藤千代子「避暑地より」が選ばれている。
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 石龍子「人事活断」は、読者への占いで4頁載っている。
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 実は、この雑誌を買ったのは、記事の内容ではなく、裏表紙の女性の写真に驚いたからである。2年前京都文化博物館であった古本市で京都スターブックスから買った絵葉書の女性と同じだと思ったからだ。絵葉書のキャプションには、「京都日出新聞主催廿五美人投票/第二位当選者 祇園新地 鈴木三栄」とある。私の基準からいくと、失礼ながら美人というよりもブスに分類されるが、井上章一『美人コンテスト百年史:芸妓の時代から美少女まで』(新潮社、平成4年3月)を読んで明治期の美人コンテストに多少感心があるので買ってみた。あらためて比べてみると、似てるような別人のような。年寄りなので、若い女の子はみんな同じに見えてしまうからね。皆様は、いかがでしょうか。
 グーグルブックスで検索すると、『文芸倶楽部』14巻6号,明治41年4月に京都祇園鈴木三栄の「花か人か」(写真)が掲載されているようだ。ちょうど、『女学世界』の発行時期と同じだ。同一人物の可能性が少し出てきた。京都日出新聞の美人投票の時期も確認したいところである。井上先生の本は、タイトルは百年史だが、美人コンテストを網羅したものではなく、このコンテストは出てこない。誰か、美人コンテストの詳細年表を作った人はいないか。
追記:『別冊歴史読本』68号の『幕末・明治美人帖』(新人物往来社、平成13年3月)に明治43年9月25日消印の絵葉書として、京都日出新聞主催25美人投票第3位当選の京都祇園金岩若梅が載っている。
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*1:時期は異なるが、明治30年代後半における女学生のヴァイオリンブームについては、「明治30年代後半の女学生におけるヴァイオリンブーム - 神保町系オタオタ日記」参照

集古会会員としての旅館萬屋主人岡本橘仙と夏目漱石

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 蒐集家だった神戸の西村旅館の西村貫一。そう言えば、京都に似たような人がいた。萬屋主人の岡本橘仙である。岡本は、斯界のバイブル、トム・リバーフィールド編、書物蔵監修・解説『昭和前期蒐書家リスト』にも載っている。「蒐集分野」の記載はないが、典拠が『千里相識』(集古会、昭和10年9月)なので、驚くべきことに集古会会員だったことがわかる。もっとも、山口昌男内田魯庵山脈』に地方会員として、新村出富士川游、山田孝雄らと共に名前が出ている。やはり、山口昌男は偉かった。
 ググると、「待ってました!」とばかりに国文学研究資料館「蔵書印データベース」の「蔵書印DB橘仙」がトップ。ちなみに、2番目は斎藤光先生の論文「祇園への視線ーー1910年5月の京都、吉井勇におけるその体験と表現ーー」である。『集古会会誌』庚戌巻2,明治44年1月の「会員名簿」には、本名の岡本猶吉で載っていて、蒐集分野は「俗曲に関するもの」だったことが分かる。また、「グーグルブックス」で検索すると、横山重や木村仙秀が岡本の蔵書に言及しているので、相当の蔵書家だったと確認できる。
 前記「蔵書印データベース」の「人物情報」に萬屋文人の定宿で、徳富蘇峰高浜虚子らが泊まったことが記されている。明治42年夏目漱石も泊まっていることは、「京都の文人宿万屋主人金子竹次郎が残した日記 - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。その後、岡本と漱石は知り合い、大正4年4月18日消印の磯田多佳宛書簡に「岡本さんに礼状を出さうと思ひますが名前がよく解らないからあなたからよろしく願ひます」と出てくる。『定本漱石全集』24巻(岩波書店、令和元年11月)の「人名に関する注および索引」は、この「岡本」を「不詳」としてしまっている。その後、同全集28巻(令和2年3月)の月報の正誤表で、「岡本橘仙(1869-1945) 本名は猶吉.生家は京都三条の旅館万屋.一時日本画を学び*1,風流人として知られた」に訂正された。岡本は、例えば瀬沼茂樹日本文壇史』21巻に、

 岡本橘仙、金子竹次郎の案内で、二人(谷崎潤一郎長田幹彦ーー引用者注)はまた新橋縄手東入のお茶屋大友に出かけた。伽羅の薫のただよう黒光に光った薄暗い家の中で、白川の水が床下を流れているのは風情があった。女将は祇園の一力楼の女将おさだの妹で、磯田多佳といい、数え年三十四歳であった。(略)芸妓をやめた後も、夏目漱石高浜虚子吉井勇などによく知られていた。(略)

と出てくる人物である。当初「不詳」としたのは、勉強不足だろう。
参考:「岡本橘仙や金子竹次郎らの読書会記録『列子天瑞篇之研究』ーー黒田天外の旧蔵書かも?ーー - 神保町系オタオタ日記

*1:「『やはらかもの』一夕話」『書物の趣味』第1冊,昭和2年11月に、「十五の時、久保田米僊といふ人に就て画を習ひました」とある。

竹中郁が装幀した西村貫一の『金曜』(へちま文庫)

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 『竹中郁全詩集』(角川書店、昭和58年3月)の年譜(足立巻一)から、『金曜』(へちま文庫)関係の記載を拾うと、

昭和24年2月 詩「うさぎ」を『金曜』に発表
同年8月 詩「草の小径」を『金曜』に発表
同25年6月 エッセイ「文五郎の手 ロダンの手」を『金曜』特集「吉田文五郎物語」に発表
同年9月 上井正三*1詩二十七篇を『金曜』に特集し、あとがきを執筆
同年26年8月 随筆「歯痛の神」を『金曜』に発表

 竹中と『金曜』を主宰していた西村貫一の関係は不明だが、創刊(昭和24年1月)当初から5回も執筆していて関係が深かったことがうかがえる。竹中は生涯神戸に住んでいたので、西村と接触する機会は多かっただろう。年譜に記載がないが、『金曜』12号,昭和25年1月中の既刊目次によれば、第10号*2に「こどもの詩」を執筆している。また、家蔵の22号の目次の写真を挙げるが、「表紙絵 竹中郁」とあり、20号,25年9月も目次に記載はないが同じ表紙である*3
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 国文学研究資料館「近代書誌・近代画像データベース」の「へちま倶楽部日誌抜萃::近代書誌・近代画像データベース」を見ると、昭和22年6月20日の条に「木原均、竹中郁、西村貫一関西文化協会(後全日本文化協会)の文案を作る」とある。更に、芦田章「神戸奇人伝(1)西村貫一 へちまくらぶの名物男」『歴史と神戸』昭和48年3月によると、西村は、木原、竹中、嘉治隆一、川崎芳熊と語らい「全日本文化協会」を創立。これは、会の運営費や調査費は世話人が負担し、会員の学者達に表芸(専門)と裏芸(趣味)を書かせ、収入は全会員に年一回配当して、学者達の生活を少しでも潤そうという趣旨のもので、昭和24年2月7日に第1回報告と配当を会員に発送したという。これでも、竹中と西村の強い繋がりがうかがえる。
 なお、冒頭の『金曜』の写真の表紙は、上段左から小磯良平、町田曲江、川崎杜芳、竹中、下段左から小磯、田村孝之介、川崎杜芳、小磯、五郎生*4です。
参考:「へちま倶楽部の西村貫一と雑誌『金曜』(へちま文庫)ーー『金曜』の終刊時期はいつかーー - 神保町系オタオタ日記

*1:竹中の「あとがき」によれば、伊賀上野の一農民

*2:昭和25年10月又は11月発行と思われる。「山口雅代児童詩集」特集号

*3:年譜によると、竹中は昭和26年1月『月刊神戸』の表紙も装幀している。

*4:増田五良と思われる。

「飯尾哲爾と『土のいろ』展」の図録を元「貸本喫茶ちょうちょぼっこ」の古本市で貰うーー遠州の柳田國男こと飯尾哲爾ーー

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 平成29年6月大阪で元「貸本喫茶ちょうちょぼっこ」の4人による古本市があった。古通豆本等を買えたが、無料本が何冊か置いてあって、その中にあった1冊。平成6年2月~3月に浜松市立中央図書館で開催された「飯尾哲爾と『土のいろ』展」の図録(浜松読書文化協力会・浜松市中央図書館、平成6年2月)。多分展覧会場で無料で配られた物であろう。しかし、所蔵館が稀で「日本の古本屋」にも出品がないので、このような貴重な冊子をただで入手できるのはありがたいことであった。
 飯尾は未知の人物だったが、昭和56年3月8日逝去後の新聞に「“遠州柳田國男”飯尾さん死ぬ」との見出しがついたという。よい子はみんな持ってる『昭和前期蒐書家リスト』(トム・リバーフィールド、令和元年11月)にも「郷土研究『土のいろ』発行」と出ている。図録から、経歴を要約すると、

明治27年6月2日 静岡県浜名郡曳馬村生
大正2年 浜松中学校卒。静岡師範学校入学
同3年4月 静岡県浜名郡可美尋常高等小学校に正教員として勤務
同10年4月 同郡曳馬尋常高等小学校に転勤
同11年12月 本杉亮平らと浜松子供協会を創立。会は童話・音楽・郷土研究・文芸の4部からなる。
同12年 浜松子供協会が『花火』を創刊。童話や子供の綴方等を掲載
同13年1月 浜松子供協会が『土のいろ』を創刊
昭和10年4月 曳馬西尋常小学校初代校長
同14年1月 『浜松童話』創刊。浜松子供協会は浜松放送局からの依頼で「遠江郷土かるた」を放送
同15年 用紙節約のため特高から『土のいろ』発行停止を命じられる。
同16年 富塚国民学校
同18年 追分国民学校
同21年3月 退職
同24年頃 布橋幼稚園園長
同30年~33年3月 同名誉園長
同30年8月 『土のいろ』復刊1号刊行 
同35年 曳馬農協理事
同44年10月 『土のいろ』「遠州子供の遊戯」(114号)で終刊
同56年3月8日 逝去

 『土のいろ』は、遠州地方の民俗、歴史、自然等を網羅しているが、
・大正15年「浜松土俗玩具号」(16号)
昭和2年遠州七不思議考」(19号)
・同年9月柳田國男が「蟷ろう*1考」を寄稿した22号
昭和3年「七不思議落葉集」
昭和6年東条操「静岡県方言の重要性」掲載の「方言特集号」
昭和11年「鴨江見世物特集」(70号)
が面白そうである。昭和56年から63年にかけて「ひくまの出版」から復刻版が刊行されている。全12巻と別巻・索引で、関係者の証言が載った「月報」も付いているというから、ぜひ見てみたいものである。

*1:虫偏に良