神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大正10年ローマ法王庁で皇太子(後の昭和天皇)に拝謁した5人のキリスト者のその後ーー立花国三郎・山口愛次郎・野田時彦・山中巌彦・松下佐吉ーー

昭和天皇実録』の人名索引を見てたら、驚きました。「東京帝国大学附属図書館司書小山栄三 - 神保町系オタオタ日記」や「日本大学総長山岡萬之助が主宰した宗教雑誌『宇宙』(宇宙社)と大東信教協会 - 神保町系オタオタ日記」で言及した神父を辞めて東京帝国大学附属図書館の職員になった立花国三郎が載っているのだ。慌てて大正10年7月15日の条を見ると、皇太子(後の昭和天皇)がローマ法王庁で法王ベネディクト15世と会見後、「布教聖省ウルバーノ神学大学に留学中の邦人神学生立花国三郎・山口愛次郎・野田時彦・山中巌彦・松下佐吉に謁を賜う」とあった。
立花については、「カトリック神父をやめてローマから帰っ」て、大正13年7月から昭和6年7月まで東京帝国大学附属図書館の職員を務めていたことがわかっていた。これでウルバーノ神学大学に留学していたことが判明した。また、『声』大正14年8月号(教友社)に立花(肩書は東京帝国大学文学部講師)が書いた「豚の群」に「私は六年振日本に帰つて来つて」とあるので、6年間留学していたようだ。
実録に名前の挙がっている5人のうち、3人は『日本キリスト教歴史大事典』に立項されている。山口は初代長崎大司教、野田は東京公教大神学校校長、山中はカトリック司祭(舞鶴教会主任司祭等)となる人物である。松下は、グーグルブックスによると長崎の神父となるようだ。ローマ法王庁で皇太子の謁見を受けた5人のキリスト者。立花だけは、学問の道を選んだようだが何があったのだろうか。

昭和天皇実録 人名索引・年譜

昭和天皇実録 人名索引・年譜

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  • 出版社/メーカー: 東京書籍
  • 発売日: 2019/03/28
  • メディア: 単行本

天狗倶楽部のバンカラ画伯小杉未醒が描いた明治期銀座のショーウィンドー ーー人文研における竹内幸絵先生の報告を聴いてーー

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昨年11月に人文研で開催されたシンポジウム「みることの広がりーー1910-20年代の展覧体験ーー」は、特に竹内幸絵同志社大学教授の報告が興味深かった。
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「ショーウィンドーはなにをみせたのかーー黎明期の全国的な流行から考える」と題し、明治末から大正初めに全国に普及したショーウィンドーについて、画期とも言える時期の概観と、ショーウィンドーが近代日本の市井の人々にもたらした体験に迫ったものである。
ショーウィンドーそのものは残らず、記録した史料も限られるので研究には苦労されておられるようだ。最初の例として、明治29年高島屋京都店による「流行品見本場」の看板が電飾された写真が残されているという。その後、36年三越白木屋などが続く。更に41年の『商業界』に東京、横浜、名古屋の小売店「店舗評判記」が掲載されていて、大都市の小売店へ設置が進展したことがうかがえるとある。早稲田大学に残っているのを発見した『ウヰンド画報』(大正4年7月創刊)にも言及されていた。これは、CiNiiではヒットしないが早稲田大学図書館のOPACで検索すると確かにある。CiNiiでヒットしないからと言って、諦めてはいかんなあ。同誌掲載の写真では地方の店舗に多数設置された状況を確認している。
ショーウィンドーの初の概説書は土屋長吉『店前装飾術』(実業之日本社明治38年6月)だという。「ショーウィンドー」の雑誌での使用例をざっさくプラスで検索すると、無記名の「店内装飾とショーウィンド」『流行』明治42年11月号が最初で85件ヒット。新聞データベースでは、明治42年5月5日読売新聞朝刊の「商店訪問記(六)」が最初で「飾窓」に「シヨーウインド」のルビがあった。「飾窓」をざっさくプラスで引くと無記名の「東京商店飾窓ーー(画)」『旅』7号(報知社、明治36年6月)が最初の例で368件ある。明治42年頃から「飾窓」から「ショーウィンド」に変わり始めたのだろう。もっとも、その後も「飾窓」の使用例の方が圧倒的に多い。「店前装飾」は余り使用されなかったようで、ざっさくプラスで25件。*1
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ところで、ショーウィンドーの絵葉書は持っていないが、天狗倶楽部のバンカラ画伯小杉未醒が描いた挿画を見つけたので、写真を挙げておく。原本は持ってないが、東京通人・小杉未醒『東京四大通』(左久良書房、明治40年)である。佐藤志乃『バンカラの時代:大観、未醒らと日本画成立の背景』(人文書院、平成30年8月)に掲載されていて、銀座の「店頭装飾」の紹介で、挿画について佐藤氏は「ショーウインドウにバイオリンや蓄音機、時計が並び、万国旗が垂れ下がる」と説明している。原本の本文にどのような記載があるのか見たいが、国会図書館にもなく、古書価も高いので見れんなあ(´・_・`)挿画には、確かにヴァイオリンのような物が置かれているのが見える。「明治30年代後半の女学生におけるヴァイオリンブーム - 神保町系オタオタ日記」で言及したが、この頃は女学生の間でヴァイオリンブームがあった。銀座のショーウィンドーにヴァイオリンを見つけたハイカラな女学生が父親におねだりするようなこともあっただろうか。

バンカラの時代: 大観、未醒らと日本画成立の背景

バンカラの時代: 大観、未醒らと日本画成立の背景

*1:他に「店窓」の呼称もあった。

明治30年代後半の女学生におけるヴァイオリンブーム

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木股先生のブログ「稲岡勝『明治出版史上の金港堂』: 表現急行2」に『THE RUSSO-JAPANESE WAR FULLY ILLUSTRATED』明治37年6月号に掲載されたヴァイオリンを弾く女学生の口絵(鏑木清方画)が紹介されていた。それでヴァイオリンを弾く女性の明治期の絵葉書を持っているのを思い出した。写真を挙げたが、シルヴァン書房から600円で入手。清方に比べると女性を描く画力は劣るが、譜面台はよく描かれている。宛名面に仕切り線がなく、「郵便はかき」・「POST CARD」とあるので明治36年12月から明治40年3月までの発行、切手が紫色の1銭5厘菊切手なので明治39年5月以降投函ということになる。消印が不鮮明だが、宛名面に「正月元旦」とあるので明治40年1月の年賀状なのだろう。
明治30年代後半に女学生の間にヴァイオリンブームがあったようで、ネットで読める高橋美雪「明治期のヴァイオリン:そのイメージと日本特有の受容の諸相」によると、明治38年9月6日東京日日新聞

○婦人界雑話 近時流行せる音楽の中にても殊にヴァイオリンは携帯に便なると其持歩く風がハイカラに見ゆるより女学生の如きは皆ヴァイオリンのみの志望者多く(略)

とあるらしい。ヴァイオリンを弾く女学生の絵葉書も多分数多く出たのだろう。

柳田國男のあやすーぃ友人南聡行は、南才三だった。

『倉富勇三郎日記』大正10年4月に柳田國男の知人として、何やら怪しい南聡行なる事業家が登場すると「民俗学とは柳田國男そのものを研究する学問であるーー柳田と大和高取の南聡行とのあやすーぃ関係ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した。一方、『柳田國男全集』別巻1の年譜に南才三という友人が出てくる。

(大正七年)
一〇月三〇日 京都の友人、南才三が来て、仁川の製鉄所の話をしていく。(略)

既に言及したが、『日本金融史資料:昭和編』24巻に大正7、8年頃朝鮮仁川で製鉄事業を経営した南聡行が出てくる。どうも、南聡行=南才三ぽくなってきた。更に、井上通泰南天荘次筆』(弘文荘、昭和11年6月)には、井上が岡山にいた明治30年代のようだが、柳田が岡山からの帰途に京都に立ち寄って「岡崎に住める大和国高取の人南才蔵」に会ったことが書かれている。「才蔵」とあって、「才三」ではないが、大和高取は南聡行の出身地と同じである。また、柳田は大正10年の段階で、聡行とは20年位の付き合いと言っているので、明治30年代半ばからの知り合いになるが、これも概ね合致するようだ。こうなると、南聡行=南才三=南才蔵の可能性が高い。後は、高取の旧藩主植村家壷関係を調べてみるか。なお、アジア歴史資料センターで「南聡行」を検索すると、大正9年3月の「内蒙民業公司」の設立関係など3件ヒットする。内蒙古でも事業を行っていたようだ。
追記:「美濃越前往復」『北国紀行』(実業之日本社、昭和23年11月)によると、明治44年7月22日京都の瓢亭で柳田、内藤湖南、南才三は会食をしている。

高橋箒庵が見た閨秀画家野口小蘋と小蘋挿画『画法自在』(博文館)

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日記の人名索引については、「おまいら、くだらないブログを書いてる暇があったら、索引をつくれ! - 神保町系オタオタ日記」で言及しことがある。谷沢永一クラスになると「人名索引より事項索引を」と言っていたが、わしクラスでは人名索引があればよい。ところで、最近ハマッている高橋箒庵(本名義雄)の日記『萬象録』には人名索引がない。実は、「凡例」には「解説及び人名・事項索引は、最終巻の巻九に収める」とあるのに、巻8刊行後20年以上経つが巻9は未だ刊行されていない。今さら出版してくれとも言えないので、思文閣にはせめて人名索引だけでもネットで公開してほしいものである。
さて、巻5に野口小蘋(のぐちしょうひん)が出てきた。最近関心を持っている女性画家である。

(大正六年)
二月十八日 日曜日 晴/寒暖計四十八度
(略)
[野口小蘋女史死去]
帝室技芸員野口小蘋女史昨日午前十一時死去す。享年七十一なり。女史名は親子、字は清婉、弘化四年正月大阪に生る、本姓は松村、明治十年野口氏に嫁し、京都の日根対山に師事し南宗[宋]画法を究め、又学を好みて詩を能くし画論に精しく書道に通じたり。余は今を距る事十五年前の大晦日に下條正雄氏の番町邸を訪問せしに座に小蘋女史あり、因て当代男女の大家が一堂に会したる記念として余の為めに合作を試むべしと言ひたるに、下條氏は急に筆硯を呼び、来年は夘年なれば兎を画くべしとて絹本の下の方に兎二疋を描きたるに、女史は上に旭日、下に福寿草を描き添へて新年の床に適当なる一幅首尾克く出来上りたり。其時小蘋女史の画風を見るに、軽々筆を下して何等渋滞なく積年の鍛錬到底近代画家の及ぶ所に非ず。されど其節は唯閨秀として珍しき画家なりと思ひたる迄なりしが、其後日本橋倶楽部にて蘭亭会の催しありたる時、女史の筆に係る蘭亭図一双の屏風を出品したる者あり。会稽山陰景色中に散点する人物の皆な能く活動し居るを見て、女流にして斯かる大手腕ある者は古今唯一人なりと思ひぬ。古来日本閨秀画家には狩野家に女雪信あり、大雅堂の室玉蘭、柳川星巌の室紅蘭あり、近くは奥原晴湖如き者ありたれども、小蘋の如き実力を具ふる者は断じて比類ある可からず。(略)扨て余の女史に面会したるは女史が五十六、七歳頃なりしが、風姿清楚にして其盛年の艶麗を偲ばるゝ程なりき。されども言語は明晰にして稍男性的なりしやう記憶す。惜むらくは女史死して閨秀画家中に堅実なる女史の筆致を相続する者なきを。
(略)

箒庵がベタ褒めしてるね。箒庵が出会った明治35年時は数えで56歳である。明治期の小蘋が挿画を画いた『画法自在』(博文館、明治31年3月)を持っているので紹介しておこう。本の構成は、目次の次に小蘋の挿画が100頁続く。
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その後上段にヴァンダイク「西画鑑賞法」の翻訳、下段に野口勝一「画法自在」が続く。上下に特に対応関係はない。NDL ONLINEは野口著のみ記載、CiNiiは奥付から大橋又太郎編としていて、チグハグである。「近代書誌・近代画像データベース」はすべて記載している*1。なお、既に蔵書印さんに御教示いただいた「社章」と同じものではあるが、本書裏表紙に「戦前期における裏表紙に刷られた出版社ロゴマークの美学 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した博文館の「社章」とは別の種類の物があった*2
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*1:ただし、タイトルが『画学自在』となっている。

*2:中心に旧蔵者の「幸太郎」印が押されている。

桜井小太郎が設計した日本最初期の鉄筋コンクリート造住宅としての和田維四郎邸

以前ジュンク堂の怪人さんが「大坪砂男の父、和田維四郎の邸宅の設計者はだれなんだろう? | ジュンク堂書店日記」で言及していた和田維四郎の住宅。「日本最初の本格的洋風個人住宅」だったらしいが、ググッたら設計者が判明。「材料からみた近代日本建築史 その5 鉄筋コンクリート|特集記事資料館|建設総合ポータルサイト けんせつPlaza」で、和田邸は桜井小太郎が設計した日本最初期の鉄筋コンクリート造住宅だという。桜井についてはWikipediaに立項されているので、詳しくはそれを見られたい。大正2年海軍技師を退官して三菱合資会社地所部に採用されているので、「二人の蒐集家赤星五郎(赤星鉄馬の弟)と赤星陸治を繋ぐ柳田國男 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した赤星隆治の部下ということになる。なんか皆繋がってくるね。桜井は、横浜正金銀行神戸支店(現神戸市立博物館)も設計している。
この和田邸だが、高橋箒庵の日記『萬象録』巻7に出てきた。いやはや、どれだけ恐ろしい日記だ、これは。

(大正八年)
七月十三日 日曜日 晴
[和田維四郎氏住宅]
午前九時、牛込薬王寺町和田維四郎氏宅を訪ひ、先般氏の口添へに依り酒井忠道伯家茶器拝見の謝礼を述べたり。氏の住宅は全部鉄筋コンクリートにて造作は日本西洋合の子の趣向面白く、洋風椅子、テーブルの間に日本床ありて探幽斎筆龍頭観音を掛けられしが、黒龍の上に白衣観音図無類の出来にて表具も極めて結構なれば、如何にして斯かる名幅を得られしやと聞きしに、是れは久原房之助氏より貰ひ受けたるなりと云ふ、さもありなむ。(略)又故藤田伝三郎氏より度々掛物を貰受けたる其数十二幅に達せしが、大半偽物にて真正なる者は只二幅に過ぎず(略)

和田は鉱物学者で、蒐集家としても著名である。「NIJL 蔵書印データベース」では雲村文庫印など3件ヒットする。住居も当時としては相当凝った造りだったようだ。

『柳瀬正夢全集』4巻+別巻(三人社)が無事完結

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京都の出版社三人社による『柳瀬正夢全集』の内容見本を三月書房から入手したのは、6年以上前の平成25年だった。内容見本を善行堂で見せると、これは是非うちでも取り扱いたい本だと言うので、差し上げた。その後、目の肥えた客が多い善行堂、既刊分をまとめ買いする人も出たりして、売れ行きが良かったらしい。1冊当たりの本体価格が1万5千円~1万8千円もするから個人で買うのは相当厳しいはずだが、さすが善行堂である。
別巻の内容は、
・ポスター
・補遺
・[解題]柳瀬正夢、人と作品 白井かおり
 [解説]漫画家・柳瀬正夢 片倉義夫
・(コラム)柳瀬正夢の仕事
・同時代評
・回想録
・あとがき
・著作目録(総目録)
・年譜
・<目録>同時代評
・<目録>その他関連文献(同時代)
・<目録>作品・作家論ほか(没後)
別巻の「回想録」から小牧近江「“種まく人”と柳瀬正夢」(『美術運動』49号、昭和30年6月)の一部を引用しておこう。

(略)柳瀬はばくだんが好きでした。そのばくだんで[昭和二十年]五月二十五日になくなつた。戦争の犠牲者となつて死んだのです。もしヤナセが今日生きていてくれたら、どのようなことをしてくれているでしようか。ヤナセがなしえなかつたことを年寄を含めてやりとげなければならない。ぼやぼやしていると爆弾をぶつとばすよと柳瀬が地下でいつているように思います。

谷沢永一だったか、全集が完結しても書評が出ないと嘆いていた気がするが、本全集も1巻や2巻の書評はあったが、完結後書評は出ただろうか。昨年7月に完結したので、出るなら既に出たはずだが見た覚えがない。今からでも書評や完結の報道をお願いしたいものである。私は、柳瀬については「国木田独歩と秋田雨雀 - 神保町系オタオタ日記」や「柳瀬正夢と柴田宵曲の出会い - 神保町系オタオタ日記」などで言及したことがある。前者では、昭和17年柳瀬が国木田独歩の三十五回忌に出ていたことがわかる。全集別巻の年譜に記載のない事績や未収録の作品を見つけたら、随時このブログに挙げていきたい。