神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

荻原井泉水も泊まった京都の文人宿萬屋

あけおめ。今年もよろしくお願いします。
明治45年1月4日荻原井泉水は新年早々京都へ向かった。読書好きの井泉水は車中でも本を読んでいた*1

八時半ノ汽車ニテ新橋発。車中ニテハ午前中『刺青』(谷崎潤一郎)ヲヨム。(略)

そして、翌日京都で泊まった宿が萬屋である。「京都の文人宿万屋主人金子竹次郎が残した日記 - 神保町系オタオタ日記」や「『京都人物山脈』(毎日新聞社)に万屋主人金子竹次郎 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介した宿だ。

(略)一時余京都着、ミヤコホテル出張所ニテ午食(略)ソレヨリ三条小橋万屋ニ入ル。(略)

この年、谷崎潤一郎も上洛し萬屋の主人と知り合い、「朱雀日記」が新聞に連載された。しかし、谷崎が上洛したのは4月(新聞連載も同月から)なので、井泉水は同日記を通して萬屋を知ったわけではない。
実は井泉水は明治42年10月に萬屋へ泊まった漱石と面識があった。井泉水の日記明治37年2月3日の条によると、

たま/\夏目漱石さんにあふて七日の大会に出席して下さらんかと頼んだが曖昧な返事をしてをられた。

年譜によれば、井泉水は明治36年2月柴浅茅らと一高俳句会を興し、同年4月以降例会は内藤鳴雪河東碧梧桐高浜虚子が指導し、漱石も時々出席したという。萬屋のことは、漱石から直接ではなくても、漱石周辺の人物から聞いたのかもしれない。谷崎のように主人の金子と親しくなってはいないので、所在不明の金子の日記には名前は載っていないだろう。

*1:『井泉水日記青春篇』下巻(筑摩書房、平成15年12月)。以下同じ。

大正5年10月に開催された臨済宗大学(現花園大学)学長釈宗演の碧巌満講会

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年末ギリギリに『図書』1月号を確保。長谷川櫂「悩める漱石」を読むと、氏の曽祖母円覚寺に縁があり、大正2年夏管長だった釈宗演が曽祖母に与えた書が残っているという。そして、

夏目漱石は明治二十七年(一八九四年)暮れから翌年正月の十数日間、円覚寺で参禅した。大学を出て英語教師になっていた。このとき漱石に対したのが若き日の宗演である。この参禅体験は十六年後に書いた『門』に描かれている。

と続いた。そう言えば、昨年宗演の100遠諱記念で「明治の禅僧釈宗演」(花園大学歴史博物館)が開催されたのを思い出した。図録を見ると、『居士名簿』に確かに漱石の本名夏目金之助の名がある。年譜によると、漱石明治27年12月23日に参禅している。
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最近は近代仏教の研究者に会ったり、著作を読む機会が増えたので見に行ったのだろう。しかし、いい爺さんになっちゃったので展覧会の内容はまったく記憶に残っていない(´・_・`)
さて、数年前までは宗演なんて知らなかったオタどんだが、一旦覚えると自称人間グーグルが機動しちゃうのである。だいぶくたびれた人間グーグルではあるが、最近お世話になっている高橋義雄の日記中に宗演に関する記載を発見。『萬象録』4巻中で、

(大正五年)
十月二十一日
(略)
[釈宗演の碧巌満講会]
午後一時、早川千吉郎氏宅に開かれたる碧巌会満講会に出席す。碧巌会は明治三十九年大石正巳、早川千吉郎、野田卯太郎、朝吹英二、大岡育造、徳富猪一郎等の発起に係り、鎌倉円覚寺の釈宗演師を聘して毎月一回碧巌の提唱を聴聞し来りしが、十一年目の今日に至りて満講と為りたるなり。大岡育造、加藤正義外五、六十人の参聴者あり。広間三間続きの上段の間に高き曲彖を置きて宗演師其上に座し、本日は第九十九則国師十身調御、第百則巴陵吹毛剣の二則を提唱し、時々時勢を諷して聴衆に感動を与へける(略)宗演師は五十四、五歳と見受けられしが、数年前一見の際は今少し書生風を帯び居りしに今や殊勝なる僧形と為り、曲彖の上に座したる処を見れば余り品格ある相貌には非ざれども、臨済諸禅師中に斯かる肖像を見受くる事あり、眼光鋭く説法に底力ありて能く人を感動せしむる。其禅話中、近来禅学流行とて猫も杓子も之を口にし、僅か数則に通ずれば早や大悟徹底したるが如く思ふ者あれども、禅は実地研究を以て得らるべきものにして尋常口舌文字の間に得らるべきものに非ず、と世の軽薄なる禅学者を罵倒する(略)

宗演は安政6年12月現在の福井県大飯郡高浜町生まれなので当時、数え58歳。この時、臨済宗大学(現花園大学)・花園学院学長。明治18年慶應義塾入学だから、高橋とは同窓になる。日記中「数年前一見」とあるのは、『萬象録』1巻大正元年9月21日の条の事と思われる。三井集会所で開催された碧巌提唱で、高橋のほか、大石、野田、大岡、加藤、樺山愛輔夫人*1ら総勢6、70名が出席。高橋は大内青巒の提唱を聴いたことがあるので、両者を比較している。
宗演に関しては井上禅定『釈宗演伝 禅とZENを伝えた明治の高僧』(禅文化研究所、平成12年1月)という伝記というより詳細年譜の感がする書があるが、ここまで詳細な記載はない。宗演の研究者の方が御存知無ければ、参考にしていただきたい。
今年も今日で終わり。来年もよろしくお願いします。

釈宗演伝-禅とZENを伝えた明治の高僧-

釈宗演伝-禅とZENを伝えた明治の高僧-

  • 作者:井上 禅定
  • 出版社/メーカー: 禅文化研究所
  • 発売日: 2000/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

*1:樺山常子。川村純義の娘で、白洲正子の母

聴竹居の建築家藤井厚二の原点ーー東京帝国大学を卒業直後に新式日本倉庫を提案ーー

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数寄者高橋義雄の日記を色々使ってきたが、今回は藤井厚二。意外にも同日記には建築家も何人か出てくるが、今年京都文化博物館で「太田喜二郎と藤井厚二ーー日本の光を追い求めた画家と建築家ーー」展が開催された藤井にしよう。アサヒビール大山崎山荘美術館に行かれたことがある人は、トンネルを抜けて美術館に向かう途中の左手にある聴竹居を見たことがあるだろう。その住宅を設計し、住んでいた人物である。高橋の日記『萬象録』巻1によれば、

(大正二年)
八月二十八日 (略)
[藤井工学士の新式日本倉庫]
午前藤井厚二氏来宅、氏は帝国大学建築科卒業の工学士にして日本の土蔵に就き研究中の由なるが、国民新聞社の阿部充家氏の紹介を以て来訪せしなり。氏は従来日本の土蔵は防火の為め其窓を小さくして空気の流通を妨ぐるが為め湿気を増加するの恐れあり、就ては西洋の書籍館等に其例あることゝて、窓を廃して倉庫内を暗室と為し電灯を以て日常の用を弁ずる、其電気は入用の時に外部の電気と接続せしめて全然火災の危険を防ぎ、空気の流通は倉庫内を貫通する一個の筒を以てするの考なりと云ふ。余は敢て賛否を表せず、其図案の出来上りたる上にて批評すべしと言ヘリ。但し倉庫は日本建築中最も必要の部分なれば、十分に研究して藤井式倉庫なるものを工夫して以て公衆の便宜を謀るべしと勧告し、右倉庫研究に就き平岡其他の倉庫一覧の紹介を為すべく約束せり。
(略)

[ ]内は、原本欄外にある見出しを校訂者が本文に挿入したもの

谷藤史彦『藤井厚二の和風モダン 後山山荘・聴竹居・日本趣味をめぐって』(水声社、令和元年7月)の年譜によれば、大正2年7月東京帝国大学工科大学建築学科卒、卒業設計は「A Memorial Public Library」、同年10月合名会社竹中工務店入社。同社在職中の大正7年千家尊福の娘壽子と結婚。日記の大正2年8月は東大を卒業して、竹中工務店へ入るまでの時期に当たる。藤井は後に住宅の通風に床下と屋根裏をつなぐ通気筒を用いるが、その原点がこの新式日本倉庫にうかがえる。おそらく、この記述は藤井の研究者も気付いていないだろう。実に多彩な人物が登場する日記である。
参考:「数寄者高橋義雄の日記『萬象録』を使って稲岡勝『明治出版史上の金港堂』に補足 - 神保町系オタオタ日記

藤井厚二の和風モダン: 後山山荘・聴竹居・日本趣味をめぐって

藤井厚二の和風モダン: 後山山荘・聴竹居・日本趣味をめぐって

日本大学総長山岡萬之助が主宰した宗教雑誌『宇宙』(宇宙社)と大東信教協会

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先日の人文研における古本バトルに引っ張り出されて、『宇宙』など3誌を紹介。『宇宙』についてはあまり調べずに臨んでしまったが、その後色々判明したので補足しておこう。『宇宙』8巻3号(宇宙社、昭和8年3月)を見つけたのは、今年の知恩寺の古本まつりに行く途中の吉岡書店で発見。1,000円もするのでまつりの初日に見つけながら迷ったが、何日経っても売れ残っていたので、購入。「宇宙」というタイトルだけ見て、手にしたことのあるSFファンもいそうだが、表紙の上の方にあるように宗教雑誌である。目次の写真を挙げておく。
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大谷尊由「親鸞教義の文化的倫理的地位」や紀平正美「宗教信仰の三階段ーー神道精神を基調としてーー」のような固い記事もあるが、浅井謙吾「霊は実在するか 前東北帝大総長井上仁吉博士に聴く」や補永茂夫「心霊実験会に立会つて亡父の霊と語る」のようにオカルト記事もある。目次からわかるように本誌は仏教・神道キリスト教などの特定の宗教・宗派に偏らない一般宗教雑誌である。本号の前後の号を見たが、
中山忠直「日本人の強さの原因はどこにあるか」(昭和8年6月)
鳥居龍蔵「満蒙の宗教」(同年7月)
福来友吉「我が国民性と霊魂不滅」(昭和9年1月)
金子白夢「宗教勃興期に際してーー宗教人格への待望ーー」(同年10月)
など、拙ブログでお馴染みの人が執筆していて良さげな宗教雑誌である。安食文雄『20世紀の仏教メディア発掘』(鳥影社、平成14年8月)に「企画のユニークさもあって人気が高く、現在でも古書値が高い」とあるわけである。最近読んだ目時美穂『油うる日々:明治の文人戸川残花』(芸術新聞社、平成27年3月)によれば、戸川が巌本善治とともに明治28年7月に創刊した『日本宗教』も特定の宗教・宗派の布教宣伝のために作られたものではなかったという。こういう一般宗教雑誌はあまり研究の対象とされないだろうが、『宇宙』は日本大学総合学術総合センター天理図書館などを合わせると、創刊号(大正14年3月)から終刊号?(昭和19年9月)まで揃うので、誰か研究してほしいものである。
本誌の表紙に「山岡萬之助監修」、奥付の編輯発行兼印刷人に「宇宙社内/椎名正雄」とあるが、主宰者は山岡だったようだ。8巻10号,昭和8年10月に「宇宙社会長山岡萬之助博士」が日本大学総長に就任したという記事がある。また、昭和9年版『仏教年鑑』の「現代仏家人名録」によると、椎名は明治30年2月15日生、日本大学宗教科卒、日本大学主事で『宇宙』編輯とあった*1。吉永さんから日本大学宗教科と関係があるのではないかと言われて、山岡は法学博士だから関係ないでしょうと言ってしまったが、関係あるかもしれない。そもそも日本大学宗教科は、初代学監だった山岡が推進して大正6年4月姉崎正治を顧問として設置されたものである。編輯を担当した椎名が日本大学主事で、執筆者も同大学関係者が多い。ただし、日本大学が組織として関与したのか、学長・総長だった山岡が個人として発行していたかは不明。なお、宇宙社の所在地は丸ノ内海上ビルである*2
本号に掲載された記事を紹介しておこう。先ずは、浅井による井上前東北帝大総長へのインタビュー。

浅井 そうしますと日本的キリスト教といふのはどういふことになりませうか。
井上 (略)一寸脱線する様ですが、私は嘗て小谷部全一郎氏の「日本国民の起源」といふ本を大変面白く読みましたので此際一寸お話して見ませう。(略)日本に来た此の種族(略)こそ本当の神の撰民であり旧約に記るされた如く世界を支配する国柄だ、と神道者である小谷部氏は非常に愛国的熱情に燃へて結論をいふのです。斯うした説に近いものは大本教日蓮宗の田中智学氏等も説いてゐるが小谷部氏は科学的に推論されてゆくので大変面白いと思つたのです。

井上は小谷部の日ユ同祖論を全く正しいとすることはどうかとも言っているが、だいぶ信じていた様子がうかがえる。この井上博士、見覚えがあると思ったら「内務省検閲官が残してくれた田多井四郎治・小寺小次郎の『神代文化』(神代文化研究所) - 神保町系オタオタ日記」で言及した偽史運動を推進した神代文化研究所の所長であった(*_*)
補永の記事は、父親だった神道学の権威で日本大学教授だった故補永茂助の霊を交霊会で呼び出した記事である。詳しくは『婦人世界』に載っているようだが、小田氏や亀井霊媒が出てきて、小田秀人と亀井三郎だろう。
「今様フランチエスコ」を書いた立花國三郎については、「司書官山田珠樹 - 神保町系オタオタ日記」で言及した元カトリック神父である。東京帝国大学附属図書館職員だったが、館長だった姉崎により日本大学へ送り込まれたのだろう。
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宇宙社との関係はわからないが、本号には「大東信教協会々則」が載っている。大東信教協会は日本宗教会を改称したもので、第5条に会員には宗教哲学雑誌の雑誌を配布とあるので、それが『宇宙』なのだろうか。創刊号を見れば、わかるかもしれない。
ところで、山岡が主宰したこの『宇宙』、今泉定助もしばしば寄稿しているが、2人とも並木軍平の皇道図書館の名誉顧問であった。もしかしたら、皇道図書館に関する記事が載っているかもしれないだすよ。

*1:昭和13年版『仏教年鑑』の「現代仏教家人名録」には、「目下『大神道』誌の続刊を企つ」とある。

*2:このビル内には、大正7年8月に創立された赤星鉄馬の啓明会の事務所も入っていた。

大正14年三村竹清が目撃した柳田國男に同行する謎の西洋人の正体が判明

柳田國男全集』別巻1の年譜を読んで最も驚いたのは、次の記述。

(大正一四年)
一一月 このころの秋の一日、国際連盟で知り合いとなったオーストラリアから来日中のウィルソンが、工業が盛んな近郊の農村を見たいというので、為正を連れ八王子市内から百草丘陵を歩く。

出典は記載されていないが、柳田為正『父柳田國男を想う』(筑摩書房、平成8年4月)のようだ。このウィルソン、「柳田國男と謎の西洋人 - 神保町系オタオタ日記」で言及した三村竹清(本名清三郎)が國男と遭遇した時に同行していた謎の西洋人だろう。三村の日記大正14年11月23日の条を再掲すると、

八王子にて大義寺を尋ねて元横山町を曲れは かなたより洋服きたる二人連来る 見覚えありつるやうに思ふ近より見れは 柳田國男氏なり 不しきの処にてといへは この西洋人か田舎をみたしといふまゝに 丁度こゝまての汽車ありけるまゝに来りし也と云 わかれて大義寺へゆく

為正が出て来ないが、年月と八王子という場所が一致する。これで、謎の西洋人の正体が判明した。民俗学者の諸君、やはり三村の日記を読みましょう。
参考:「柳田読みの柳田知らずーー『柳田國男全集』第34巻中「旅の文反故」解題への補足ーー - 神保町系オタオタ日記

大幅に増補された柳田國男詳細年譜を楽しむ

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柳田國男全集』別巻1(筑摩書房平成31年3月)は、小田富英氏作成の詳細年譜。ざっと読んでみた。『別冊 柳田国男伝 年譜・書誌・索引』(三一書房、昭和63年11月)も随分詳細な年譜と思っていたが、この81頁の年譜に対し今回の年譜は驚くべき5倍の415頁。追加された事項で特に気になったものを挙げておこう。

(昭和九年)一月二四日 人文書院が来る。(略)
(昭和二二年)一〇月二一日 藤沢親雄が訪ねてきたので、昔話研究について語る。
(同年)一一月一三日 雑誌を送ってほしいと頼んでいた関根喜太郎から返事が届く。(略)

人文書院がどういう用件で来たのか、関根喜太郎に頼んだ雑誌は何だったのか気になる。また、「柳田読みの柳田知らずーー『柳田國男全集』第34巻中「旅の文反故」解題への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した柳田の「旅の文反故」について、明治34年12月8日の条で「姉の貞宛ての手紙」としている。全集34巻の解題時には姉の順宛と推定していたのを修正している。拙ブログ「柳田國男の書簡流出事件の真相 - 神保町系オタオタ日記」の存在に気付いていただいたのかもしれない。ただ、年譜には確定的に書くべきではなく、「姉宛て(貞宛てと推定)」とすべきではないか。この事項ではなく、別の事項に関してではあるが、別巻の月報の座談会で、

石井(正己) この年譜自体がある意味で「小田年譜」みたいなもので(笑)、小田さんの読み方とかかわりながら出てきているところがありますか。
小田 危ないですかね、それは(笑)。

というやりとりがあって、その点で利用に当たっては注意が必要である。
拙ブログには、「柳田國男」のカテゴリーを作り、柳田の定本や既刊の全集における誤りや未記載の指摘をしたが、筑摩書房には連絡をしなかった。あれこれ指摘しておけばよかったかなあ。例えば、
柳田國男と謎の西洋人 - 神保町系オタオタ日記
『柳田國男全集』(筑摩書房)に漏れたる著作 - 神保町系オタオタ日記
土俗趣味社の『百人百趣』ならぬ『百人一趣』を確保ーー『柳田國男全集』の誤りを正すーー - 神保町系オタオタ日記
昭和14年1月柳田國男と尺八の公開演奏会で出会った満洲国暦法顧問佐藤了翁 - 神保町系オタオタ日記
である。

仏教者としての寿岳文章と父鈴木快音

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ここに文庫櫂で入手した寿岳文章の年賀状がある。宛先は福井県大飯郡青郷村(現高浜町)にある中山寺(なかやまでら)の住職であった杉本勇乗宛である。昭和27年、29年と30年の3枚。うち昭和27年の年賀状には、「(略)このバビロンのやちまたの地獄へたゞ□墜ちてゆくらし」とあるようだ。年賀状に「地獄」という言葉を使うのは違和感があるが、某先生にお見せすると「ダンテ『神曲』からでしょうか」との話であった。寿岳が昭和49年~51年にかけて『神曲』の訳書を3巻出していて、「地獄篇」と「煉獄篇」だったか2冊だけは確認してみたが同種の記述はなかった。残りの篇を確認する必要があるが、寿岳のオリジナルか、前年に博士論文の題材としたウィリアム・ブレイクの可能性もある。
この僧侶杉本と寿岳の関係はよくわからない。中山寺のホームページによれば同寺は真言宗御室派。寿岳は兵庫県明石郡押部谷村(現神戸市西区押部谷町)の龍華院の住職鈴木快音の3男に生まれたが、同寺は真言宗高野派である。同じ真言宗という共通点はある。また、杉本はネットで読める『種智院大学同窓会報』27号,平成14年1月の「会員消息」に訃報(平成13年11月遷化)が掲載されている。一方、寿岳は昭和2年から京都専門学校*1(種智院大学の前身)の教授であった。更に、寿岳と親しかった新村出宛の書簡を保管する重山文庫に杉本の書簡が存在する。以上のような繋がりは判明したが、詳細は不詳である。
寿岳については、英文学者や和紙研究者としての側面は研究が進められているが、仏教者としての側面を忘れてはいけないだろう。「ざっさくプラス」によれば、『密宗学報』162号,昭和2年1月に「慈雲尊者の詩歌」を、168号,同年8月に「カバラ(希伯来密教)の教義」を執筆している。また、先日開催されたNPO法人向日庵主催の研究会「寿岳文章一家 その人と仕事を追う」の井上琢智「関西学院の英語教育と研究ーー寿岳文章をめぐる人びとーー」で知ったが、大正12年関西学院高等学部文科の卒論は当初「ウイリアム・ブレイクの思想に見出される華厳思想の用語」だったが、「ウイリアム・ブレイクの『ジェルーサレム』」に改題されたという。
そもそも寿岳について語ろうと思えば、まず父鈴木快音を調べねばと思ったが、これまたよくわからない。「人事興信録データベース」で長男鈴木敏一(寿岳の長兄)がヒットして、生年はわかった。要約すると、

鈴木敏一
明治18年8月生
父快音(安政3年6月生、小林伊兵衛4男)と母はる(文久2年1月生、小林平太2女)の長男
大正3年東京帝国大学理科大学数学科卒
第一生命保険相互会社アクチュアリーにして東京物理学校講師、東北帝国大学理学部の講義補助
妹ひでの(明治25年1月生、兵庫県人三枝快忍の嫁)
弟規矩王麿(明治33年3月生、同県人寿岳賢隆の養子)

父快音の没年は、第一ビルディング株式会社社長、前第一生命保険相互会社副社長であった敏一の追悼特集をした『保険評論』11巻8号(保険評論社、昭和34年7月)に寿岳が書いた「亡兄のこと」に81歳で死んだ父、87歳で死んだ母とあるので、父は昭和11年頃、母は昭和23年頃亡くなったことになる。仏教者としての寿岳や父快音については、種智院大学に寿岳に関心のある先生がいれば、研究が進展しそうだがどうだろう。
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*1:従来の年譜のママ。京都専門学校への改称は昭和4年なので、真言宗京都大学が正しいようだ。