神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

詩誌『骨』同人大浦幸男先生の父大浦八郎


百万遍知恩寺秋の古本まつりの初日、座って何やら雑誌を読んでいる某先生。声をかけると、「これ読んでると色々載っていて楽しい」と。『會報』、三高(第三高等学校)同窓会の会誌である。神戸古書倶楽部で小松左京の講演か何かが載った号を買った覚えがある。戦後の雑誌はあまり関心がないが、一回りしてきたら、同誌がなぜか中文の1冊200円3冊500円のコーナーに大量に積まれているのを発見。某先生の漁った後ではなあと思いつつ、冷やかしで1番上の42号(昭和48年5月)の目次を見ると、大浦幸男「亡父大浦八郎のこと」が載っていたので購入。『孤塔の詩人イェイツ』(山口書店、昭和37年11月)などの著作で知られる大浦先生。父親は三高教授だったと聞いてはいたが、詳しいことは知らなかったので他の号と併せて、500円プラス消費税で。これまで、下鴨神社とここの2つの青空古本まつりは内税方式だったが、今回から外税に。これまで内税だったから、一度に10%アップの感がある。もっとも、店によっては税込みで3冊500円の所もあった。
さて、記事を要約すると、大浦八郎は、

明治16年9月 兵庫県生まれ。
? 龍野中学校第1回卒業生
? 三高併設の臨時教員養成所卒
? 静岡中学校勤務(2年間の義務期間)
? 東大英文科選科卒。同級生に田中秀央
? 京都の真宗中学勤務(2年間)
明治44年 三高教授
昭和4年8月~6年4月 文部省の在外研究員として渡英
戦後 大阪市立大学講師
昭和27年 池坊短大教授
昭和29年~45年 同学長
昭和47年10月 没

これに補足すると、明治37年第4臨時教員養成所第1回卒業生、明治39年東京帝国大学文科大学文学科選科入学。記事には、父八郎から夏目漱石の話は聞いたことはないが、東大在学中ローレンスという英文学の先生に可愛がられたらしいとあった。なお、大浦先生は京都の詩誌『骨』(昭和28年11月創刊)の同人であった。

煩悶する明治の青年達が読んだ桑原俊郎『精神霊動 第一編 催眠術』

f:id:jyunku:20191101183603j:plain
明治大学中央図書館ギャラリーで「城市郎文庫展ーー出版検閲とその処分」が11月17日(日)まで開催中である。発禁処分を受けた偽書、藤村操著・岩本無縫編『煩悶記』(也奈義書房、明治40年6月)が展示されているらしい。明治36年5月に自殺した藤村操の影響を受けたのか、元々時代がそういう雰囲気だったのか、この時期は煩悶する青年達の時代だった。そして、催眠術ブームの時代でもあった。
一柳廣孝『催眠術の日本近代』(青弓社、平成9年11月)によれば、「明治三十六年(一九〇三年)、催眠術ブームは、一気に加速した」。催眠術関連書が明治36年に16冊、37年に23冊、38年に14冊刊行されているという。催眠術ブームの背景として、

まず、注目すべきは新たな催眠術ブームのスタートが、いわゆる「煩悶の時代」のスタートと重なっていることである。「煩悶の時代」は、明治三十六年五月二十二日、第一高等学校学生、藤村操が日光・華厳の滝から投身自殺した事件に始まる。藤村の残した遺書「巌頭之感」は、明治日本の選択した「西洋近代」に対する強烈なアンチ・テーゼとみなされ、同世代の知的青年層に大きな影響を与えた。若者たちは思想的・宗教的「煩悶」の重要性を声高に叫び、物質中心主義・実利主義を批判した。精神優位の時代の幕開けである。

このような時代背景の中、桑原俊郎(天然)の『精神霊動 第一編 催眠術』(開発社、明治36年8月)が刊行された。大川周明が同書を明治37年に読んでいたことは、「明治36年前後の催眠術ブーム(その3) - 神保町系オタオタ日記」で紹介した。今回もう一人煩悶する青年荻原井泉水を加えることができる。『井泉水日記 青春篇』(筑摩書房、平成15年12月)から引用する。

(明治三十八年)
一月二日
(略)
桑原氏『精神霊動』第一論(催眠術)をよむ、宛も我が云はんと欲せる所を云へり。唯我は何となくかく信じをりしに氏はこれを一々実験に徴せられしのち信ぜられし差あるのみ。
 「現時は追て大哲人の出る序幕である。将来の釈迦や基督は今頃は誰の母胎に宿らうかと母胎の人選中である」
をよんで身体がぞく/\としたり。  同日
同氏『実験記憶法』をよむ。(略)

荻原の年譜によれば、明治34年9月第一高等学校入学、36年10月精神錯乱を覚え、以後神経衰弱の記述が(日記に)見られる。38年6月同校卒業。同じ一高生である藤村の自殺には特に影響を受けたのかもしれない。栗田英彦・塚田穂高吉永進一編『近現代日本の民間精神療法』(国書刊行会)の「民間精神療法主要人物および著作ガイド」によると、

桑原俊郎(一八七三-一九〇六)は、第二期催眠術ブームの立役者であるとともに、後に続く民間精神療法のパイオニアでもある。静岡師範学校の漢文教師であった桑原は、近藤嘉三『魔術と催眠術』を読んで一九〇一(明治三四)年ごろから催眠術実験を始め、その結果を教育雑誌『教育時論』に発表し、評判を呼ぶことになる。(略)

煩悶し、桑原の催眠術書を読んだ荻原は、霊術家とならず、俳人になり名を残した。
参考:「桑原俊郎『精神霊動第壱編催眠術』(開発社、明治36年9月4版) - 神保町系オタオタ日記

栗田英彦・塚田穂高・吉永進一『近現代日本の民間精神療法』(国書刊行会)へ若干の補足

f:id:jyunku:20191030210230j:plain
栗田英彦・塚田穂高吉永進一『近現代日本の民間精神療法 不可視なエネルギーの諸相』(国書刊行会。以下「本書」という)を御恵投いただきました。ありがとうございます。井村宏次先生の「近代日本異端医療の系譜ーー維新以後の霊術家の饗宴」が『迷宮』3号(迷宮編集室、昭和55年7月)に掲載されて39年、『霊術家の饗宴』(心交社、昭和59年1月)*1が刊行されてからは35年。ようやくと言っていいだろうが、戦前期日本における霊術・精神療法に関する多面的・体系的・国際的な研究がまとまった。私も天下茶屋にあった井村先生の研究所に何度か行ったことがあるが、井村先生が生きておられたら、本書の刊行をどれだけ喜ばれたことだろう。
リサーチマップの「研究キーワード」で本書のタイトルにも使われている「民間精神療法」を検索すると、吉永氏の他には兵藤晶子氏しかヒットしない。まだまだ定着していない用語のようだ。ちなみに、「霊術」はゼロ(^_^;)「精神療法」では、栗田氏を含め62人。もっとも、単に「精神療法」というと霊術とほぼ同義語である戦前の「精神療法」と、現在使われている精神医学上の用語としての「精神療法」があり、62人には両者の研究者が混在していることになる。本書により「民間精神療法」の研究が一層進展することを祈念しております。
さて、本書について、鎌田東二氏の書評が『仏教タイムス』令和元年10月17・24日合併号に掲載された。鎌田氏のような今後の研究方向を示唆するような大局的な書評は私には書けないが、摘まみ食いして細部の補足はできそうだ。
鎌田氏は「近代科学とオカルトとの間をつないだ「変態(変体)心理学」の展開との関係や教育界への影響も興味深い問題点であろう」としている。本書には、注意術(催眠術)の村上辰午郎と『変態心理』の中村古峡との関係について、中村が村上の技量を第一人者と評価していたこと(329頁)や中村が村上に催眠術を学び心理療法を始めたこと(367頁)は書かれている。鎌田氏はこれ以外にどういう事を示唆しておられるのだろうか。ところで、本書では村上の生没年を不詳としているが、「セセッション式流行の大正初期に発行された村上辰午郎の『大正婦女社会』 - 神保町系オタオタ日記」で私が明らかにしたところである。また、村上の催眠術普及運動に言及した一柳廣孝『催眠術の日本近代』(青弓社、平成9年11月)も触れていないが、村上は『大正婦女社会』(大正婦女社会)という婦人雑誌を発行していた。『主婦之友』の心霊記事は著名だが、婦人雑誌と民間精神療法の関係も重要なテーマだろう。中村の村上への入門については、曾根博義中村古峡の履歴」『新編中原中也全集』別巻下(角川書店、平成16年11月)から引用しておこう。

日記とは別に「接神術治療日誌第一巻自大正四年/至大正六年」なる手帖も残っていて、その冒頭には次の記述がある。
 大正四年十月十日文学士村上辰午郎氏ノ門ニ入リ一週間ニテ村上式注意術ノ教授ヲ受ク。
  第一日ハ催眠術ノ歴史
  第二日ハ暗示及在来ノ催眠法
  第三日ハ村上式催眠法及其学習
  第四日ハ実験(プランセツト)
  第五日ハ同ジク実験実習
  第六日ハ仝上
  第七日ハ治療矯癖法二三、
講義はあっけなく終ってあまり感銘もなかったというが、三日目の夜、早速妻にやってみて効果をあげてから病みつきになり、周りの人たちに次々に施術を試みる一方、村上辰午郎、福来友吉、その他の催眠に関する著書を読破して施術者としての自信を得る。
日本精神医学会の設立はそのような催眠術者としての自信の上に立って構想されたもの(略)

本書を読んでいると、あれこれ刺激を受けたので、今後も細部の補足をしてみよう。

*1:旧版を手放してしまって、写真は新版

創業150周年の丸善が明治28年に発行した図書目録

f:id:jyunku:20191029120600j:plain
今年が丸善150周年・実践女子学園120周年・実践国文100年記念ということで、「梶井基次郎と”神隠し”の京都展」が開催される。京都では、11月23日(土)~12月7日(土)丸善京都本店で開催。11月23日(土)には座談会(要申込・無料)もあるらしい。梶井や丸善とは無関係だが、同日は京都文化博物館大塚英志氏の講演会「日本のミュシャ・一條成美と明治のアール・ヌーヴォー」や人文研の「みることの広がり~1910-20年代の展覧体験」もあって大変である。
また、『學鐙』丸善創業150周年記念特別号(令和元年6月)も刊行された。目次の写真を挙げておく。
f:id:jyunku:20191029133308j:plain
巻末の「丸善150年史」を見てたら、

明治13年 『洋書目録』刊行開始
明治16年 『和洋書籍及文房具時價月報』発行

とあった。ここには出てこないが、丸善の図書目録を持ってたなと思い出して、発掘した。『和書目録』明治28年8月発行。丸善の目録自体はよく見かけるが比較的古いのと、表紙の黒地がインパクトがあって購入。昨年11月大阪古書会館で唯書房から。『丸善百年史』上巻(丸善、昭和55年9月)によれば、

丸善の図書目録は、明治十二年のものを最古として、明治十六年、明治十七年のものがあるが、その中には、他の書店と合同して出版したもの、また著者の依頼を受けて発兌したものもある。

とあった。ただし、CiNiiによると明治10年丸善商社(明治26年丸善株式会社に改称)が発行した『医書目録』を香川大学図書館及び関西大学図書館が所蔵している。私が入手した目録の「緒言」にも「医学及ビ衛生ニ関スル著訳書類ハ弊店ニ於テ別ニ医書目録ヲ印行致シ候」とあった。
f:id:jyunku:20191029133414j:plain
ところで、入手した目録に蔵書印(?)があった。陰刻と陽刻の組み合わせで、縦に「□周」、一字目が王、正、下、上に似ているがどれでもなさそうである。「NIJL 蔵書印データベース」の「詳細検索」で1行2文字・印文に「周」を含むものは9件、念のため2行2文字を見ると18件。どちらにも類例はないようだ。
f:id:jyunku:20191029133352j:plain
f:id:jyunku:20191030152410j:plain

書砦・梁山泊京都店の『戰前版内容見本書影輯成』



書砦・梁山泊京都店から『戰前版内容見本書影輯成』が届いた。同店が大量に所蔵する内容見本のうち、戦前分の極一部の書影をまとめたものらしい。すべてカラーの書影で17頁。頒価は千円で京都店で売ってるほか、郵送でも送料込みで千円とのこと。

内容は、

海外文学個人全集・・・『ジョルジュ・シメノン傑作集』(春秋社)など29点
海外文学叢書・・・『現代海洋文学全集』(改造社)・『世界猟奇全集』(平凡社)など53点
日本文学叢書・・・『日本児童文庫』(アルス)・『名作挿絵全集』(平凡社)など58点
日本文学個人全集・・・『真山青果全集』(大日本雄弁会講談社)・『一平全集』(先進社)など58点
思想思潮・・・『綱島梁川全集』(春秋社)・『川合清丸全集』(同全集刊行会)など53点
宗教宗教学・・・『世界聖典全集』(改造社)など17点
経済学経営学・・・『商店経営全集』(トウシン社)など29点
法律学政治学・・・『誰にも分る趣味の法律』(誠進堂出版部)など11点
歴史・・・『日本風俗史講座』(雄山閣)など23点
地理地誌・・・『世界探検全集』(万里閣書房)など17点
家庭教養・・・『民間治療全集』(春陽堂)・『修養大講座』(平凡社)など33点
科学工学・・・『万有科学大系』(同大系刊行会)など22点
美術工芸芸術音楽・・・『変態処方箋』(改潮社)・『妖怪画談全集』(中央美術社)など39点
辞書事典図鑑・・・『図書均一特売目録』(丸善京都支店)など9点

内容見本については、谷沢永一が全集にも収録されていない推薦文が載っていて貴重だと書いていたと思う。この内容見本群は掲載されていない物も含めて梁山泊が所蔵する分を一括して売るとのことである。内容見本をまとめて持っている図書館やミュージアムはほとんどないだろうから、コレクションの目玉にしたいという機関や大人買い(?)できる研究者は京都店に問い合わせられたい。どこかの図書館が持ってる初版本や散々研究尽くされた希覯本よりも、どこにもない内容見本コレクションの方が独自の価値があるだろう。
ちなみに、私も多少内容見本を持ってるので、写真を披露しておこう。

萩原朔太郎とまみえた「ぐろりあ・そさえて」の編集者にして早川孝太郎夫人宮崎智恵

「ぐろりあ・そさえて」という出版社については、「「ぐろりあ・そさえて」社員山田新之輔と竹内好 - 神保町系オタオタ日記」や「「ぐろりあ・そさえて」の若林つや - 神保町系オタオタ日記」などで話題にしたことがある。高橋輝次氏は『古本が古本を呼ぶ』(青弓社、平成4年5月)の「ぐろりあ・そさえて寸描」で同社の東京時代の社員として、「『コギト』同人でもある東京帝国大学出の詩人、山田新之輔や池沢尻、のちに檀一雄の妹と結婚した長尾良がいた。さらに同人の若林つや女史も編集部にいた」としている。今回、歌人宮崎智恵も社員だったことが判明した。入籍はされなかったが、民俗学者早川孝太郎の夫人である。
須藤功『早川孝太郎 民間に存在するすべての精神的所産』(ミネルヴァ書房平成28年11月)から引用する。宮崎と早川の出会いは、

宮崎は出版社「ぐろりあ・そさえて」の編集者で、早川の『農と農村文化』を担当、早川がナイトと書いたのを「騎士」と直したことに、「同じように私も直したいと思っていたところで、たいへん嬉しい。これからも、ぼくの文章を直してください」といったのが、親しさを増すことになったという。島根県津和野町に生まれた宮崎は文芸を深く理解するとともに、歌人として認められ始めていた才媛で、早川より三十若かった。

また、宮崎の「ぐろりあ・そさえて」退社については、

早川は「ぐろりあ・そさえて」に二冊目の『農と祭』の原稿を入れていたが、智恵は(昭和十七年)四月末日にそこを退職し、母と姉が住む山口市の家に帰っていた。

宮崎の入社年は、『花泉:歌集』(日本歌人発行所、昭和27年9月)の「後記」に昭和14年春、前川佐美雄と保田与重郎の言葉添えで入社し、「ここでの三年間は自分だけを見てゐてよかつた少女時代のをはり」としている。宮崎は「ぐろりあ・そさえて」で妻のいる早川と知り合い、退社後長野で早川と同居することになる。
ところで、宮崎は萩原朔太郎と出会っていた。『花鏡』(短歌新聞社、昭和61年7月)の「略歴」によれば、

大正4年6月 島根県鹿足郡津和野町生
昭和2年 県立津和野高等女学校卒。福岡県立女子専門学校国文科入学。のち退学
昭和12年 帰郷中の伊藤佐喜雄を識る。秋、伊藤の紹介により上京。保田与重郎に会う。萩原朔太郎中河与一邸などに連れていかれる。

朔太郎に会ったのは一度だけだろうか。戦後の『風祭:歌集』(甲鳥書林、昭和37年8月)に次のような歌があった。
 
 萩原朔太郎にまみえたる日は貧しくてわがたづさへし菊束小さき

古本が古本を呼ぶ―編集者の書棚

古本が古本を呼ぶ―編集者の書棚

公開された吉井勇日記と所在不明の金子竹次郎日記

吉井勇と河上肇の日記に記録された馬町空襲の真実 - 神保町系オタオタ日記」で言及した吉井勇の日記について、細川光洋先生による翻刻吉井勇 戦中疎開日記抄」『短歌研究』73巻11号(短歌研究社平成28年11月)を読んだ。非常に興味深い内容で、全文の刊行が期待される。一部を引用すると、

『洛東日録』
(昭和十九年九月)
二十一日 (略)大八洲書房に臼井君を訪ひ轉
居通知状を頼む。皈れば谷崎潤一郎君在り。ホツトケーキの午食を共にしたる后西本願寺にゆく。車中宇野君に會ふ。小寺、里田氏等満洲へ赴く由。二時頃西本願寺着(略)

「臼井君」は細川注によると臼井喜之助で、後に『吉井勇のうた』(現代教養文庫)を刊行とある。谷崎潤一郎も出てくるが、小谷野敦氏の「谷崎潤一郎詳細年譜」に谷崎側から見たより詳しい記載があって、谷崎も西本願寺に同行したことがわかる。
もう一つ引用すると、

『續北陸日記』
(昭和二十年十月)
廿二日(略)一旦皈宿の后大雅堂に田村君を訪ひて會談。小栗、田畑君等に會ふ。養徳社を訪ひたるも社員不在。用事を書き残して皈る。(略)萬屋主人金子竹次郎君来り、三十余年前の懐旧談。忘れたる事多し。(略)

大雅堂の田村は、「戦前の京都書籍雑誌商組合を牛耳った阿波グループの栄枯盛衰 - 神保町系オタオタ日記」や「関西で公職追放になった二人の出版人 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した田村敬男ですね。そして、夏目漱石も泊まり、谷崎とも交流があった文人宿萬屋の金子竹次郎。「京都の文人宿万屋主人金子竹次郎が残した日記 - 神保町系オタオタ日記」や「『京都人物山脈』(毎日新聞社)に万屋主人金子竹次郎 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したが、吉井や長田幹彦等が出てくる日記を戦後も所蔵していた。遺族を見つけて、日記や宿帳が残っていれば大発見になるであろう。
なお、大八洲書房(正しくは大八洲出版)及び大雅堂については、「『二級河川』16号の「戦時の企業整備により誕生した出版社一覧(附・被統合出版社名索引)」が超便利 - 神保町系オタオタ日記」参照