神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

谷村文庫の谷村一太郎は本当に東京専門学校卒か

京大附属図書館に谷村文庫がある。谷村一太郎の旧蔵書からなる特殊文庫だが、『京都大学附属図書館六十年史』(昭和36年3月)によれば、

谷村一太郎氏は明治4年(1891)富山県福光町の素封家に生れ、長じて慶応義塾大学に入学したが、のちに東京専門学校(早稲田大学)に転じ同校を卒業した。(略)

ホームページの「谷村文庫」の記載もこれに従っている。何年の卒業だろうかと調べてみると、大正4年版『早稲田大学校友会会員名簿』では、卒業生ではなく、明治41年推選校友となっていた。同書の「早稲田大学校友会規則」によれば、推薦校友とは

第三条 本会ハ早稲田大学教職員、卒業生、推選校友及準校友ヲ以テ組織ス。
 一、推選校友トハ左記三項ノ一ニ該当シ現在相当ノ地位アリ本会幹事会ノ銓衡ヲ経、大会ノ決議ニ依リ推選セラレタル者ヲ云フ
  イ、早稲田大学又ハ元東京専門学校ニ一学年在学シタル者
  イ(ママ)、準校友
  ハ、 早稲田中学校早稲田実業学校卒業者
 二、準校友トハ早稲田大学校外卒業生ヲ云フ。

校友会会員名簿の大正14年版、昭和10年版でも推選(推薦)校友扱いである。東京専門学校に1年(以上)在学して中退したか、早稲田実業学校を卒業した後、早稲田大学の推選校友となったのではないか。名古屋大学作成の超便利な「人事興信録データベース」(大正4年版・昭和3年版)で検索すると、谷村一太郎は立項されているが、学歴の記載はない。東京専門学校を卒業していようといまいと谷村文庫の貴重性には何の影響もないが、今後谷村の学歴に言及しようとする人は、何年に卒業したのか確認していただきたい。

京都の上野、岡崎にもあった博物館ーー平瀬與一郎の平瀬貝類博物館ーー

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「もし京都が東京だったらマップ」というのがネットで話題になり、本になったことがある。デパートのある四条通りは銀座、京大を有する吉田は本郷だそうだ。美術館、動物園、図書館がある岡崎は、上野だ。しかし、上野とは違って岡崎には博物館がない。ところが、大正時代に平瀬貝類博物館という貝類専門の博物館があった。
平瀬貝類博物館については、LIXILギャラリーの企画展「ニッポン貝人列伝/時代をつくった貝コレクション」でも取りあげられた。図録によると、平瀬與一郎によって、大正2年3月に開館。しかし、財政難で大正8年には閉館したという。平瀬については、Wikipediaに立項されているので、それを見られたい。クリスチャンで、貝類と関わるきっかけは、宣教師で同志社大学において博物学等を教えていたマーシャル・ケインズと宣教師で貝類の研究者だったジョン・ギュリックとの出会いだったという。6年ほどの短期間で閉館になった平瀬貝類博物館だが、伊良子清白が観覧していた。

(大正七年)
六月十日 月曜 (略)岡崎公園より平塚貝類博物館にいで一時間ばかり見物したる後かへる(略)
七月十八日 木曜 (略)午後より滋杪さんに子供らを大極殿平塚貝類館インクライン南禅寺永観堂等につれていつて貰ふ(略)

「平塚」は原文のママである。大人が5銭、子供が3銭の料金であったという。貝類専門の博物館だから、1回見たら2度3度行く人はほとんどいなかっただろう。短期間しか開館できなかったので、伊良子のように日記に観覧の記録が残るのは極めて稀だろう。
なお、写真は奥谷喬司監修『ニッポン貝人列伝:時代をつくった貝コレクション』(LIXIL出版、平成29年12月)から。原典は『平瀬貝類博物館写真帖』(平瀬介館、大正4年)。

ニッポン貝人列伝  時代をつくった貝コレクション (LIXIL BOOKLET)

ニッポン貝人列伝 時代をつくった貝コレクション (LIXIL BOOKLET)

堀内庸村と共に青年日本社(青年文化振興会)を創立した東白陵

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三密堂書店の100円均一台で東白陵という木津高校の教師であった画家の伝記を見つけた。牧野芳子『鹿背山の画教仙人東白陵』(平成12年7月)である。知らない画家だし、木津高校とは縁もゆかりもないが、略年譜の昭和7年の条に「堀内庸村氏と青年文化振興会[ママ]を起こす(全国の青年に対し純粋文化運動を起こす。昭和25年当時、京都府綴喜郡青谷村を中心に支部あり)」とあったので、購入。堀内については、わしも「もし書物蔵の畏友オタどんが戦後の堀内庸村を調べてみたら - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがあるが、何と言っても書物蔵「戦時読書運動の決定的瞬間:堀内庸村と国民読書」『文献継承』13号(金沢文圃閣、平成20年12月)に詳しい。あらためて見ると、昭和16年2月に「青年文化振興会」と改称される「青年日本社」の創立年(昭和13年)について、「東の伝記では1932年ごろのことであったとされる」とあった。なぜか書名が書かれていないが、本書のことだろう。
年譜から、東の経歴を要約すると、

明治31年 長崎県西彼杵郡生。本名克己
大正4年 沼津中学校卒業
大正5年 安田靭彦画伯に師事
昭和2年 川島理一郎画伯の主宰する金曜会に入る。
昭和5年 棟方志功とも親交を深める。
昭和18年 国画会の会友推挙
昭和20年 東京大空襲。大森のアトリエや模写その他の全作品を焼失。加茂の当尾に移り住む。
昭和25年 府立木津高等学校の図工科教師になる。鹿背山不動院に移り住む。
昭和33年 木津高校教師を退職
昭和36年 没

青年文化振興会については、本文中に「昭和七年、白陵は堀内庸村氏と青年文化振興会をおこし、全国の青年に純粋文化の運動を呼びかけるが、時代の流れに押されて消えてしまう。しかし白陵はこの時、感受性豊かな青年期にこそ美術文化を伝えることの大切さを、仲間と話しあった」とあるくらいである。東が持っていたであろう青年日本社の機関誌『青年日本』や日記も空襲で焼けてしまっただろう。『青年日本』は書物蔵氏が接触した堀内の遺族のもとにも無かったようだが、いつかどこかの均一台で出会えるだろうか。

伊良子清白の日記から見る岩田準一の文献収集

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南方熊楠福来友吉江戸川乱歩らが登場するというので柴田勝家『ヒト夜の永い夢』(ハヤカワ文庫JA平成31年4月)を買ってある。乱歩と親しかった岩田準一も登場するらしい。また、皓星社から『岩田準一日記』の刊行が予定されているようだ。そういえば、伊良子清白の日記*1に岩田が出てくるので、紹介しておこう。

(昭和四年)
七月二十九日 月曜 (略)宮瀬氏の弟、岩田準一君より来書、「安乗の稚児」を見たいから詩集を借覧したいとの事なり 返事をかき日本文学全集を河村氏にことづける(略)
七月三十一日 水曜 (略)岩田準一君より詩集返送 礼状来る

伊良子はこの時期は三重県志摩郡鳥羽町で村医をしていた。「安乗の稚児」は『文庫』明治38年9月号掲載で、『現代日本文学全集』37篇(改造社昭和4年4月)に再録されていた。
岩田の経歴は、『竹久夢二その弟子:絵入万葉集岩田準一画文集』(桜楓社、昭和54年1月)の岩田貞雄「亡父岩田準一」に詳しい。明治34年3月19日宮瀬東洋夫、岩田貞の三男として現在の鳥羽市に生まれた。生まれてまもなく父母は離婚し、母は実家の岩田姓を名乗り、準一を引き取った。大正14年神宮皇学館を中退し文化学院美術科に入学するが、昭和4年3月文化学院を中退し、鳥羽に帰っていた。兄の宮瀬規矩も変わり者だったようだ。

父の実兄宮瀬規矩も変りもので、神宮皇学館を卒業すると、新愛知新聞の記者となり、のちには朝日新聞の鳥羽通信部記者をしていた。短歌では伊良子清白に師事し、短歌雑誌「白鳥」を主宰していた。晩年は町内の大山祇神社宮司をして歿するが、変った蒐集癖の持主で、街道で貼られる映画のチラシ等、人が破り棄てるようなものを大切に保存して、一人悦に入っていたものである。

弟が弟なら、兄も兄もである。映画のチラシのコレクターでしたか。チラシが残ってたら、お宝ですな。岩田は昭和2、3年頃から乱歩と男色文献漁りをしており、5年には『犯罪科学』で「本朝男色考」の連載を開始している。伊良子の「安乗の稚児」も岩田の文献収集の一環だったのだろう。

竹久夢二その弟子―絵入万葉集 岩田準一画文集

竹久夢二その弟子―絵入万葉集 岩田準一画文集

*1:『伊良子清白全集』2巻(岩波書店、平成15年6月)所収

京都工芸繊維大学美術工芸資料館で「図案家の登場ーー近代京都と染織図案Ⅲ」展が始まった

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美術工芸資料館では「近代京都と染織図案」展として、一昨年「纏う図案」を、昨年「掌の中の図案」を開催した。第3弾の今年は「図案家の登場」である。→「京都工芸繊維大学美術工芸資料館
無料で10月6日(日)まで開催なので、皆様どうぞ(日曜日・祝日は休館。ただし、10月6日は開館)。構成は、第1章近代京都の“図案家”育成、第2章図案家の仕事、第3章近代京都の図案団体、第4章図案家の現在。第3章では京都初の図案研究団体である京都図案会についても言及されている。京都図案会については「明治期の京都における染織図案史の修正を迫る『京都図案会誌』を発見 - 神保町系オタオタ日記」で三密堂書店において見つけた『京都図案会誌』について紹介したところである。せっかくなので、国際博物館会議(ICOM)京都大会開催を記念して同誌の写真をアップしておいた。
参考:「日出新聞記者金子静枝と意匠倶楽部ーー京都市学校歴史博物館における竹居明男先生の講演への補足ーー - 神保町系オタオタ日記
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京大三高基督教義研究会と『フランダースの犬』最初の訳者日高善一牧師

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すっかり児童の姿が見られなくなった国際児童文学館で、小展示「大阪府立中央図書館 国際児童文学館 資料小展示「フランダースの犬 ―ネロとパトラッシュのさまざまな姿―」 - 大阪府立図書館」を開催中。日本における最初の翻訳書は日高善一(柿軒)訳『フランダースの犬』(内外出版協会、明治41年11月)だという。この日高の名前を最近井上照丸追憶記刊行会編『井上照丸追憶記』(昭和44年4月)中の藤林益三「井上君とキリスト教」で見つけた。

私は三高時代のアルバムを今でも大切にしているが、その中に珍しい写真がある。昭和二年二月十三日(日曜日)に京都の室町教会で日高善一牧師を中心に撮ったものである。当時京大三高基督教義研究会というのがあって、私はたしか井上君の紹介で参加したのであった。(略)読書会ではトマスアケンピスの著と伝えられる「キリストに倣いて」をエブリマンズ・ライブラリーの英語で読んだことをおぼえているし、今も三三一番として残っている「主にのみ十字架を負わせまつり」という讃美歌をともに歌ったことが思い出される。
当然のことであるが、日高牧師は私にも洗礼を受けて教会に属すべきことを折にふれて話されたが、私にはその意義がつかめないままに、ついつい足が遠くなり、出席しなくなってしまった。(略)
私の手許の写真には若い日に井上君と私のほかに京大生二人、三高生四人がいる。その中で私が今でも名前を知っている三高生は難波浩、浜田金太郎の両君であるが、この人たちのキリスト教も今はどうだろうかと、写真を見て思うのである。

井上と藤林は昭和3年3月三高文科甲類卒、浜田は同月文科乙類卒、難波は2年3月文科丙類卒後京大文学部へ。10人ほどの小規模な研究会だったようで、京大三高基督教義研究会だけの先行研究は無さそうである。あったとしても、『新約聖書全巻註解』で知られる日高や戦後最高裁裁判所長官となる藤林に関する人物研究の中で言及されているだけであろうか。
(参考)「昭和17年8月シンガポールで交錯したジャワ派遣の大木惇夫と日米交換船の鶴見和子・俊輔 - 神保町系オタオタ日記
追記:『京都府百年の年表』6宗教編(京都府、昭和45年3月)によると、大正15年1月19日京大・三高の基督教者有志が、三高帝大基督教研究会を設立、室町教会牧師の日高善一を招いて連続基督教研究講座を開く(『中外日報』1月9日)
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金魚コレクターの松井佳一が亡き息子に贈った『神を求めて』

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昨年かわじもとたかさんが上洛された際に、お土産として『日本蒐集家名簿』昭和13年版(日本古書通信社昭和13年6月)をいただいた。ありがとうございました。重宝しているが、例えば愛知県の項を見て見よう。92名の人名、住所、蒐集書目・研究事項が掲載されている。そのうち見覚えのある名前を挙げると、

石田元季 名古屋市 国文学、俳諧
惣郷正明 名古屋市朝日新聞社社会部) 幕末維新洋学書
樋口千代松 名古屋市 哲学、教育学
舟橋水哉 豊橋市 仏書
松井佳一 豊橋市 明治中期以前の水産雑誌図書、金魚に関するもの[、]魚一般

石田については「木村鷹太郎も真っ青、名古屋国語国文学会の織田善雄 - 神保町系オタオタ日記」、舟橋については「趣味人をつなぐ豊橋趣味会の舟橋水哉 - 神保町系オタオタ日記」を参照されたい。実は、松井については、ある本に出会うまでは知らなかった。その本に出会ったのは、数年前の西部古書会館の古本市。豊田珍彦『神を求めて』(欣魚荘文庫、昭和8年8月)という本である。棚にポンと置いてあって、タイトルにビビビと来た。中を見たが松井佳一の遺児博の追悼本であった。博の年譜を見ても、大正7年生、昭和8年没、16歳という若さで亡くなっているから、買いたくなるような経歴はなかった。ただ、昭和6年7月「平田式心療法をはじむ」とあるのと、私の好きな非売品、20丁の小冊子で、値段も300円なので拾っておいた。杉波書林出品。
古本漁りの後、古本フレンズ達と一服しながら、本書を書物蔵氏に見せると、あまり関心が無さそうであったが、何気に「発行者は松井佳一という人か」というと、横にいたトム・リバーフィールド氏が「著名なコレクターですよ。金魚関係の」と驚いていた。さすが、同人誌『二級河川』13号(金腐川宴游会)に「蒐集家人名事典(仮)・石川県編」を書いた人である。
松井についてはWikipediaに立項されているので、見られたい。本書は、松井の「上梓についての言葉」によれば、遺児の中学校入学の際の保証人でもあった豊田の稿本『神を語る』が「天皇中心主義による自然科学的宗教観ともいふ可きもの」で、筐底に私せられるのは勿体ないので遺児の冥福を祈るため、その一部を上梓することにしたという。内容に見るべきものはないが、松井佳一というコレクターを知ることができて、拾った甲斐があった。
奥付の「欣魚荘文庫」印の写真もあげておく。「蔵書印データベース」には本印とは異なるが、3件ヒットする。→「蔵書印DB欣魚荘文庫
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