神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大阪府立中央図書館国際児童文学館で精文館が発行した「幻の児童雑誌『カシコイ』」展開催中

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かつて北村宇之松(宇宙)が創立した精文館という出版社が存在した。『日本児童文学大事典』に一応立項されているので、そこから要約すると、

精文館 せいぶんかんしょてん
大正3年北村宇宙が神田神保町1丁目に創業した出版社。奈良生まれの北村が大阪の積善館で8年間修行後上京して創立。同社での経験を生かし、処女出版に村田素堂『カナの習字本』を出し、以後各種参考書を中心に刊行し、児童書では木村小舟の童話集『教育お伽はなし草』(大正7年)が特に知られ、月刊誌『カシコイ一年小学生』、『カシコイ二年小学生』を昭和7年に創刊。しかし、長くは続かなかった。(亀谷真弓)

この精文館が発行した学年別児童雑誌『カシコイ』に関する展覧会が大阪府立中央図書館国際児童文学館で今月30日(日)まで開催中である。昨年末から今年3月にかけて京都国際マンガミュージアムでも同種の展覧会が開催されたが、出品物は異なっている。
展覧会のきっかけは、京都新聞記者行司千絵氏による祖母の家での発見である。行司氏の祖父藤本卯一は北村の従兄弟で、精文館で編集に携わっていたのだ。詳しくは、『図書』平成30年11月号及び12月号に同氏による「精文館と児童誌『カシコイ』を探して」(上・下)が掲載されているので、見られたい。私が国際児童文学館に行った時は当該『図書』が若干置いてあったので、まだもらえるかもしれない。『カシコイ』は、童謡顧問北原白秋、童話顧問浜田広介、童画顧問初山滋、作曲顧問藤井清水だったというからそのレベルの高さがうかがわれる。また、新美南吉の「アメダマ」など5作品、浜田の代表作「泣いた赤おに」、白秋の「アマダレ」や小川未明「花とあかり」の初出誌でもあるという。
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国際児童文学館における展示の目玉は、北村の次女の家で発見された保存状態のよい原画で、田原利一、初山滋、前島トモ、鈴木寿雄、越智はじめ、池上重雄、黒崎義介の物が出品されている。掲載誌が判明している分は原画と該当頁とが並べて展示されていて、一興である。残り極僅かの会期だが、お近くの方は是非行かれたい。

三密堂書店の100円均一台で易者神山五黄の正体を掴むーー宮武外骨の仲人神山五黄とはーー

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易学書の専門店である京都の三密堂書店の100円均一台は昔から古本者がよく立ち寄るスポットである。水明洞無き現在、林哲夫画伯や扉野良人氏がいいものを拾ったという場合大抵三密堂だろう。さて、先日藤本一恵『東山五十年』(昭和53年3月)という私家版211頁の本を見つけた。著者は、明治45年和歌山県生、戦前は京都女子専門学校教授、戦後は京都女子大学教授兼京都女子大学短期大学部教授を務めた国文学者である。本書は藤本の退任記念に『女子大国文』『国文学学会会報』等に掲載した随想等を集めたものである。この中に神山五黄という易学者が出てきた。先ずは、会報から転載された藤本の元同僚千田憲「波の淡路」(『国文学会会報』30号,昭和40年2月)である。

(略)或る夜、五高以来の友人、神山五黄が細君帯同でやって来た(略)その細君は、金沢出身で、京都で、義太夫を語って高座の真打ちを務めた事もあり、京大ドイツ文学科の学生、神山と、芸が取り持つ、恋愛結婚の大あつあつの夫婦なのである。(略)

続いて、藤本の「波の淡路余録」(同号)。

(略)
千田先生五高以来のご親友、神山五黄先生には、ひよんなことで二度ばかり面謁した。昭和二十三年麦秋(略)京大ドイツ文学科出のインテリ陰陽師というに引かれ、浄土寺馬場町の五黄先生の門を叩いたのであった。ぜい竹を徐ろにさばいての先生の予言は九分通り的中した。

京大独文卒の易者がいたのかと驚いた。五高、東京帝大、京都帝大各一覧、国会図書館サーチ、木本至『評傳宮武外骨』(社会思想社、昭和59年10月)などで判明したことをまとめると、

神山義次(五黄)
明治? 岐阜県
明治41年6月 『龍南会雑誌』(龍南会)に千田憲らと共に「就任之辞」を掲載
明治42年7月 第五高等学校第一部独語文科卒。同級に千田(英語文科)
同年9月 東京帝国大学文科大学文学科入学
大正4年9月 京都帝国大学文科大学文学科入学
大正7年7月 京都帝国大学文科大学独文学専攻卒。同級に矢野禾積(英文学専攻)
大正7年11月8日 東京朝日新聞に鑑定料一円の広告
大正8年12月 『今年の運勢 大正九年』(発行文武堂書店、編纂所神山易断所)刊行
大正10年1月 『恋愛』(日本性学会)1巻1号に「男女和合の霊薬」掲載
戦時中 京都に疎開

京大卒業後直ぐに鑑定を始めていたことが分かる。『易占入門』(大明堂書店、昭和24年4月)には、「大学卒業後、周囲の猛然なる反対を押し切つて、易占家として世に立ち」とあるので、京大独文卒なのに・・・という意見が多かったのだろう。東大から京大に移っているが、東大の卒業は確認できない。なぜ京大に入り直したのだろう。
木本著によると、大正15年4月宮武外骨と小清水マチの結婚の仲人をしたという。斎藤昌三が『三十六人の好色家』等で仲人を西垣某としているが、横田謙三郎所蔵の同書に三田平凡寺による仲人は神山五黄という易者との書き込みがあるという。神山は趣味人のネットワークに属した人だったのかもしれない。そんな神山の悲しい最期が木本著に記されている。

自殺したマチ女と外骨の結婚の仲人をつとめた易者の神山五黄が二十五年夏に京都で人生を閉じている。「神山先生は自宅前の白川に架かる馬場橋で死のうとしたが、人目があって死ねず、自宅の手摺に紐を懸け首を吊って死にはった。私の離婚を当てたが、ご自分の運命がわからなかった」と隣家の女主人は語る。(略)

(参考)「宮武外骨の妻を寝取った松井史亨

評伝 宮武外骨

評伝 宮武外骨

エコール・ド・プラトーンの時代に哥澤芝虎編『哥澤撰』(クラブ化粧品本舗)

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知恩寺の古本まつりでキクオ書店の和本300円コーナーから見つけた哥澤芝虎編『哥澤撰』。驚いたことに大正14年3月クラブ化粧品本舗(現クラブコスメチックス)発行なので購入。印刷所は京都市西洞院七条の内外出版株式会社印刷部、65頁。定価の表示はない。
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内容は哥澤による「うた沢」の選集。仮名垣魯文、河竹其水(黙阿弥)、小原芝石、半井桃水、幸堂得知らの作品が選ばれている。そもそも、「うた沢」とは、上原一馬『日本音楽教育文化史』(音楽之友社、昭和63年4月)によると、江戸末期に端唄から派生したもので、節を品よく優婉、繊細に静かに長く延ばして歌われ、三味線の前弾きがあるという。芝派と寅派があり、明治期には初世哥澤芝金が河竹黙阿弥と交際してうた沢が歌舞伎に取り入れられたため、芝派が優勢であったという。本書には哥澤芝金律・河竹其水述の作品も掲載されているので、芝派の作品ということになる。編者の名前も「芝」虎である。芝虎の経歴は不詳だが、『演劇年報』1975年版(演劇博物館、昭和50年6月)の「一九七四年物故者年譜」から要約すると、

歌沢芝虎
歌沢3代目師匠。本名安田五三尾(いさお)
昭和49年3月6日京都で死去、66歳

とある。同一人物だとすると、本書刊行時は17歳位になる。
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大阪の本おや(本は人生のおやつです‼)で入手した『百花繚乱 クラブコスメチックス百年史』(クラブコスメチックス、平成15年12月)の「年表」で本書発行時のクラブ化粧品本舗(中山太陽堂)を見てみると、

大正11年5月 プラトン社から雑誌『女性』創刊
大正12年10月 小山内薫プラトン社をたよって大阪天王寺に移住。以後プラトン社関係の作家の関西移住が続き、時ならぬ大阪文壇を形成
同年12月 プラトン社から雑誌『苦楽』創刊(大正13年1月号)、好評売り切れとなる。
大正13年1月 大阪、東京の中山文化研究所開所式
同年 大阪の文化研究所で毎月「科学と宗教」講座を開き毎回3~400人の聴衆を集める。
大正14年11月 大阪の文化研究所で第1回「信仰と迷信に関する通俗科学展覧会」を開催
大正15年・昭和元年1月 プラトン社より雑誌『演劇・映画』創刊

こうした時期にどういう経緯でクラブ化粧品本舗から本書が発行されたのか、さっぱり不明である。国会図書館サーチ、CiNii、日本の古本屋で本書はヒットしない。それどころか、発行所がクラブ化粧品又はクラブ化粧品本舗の本が存在しない。エコール・ド・プラトーンの時代における謎の冊子である。
(参考)「大正モダニズム下のプラトン社を描く永美太郎『エコール・ド・プラトーン』 - 神保町系オタオタ日記

エコール・ド・プラトーン 1 (torch comics)

エコール・ド・プラトーン 1 (torch comics)

西田幾多郎門下の森本省念と鹿野治助

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寸葉会で大量の使用済み官製葉書から発見した1枚。100円。岐阜県の放光寺内の森本省念から京都学派の鹿野治助に宛てた葉書。消印が「12日」しか読めないが、「鹿野治助の日記から見た物語「京都学派」再び」などで紹介した架蔵の鹿野日記昭和22年8月13日の条にエスペラント(?)で「letero de Morimoto.」とあるので、消印は同月12日か。
森本の経歴は、半頭大雅編『禅 森本省念の世界』(春秋社、昭和59年4月)の「森本省念老師略歴」によると、

明治22年1月 大阪市南区心斎橋筋1丁目生
明治44年9月 第三高等学校第一部英文科卒
大正4年7月 京都帝国大学文科西洋哲学科卒
大正8年4月 浄土宗の寺に身を寄せ、寺男同様の生活をしながら、朝夕相国寺僧堂に通参。傍ら、福原隆成師に就き、浄土宗学研究
昭和8年 出家、相国寺僧堂に掛錫
昭和12年10月 僧堂暫暇、引続き通参、傍ら、花園大学で禅学、神宮皇学館大学で東洋倫理を講じる。
昭和20年5月 岐阜県美濃加茂市伊深正眼専門道場掛錫
昭和26年10月 長岡禅塾塾長
昭和59年1月 遷化

西田幾多郎の最初期の弟子から後輩宛の葉書と言うことになる。鹿野と森本が親しかったことは、昭和12年6月11日付け西田の鹿野宛書簡に「年に六回 亡 父母 姉 子供の為に読経御願ひしたいと思ふのですが森本君と御相談下され相国僧堂にお願して置く訳にゆきますまいか」とあることからもわかる。入手した葉書には表裏びっしりと書かれているが、判読できない部分も多い。
・鹿野が『霧隠余光』や『牧牛禅話』の在庫を問い合わせたようで、まだ沢山あると回答
・昨日美濃町の戦死者の遺族のもとへ授戒に行った
・肺病人や戦死者の未亡人を相手にして、無力感を感じたようで、「ココ迄くると田辺先生も鈴木居士も机上空論家」との記述
・鹿野が日本語よりもエスペラントで希臘の古典を翻訳することを切望する
などが書かれているようだ。拙ブログには宗教研究者の読者も多少いるようだから、森本に関心がある人もいるかもしれない。
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川端康雄先生の講演「ウィリアム・モリスと小野二郎」にオタオタ日記

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今日は大阪古書会館の「たにまち月いち即売会」に遅刻。何冊か掘り出し物があったが、それよりも某先生から嬉しい連絡をいただく。5月に世田谷美術館で開催された川端康雄日本女子大学教授の講演「ウィリアム・モリス小野二郎」で拙ブログの「小野二郎と妻悦子の出会い」に言及されていたという。いや、驚きました。今月23日までの展覧会「ある編集者のユートピア 小野二郎ウィリアム・モリス晶文社、高山建築学校」は行けそうもないので、図録を取り寄せたばかりでした。講演を聞きに行って、突然自分のブログが話題になったら心臓が止まるほどビックリしただろうなあ。

『精神界』をリアルタイムに入手していた藤岡作太郎

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藤岡作太郎は国文学者として知られているが、その経歴から言って宗教関係者の知己も多かった。村角紀子編『藤岡作太郎「李花亭日記」美術篇』(中央公論美術出版平成31年3月)の「年譜」及び村角氏の「解説」から一部を抜き出すと、

明治3年7月 加賀国金沢早道町生まれ
明治17年9月 石川県専門学校附属初等中学科に入学、同級生に井上友一・鈴木貞太郎(大拙)・松山米太郎など
明治20年 7月第四高等中学校予科第三年級に入学。教員に今川覚神。同級生に西田幾多郎、松本文三郎、金田(山本)良吉など
明治22年 西田・松本・金田・川越宗孝らと「我尊会」発会、自筆回覧誌『我尊会文集』を作成
明治24年 9月帝国大学文科大学国文学科に入学。哲学科1年に小谷重。後に2学年下の国文学科に佐々政一(醒雪)、哲学科に高山林次郎(樗牛)、姉崎正治(嘲風)などが入学。哲学科撰科に西田など
明治27年 7月卒業
明治28年10月 旧師今川覚神の誘引により真宗大谷派第一中学寮教授、同大学寮嘱託を兼任し京都に転任。生徒に暁烏敏。11月大学寮で『無尽灯』創刊、編集に携わる。
明治30年9月 第三高等学校教授
明治33年9月 東京帝国大学文科大学国文学科助教授となり、単身東京に移転、曙町あたりに下宿
明治34年2月 京都の家族をよびよせ本郷区山新町に移転

こうしたネットワークがある中、明治34年1月15日清沢満之、佐々木月樵、多田鼎、暁烏らにより雑誌『精神界』が創刊された。藤岡の日記には初期の同誌が出てくる。

(明治卅四年二月)
十五日 (略)
雑誌精神界二号[同年一月に清沢満之暁烏敏ら精神界発行所より創刊]送り来る
(同年三月)
十六日 (略)
精神界三号 無尽灯六巻三号 送り来る

[ ]内は翻刻者による補注

藤岡は創刊号が出た1月には京都にいた上、同月16日から25日分の日記がないのが残念だが、2号及び3号を入手していたことが確認できる。『精神界』は、暁烏編著『清沢満之の文と人』(大東出版社、昭和14年5月)の「清沢満之先生小伝」によれば

三十九歳明治三十四年の一月十[ママ]日に『精神界』第一号が発行せられた。二千部印刷した。二月になつて一手販売の東京堂へ行つて調べてみたら、四百部売れてゐた。当時の雑誌としては、先づ先づ成功であつた。(略)

当初2千部発行された『精神界』は暁烏が言うように売れたようで、3号の「社告」に1号、2号共に売切とある。この発行部数2千は「明治41年における雑誌の発行部数」で見たように明治40年代に入っても維持されたようだ。

稲岡勝『明治出版史上の金港堂』(皓星社)にならい出版史料を発見

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近代文学研究者や出版史研究者、更には明治文化研究者や社史編纂者などにとっても必読書の感がある稲岡先生の著が刊行された。『明治出版史上の金港堂 社史のない出版社「史」の試み』(皓星社)である。今後研究者は、稲岡先生が惜しげも無く披露してくれたトゥールや問題意識を最低限踏まえることが必要になったと言えるだろう。
さて、本書には「金港堂に関連のある図書」として、二葉亭四迷樋口一葉尾崎紅葉幸田露伴、山田美妙などの日記が挙がっている。出版史料としての日記は私も注目していて、「出版史料としての『柏木義円日記』」や「戦時下における内閲の一事例ーー秋田雨雀『山上の少年』の内閲をする上月検閲官ーー - 神保町系オタオタ日記」などで紹介したことがある。今日は、まさしく金港堂の出版史料としての村角紀子編『藤岡作太郎「李花日記」美術篇』(中央公論美術出版平成31年3月)を取り上げてみよう。

(明治卅四年三月)
廿七日 (略)朝金港堂の岩田某[僊太郎]来訪す(略)
(同年九月)
廿九日 (略)尋で教育界[月刊雑誌、金港堂より明治三十四年十一月創刊]の曽根松太郎来訪 原稿の催促す(略)
(明治卅五年一月)
十八日 (略)午后佐々氏(政一、号醒雪、当時金港堂編輯者で雑誌『文芸界』主幹)来訪(略)
卅日(略)午前佐々君来訪 絵画史のことにつき談あり(略)
(同年二月)
十日 (略)午后より南画論をかき始む[評論「南画論」『文芸界』創刊号、三月十五日発行に掲載](略)
(同年六月)
廿日 (略)金港堂に至り佐々兄をとふ 不在、小谷兄に面会しまた主人原[亮一郎、金港堂社主]にあふ 小谷兄に絵画史挿画のことを托して帰る(略)
(同年十二月)
廿三日 (略)絵画史指(ママ)画廿三枚校正して金港堂に送る 中三枚書直し(芳崖像切取りて添やる)(略)
(明治卅六年三月)
七日 (略)印を写して絵画史の表紙とせんとしてこれにかゝりて一日を費す(略)
廿日 (略)テガミ 金港堂より契約書封入
(略)
(同年四月)
四日 (略)
テガミ(略)絵画史校正始て来る
(略)
(同年五月)
十日 (略)
テガミ 金港堂へ 出版届捺印して送る
(略)
十七日 (略)金港堂に至り緒言、目次、索引、挿画等渡し了りこれにて近世絵画史の悉皆を了す 尚佐々氏としばらく談話し四時過帰宅す(略)
(同年六月)
廿四日 (略)午前金港堂より絵画史検印千枚トリに来る(略)
廿八日 (略)佐々兄また来る 絵画史一冊おいて行く[『近世絵画史』奥付には明治三十六年六月二十日発行とあり]
(同年九月)
三日 (略)
金港堂より絵画史初版に対する一三〇円送り来りあり
(略)

[ ]は翻刻者による補注。藤岡著の『近世絵画史』(明治36年6月)を巡るやりとりはもっと記載があるが、省略した。同月24日の条により初版1000部と分かるのが特に貴重だろう。なお、『近世絵画史』の発行の経緯については、村角氏の「解説 藤岡作太郎の絵画史ネットワークーー郷里・帝都・旧都ーー」 で取り上げられており、稲岡先生の「金港堂の七大雑誌と帝国印刷」『出版研究』23号、平成5年3月も参照されている。また、藤岡の日記の原本は石川近代文学館が所蔵しているが、金港堂からの書簡も存在するようだ。

明治出版史上の金港堂 社史のない出版社「史」の試み

明治出版史上の金港堂 社史のない出版社「史」の試み

藤岡作太郎「李花亭日記」(美術篇)

藤岡作太郎「李花亭日記」(美術篇)